1993年8月30日月曜日

テレジン

  この夏チェコ、旧東ドイツに遊んだ。ドレスデンからプラハに至る途中にTerezinという町がある。国道沿いに煉瓦作りの古い不気味な建物に出くわす。ナチス時代の旧収容所跡である。跡とはいってもほとんど建物は昔のままに残してあり、昔ここで何が行われていたか想像が出来た。人々が寝泊まりした木製の大きな棚、上の方からわずかしか光が入らない独房、絞首刑台、死ぬまで石を投げつける刑の場所などがそのまま残されている。
  ここはまた、ナチスの対外的宣伝映画が作られた所としても知られている。収容所に入れられた人々の中には有名な音楽家もたくさんいたことから、これら人々を動員し収容所内で演奏会を開き、それを映画にとった。ナチスはその映画を各国にばらまき、音楽家を保護し活動出来る場を提供していると宣伝したのである。映画がとられた後は即、アウシュビッツのガス室行きであったという。
  アウシュビッツのような収容所はナチス時代無数にあったが、もう一つWeimar近くのBuchenwaldにも立ち寄った。ここにはガス室・残留品・写真などが展示されており、想像しただけでゾォートするものばかりである。人間が持つ残虐さの一面を思い知らされた。ちなみにこの収容所はアメリカ軍によって解放されている。
  しかし、当時この政策を正当化する論理があったと思う。当時ドイツ人の大多数がナチスと共に行動していたということは、その論理が正しいと主張する人間がおりかなりの人が同調したことによる。
  論理は真理ではなく仮説といつも思っている。自然科学の世界では論理は実証されてはじめて真理としての理論となる。実証がなされるまではただの仮説にとどまる。仮説には詭弁がつきもの。決着は自然科学の場合実証・実験によってつけられる。
  今までもよく経験していることであるが、自然科学の世界では予想と全く逆の結果が出てくる場合がよくある。これがまさしく科学の創造的発展に結びつく。しかし後で考えるとその全く逆の仮説を唱えている人が必ずいるもので普通の判断ではその確率があまりにも小さくそれが正しいと主張もできず議論にはならないのが普通である。
  実験結果によって詭弁は有無を言わさず退けられる。議論では決着はつかない。故に、自然科学の世界では、仮説を立てる人と共に、実験により実証する人も同じ価値を認められる。ノーベル賞は常に両方の人に与えられているのを見ても理解できる。
  しかし、自然科学以外の世界では実証は歴史を待たないと出来ない。たとえ歴史を待ったとしても要因を決めそのための実験をした訳ではないので因果関係を100%確定できない場合が多い。政治、社会、経済などの活動は基本は人間の活動から発するものであり人間の感情・気持ち・意志が重要な源である。人間の意志が届かない自然科学の世界でさえ論理優先でない。まして、それ以外の分野で論理のみが優先することは恐ろしいことと思う。
  人間は理性を備えた感情・気持ちを持っており、大きな尺度としてこの理性ある感情・気持ちを無視することはできない。言葉ではいえない気持ち感情が物事の判断の最後の決め手になる必要があると思う。それを忘れたり、無視させる社会、集団は健全なものにはなり得ない。
  ドイツでは昔の過ちを忘れないように、この大切な人間の理性のある感情を常に刺激するため、これら収容所跡をそのまま保存している。確かにあまりにも残虐で見るに耐えず気分が悪くなるが、この見たときの感情を維持するためには絶対に保存すべきものと思う。再発を防止する唯一の手段はこれを見たときの気持ちそのものであり、論理ではない、とつくづく感じた。