1996年12月30日月曜日

ヘンゼルとグレーテル

  とうとう7回目のクリスマスを迎えることになった。このシーズン、昼間が極端に短くどんよりした空が続くので、6年前の12月デュッセルドルフに赴任した時、なんと陰気な所との初印象。さらには前任者との引継もしないうちにクリスマス休暇に入り店が開いていないことから食べるのも困るなど楽しい思い出は一つもなかった。

  その次のクリスマスは家族とともにローマで過ごしたがやはり店がほとんど閉まり、乗り物もすべてストップ、名所を歩いて回り不便さばかりを感じた。唯一心地良い思い出はバチカン内でクリスマス特別ミサに参列、ローマ法王のすぐ前でお煎餅を口にしたことである。ローマ法王のすべてを包み込むような表情には心がなごむ思いであった。クリスチャンでもないのにお煎餅を口に入れてもらったのであるが、実をいうと列席の最前列にいたものだから醜態を見せてはいけないと隣の人のまねをしただけであった。これはクリスチャンだけに与えられるものと後で聞いた。なにか珍しいものがあれば宗派などお構いなしに首を出したがる。日本人そのもの、後であきれかえった。

  そうこうしているうちに6年がたって暗いのは当たり前と体が覚えてしまい、むしろ暗い中にクリスマスのイルミネーションがきれいに感じるようになった。住めば都、時間が人を慣れさせてくれるようである。そして、12月の25日、26日は家でゆっくりするのがクリスマスの過ごし方とようやく悟り、それ以後旅行はクリスマスのあとでかけることになった次第。

  12月に入ると日本ではべートベンの第9交響曲のシーズンとなる。本場ヨーロッパではこの習慣は全くない。むしろ宗教的な曲が演奏され、しかも教会内のコンサートが催されることが多い。先日もデュッセルドルフの隣の町、メアーブッシュのセントステファニス教会のコンサートを聞くチャンスがあった。曲は時期的によく演奏されるバッハのクリスマスオラトリオ。今までCDで何回も聴いているが、教会でしかも生の演奏を聴くのは初めてであった。ソプラノ、アルト、テノール、バスのソロはプロの歌手、管弦楽はこの町の住民から選ばれたアマチュアの人々。そして合唱はこの教会を中心に活動している合唱団であった。もちろんパイプオルガンも備えた教会であるが今回の演奏はなし。バイオリンなどの音とともにチェンバロの響きが気持ちよく教会内に響いた。このオラトリオはクリスマスに関係するキリスト教のいろいろなお話をアリア、歌い語り、合唱、管弦楽を使い演奏会形式で表現する。これが発展し劇を演ずるようになったのがオペラである。キリスト教のことはもう一つ理解できないけれど、音楽は聴いていて気持ちよい響きを与えてくれる。人類の文化の一つとして今後も世界の人々を楽しませてくれるのだろう。

  もう一つクリスマスに忘れてはいけない催しものがある。年間を通じて12月だけ演じられるオペラ、それはフンパーディングの「ヘンゼルとグレーテル」である。あの有名なグリム童話のオペラ版である。日頃オペラには小さい子供は皆無であるが、この時ばかりはオペラハウスは子供達で誠に賑やかになり、まるでキンダーガルテン。魔女がでてきたり、食べられそうになったり、それぞれの場面で子供の歓声が上がる。普段のオペラではあり得ないことである。そして多い組み合わせは、おじいさん、おばあさんと孫の組み合わせ。お父さん、お母さんと同伴の子どもたちは少ない。子どもたちが初めて見るオペラがこの「ヘンゼルとグレーテル」、成長するにつれてこの思い出をもとにオペラに親しんでいくのである。その最初の案内役がおじいさん、おばあさんというのがヨーロッパの受け継がれた習慣のようである。

  クリスマスマルクトで有名なニュールンベルグ。昨年大変寒い中クリスマスイブを前にして訪れ、グリューワイン、レイプクーヘンを食べ、おみやげに教会合唱隊人形など買った。ドイツの雰囲気は十分経験させてもらった。今回はヨーロッパ生活最後のクリスマスであろうと思い、パリにいく予定である。もちろんクリスマスイブの前にである。ドイツとは違ったクリスマスの風景が見られるか興味あるところである。

1996年11月30日土曜日

マルティン祭

  ヨーロッパの祝日はキリスト教に関係するものがほとんどである。しかし国によって祝日は異なっている。日本では考えられないことであるがドイツでは州によっても異なっており、暦にはこの祝日はどこの州が休みか必ず記入されている。この11月も1日は万聖節(Allerheiligen 、カトリックでお祝いする日が決められていないその他の聖人達をまとめて祝う休日) はデュッセルドルフでは休日であるがベルリンでは休日ではない。また水曜日の20日は懺悔と祈祷の日(Buss-und Bettag)として全国的に休日であったが、今年から疾病保険休日の増加により祝日から除かれることになった。これら祝日の他に昔の聖人を偲ぶいろいろなお祭りがあり、その一つに11月11日のマルティン祭がある。
  11日の前夜10日(マルティンアーベントという)、子どもたちは学校などで自分で作った思い思いの提灯を手に持って町内を歩く。各家庭の玄関先でマルティンをたたえる歌を歌い、そのあとその家の人からお菓子をもらうのである。すでに11月のヨーロッパは日が極端に短くなり暗いどんよりしたうっとうしい雰囲気になるが、それをはねのけるように提灯をもって歩くことが子どもたちの年間の楽しい行事の一つとなっている。今年はたまたまその夜日本からの出張者をデュッセルドルフの旧市街であるアルトシュタットを案内、ちょうどこの子どもたちの行列を見ることができた。その夜はデュッセルドルフ郊外のレストランで夕食をとったが、この日は特別料理の鵞鳥づくし。前菜からスープ、主菜まですべて鵞鳥。もちろんホアグラも含まれていた。
  マルティンはローマ帝国時代現在のトルコに当たるところで、寒さで凍え死にそうな人に出くわし、自分のマントを半分切って与え助けたとのことでこの聖人をたたえこの祭りが行われているという。子どもたちの行列には馬に乗ったマルティン役の大人がこの真っ赤なマントを着ることになっている。この聖人をトゥール大司教にすべく人々が探したが、本人はそのような地位につくことを固辞し隠れていた。しかし、鵞鳥がガーガーと鳴いてマルティンの居所を教えたということから、この時期鵞鳥を食べることになったという。もう一つ理解のできない理由付けがなされているが、実際にはこの時期最も脂がのっておいしことから鵞鳥を食べるのが真相らしい。
  小さいときからマルティン祭を楽しみ、歌を歌いながら家々を回り人間として身につけなければならない当たり前の価値観を無意識のうちに子供に学習させている。この習わしはキリスト教世界でいかに子供を育てるか、その一面を見るように思う。
  ドイツで11月唯一の祝日となった11月1日の万聖節、今年は金曜日になり土曜と日曜で3連休となった。1日から2日にかけて先祖の魂が戻ってくるとされお墓参りをすることになっている。ちょうど日本のお盆と同じ習わしである。しかし、駐在している我々はこの休みを利用して旅行に出かけることが多い。ドイツへ来た年も3連休になり家族で初めてのロンドン・パリ旅行をしたのを覚えている。いままで行っていない所はと探したところ、アイルランドが残っていた。今年はすでに子供達は日本へ帰国してしまったので、夫婦二人で秋深まるダブリン、ベルファーストを訪れることになった。
  アイルランドでは11月1日は祝日ではなく通常通り店は開いていた。北アイルランドのベルファーストとアイルランド共和国のダブリンは電車で約2時間半。ベルファーストの方がダブリンよりぎやかでアイルランド共和国の人々が車・電車で買い物に簡単に出かけている。ベルファースト中心部のシティセンター通りには武装した警官、甲装車が警備にあったている光景を見て、アイルランド紛争は事実と認識する。しかし、町中は活気が見られ武装警官がいなければ紛争など気づくことはない。
  ちょうど山並みをはさんで北アイルランドとアイルランド共和国は別れており、その国境近くの北アイルランド側の町にはユニオンジャックが掲げられ、ここからイギリスと知らしめているようである。世界の至る所で解決の糸口が探せない紛争がたくさんあるけれど、そのうちの一つがアイルランド紛争。こちらの方は人種問題よりも昔ながらの宗教戦争である。その根源はクロムウルのアイルランドへの新教による侵略、その時の残虐な行為が未だに尾を引いている。
  元々カトリックの国であったアイルランドはその後新教たるイギリスの支配になり長い間独立のための戦いが始まる。ようやく第二次大戦後アイルランド共和国の独立が認められたが、新教の人たちが多い北地区はそのままイギリスに残り分断状況となり現在に至っている。しかし、アイルランド共和国では国旗に描かれているように、95%のカトリックと新教とが融和するように三色になっており理念はあくまで融和。北アイルランドでは逆に新教が大多数でカトリックは表面上では差別はないというが潜在的に差別があるという。このような現状から、北アイルランド独立の運動がいまだに続き、テロ事件が続発している。
  世の中5%の極端なものがいれば、その反対の極端なものも5%おり、20%はどうするか迷っている人、そして残り70%は無関心な人との分析をした人がいるが、このような紛争の発端はこの極端な5%の人間のなせる技。5%で全体を動かすには結局は相反対する極端な5%を抹殺すれば後の90%をコントロール出来るという方法論。そのやり方は、ごり押したる武力的方法、あるいは詭弁をたっぷり含んだ理論整然たる発言で反論を許さない言論抹殺の二つの方法があるようである。
  クロムウェルによるイギリス新教の清教徒革命はこの二つの方法論を駆使して達成されたもののような気がする。それ故まもなく反動でこの革命も続かず、本格的な市民革命は結局名誉革命まで待つことになったのではないか。このクロウムウェルが犯した大きな過ちが今もアイルランドの人々を苦しめていると言える。
  同じキリスト教の世界でマルティンとクロムウェルと歴史に名を残した人物がいる。国を越えた多くの人々の共感が得られるからこそマルティン祭は続いているものと思う。しかし、クロムウェル祭はイギリスではありえてもイギリス以外の国ではあり得ない。ましてやアイルランドでは拒否されるだろう。より広い世界で、より長い目で物事を見て、普遍的な判断が出来る人間になりたいものとつくづく思う。

1996年10月30日水曜日

ギムナジウム

  海外勤務で困ることの一つに子供の教育がある。将来とも海外で生活することが確実ならばその国の教育システムに乗せその国で教育を終えることもできるが、駐在員の場合ほとんどはいずれ帰国し日本の学校へ通わすのが普通で、帰国した後の編入・入試は大変なハンディになるとされていた。我が次女の場合デュッセルドルフの日本人中学校を卒業後、高校一年からアメリカ系インターナショナルスクールに通い今年6月卒業した。今、日本へ帰国し受験勉強中である。
  しかし、外国の教育システムで2~3年教育を受けると普通の一般入学試験ではなく特別帰国子女枠での試験が受けられるという特権が与えられるようになった。そのおかげで一般入試では合格出来そうもない学校にもいけるようになった。実際、デュッセルドルフインターナショナルスクールからは毎年そのほとんどの卒業生が国立のトップ大学、私立のトップ大学に入学しているのを見るとこの制度の特徴が良く理解できる。わが次女も今回その恩恵にあずかることになった。
  ここドイツでは日本のような大学をめざした受験戦争はほとんどない。小学校4年生で将来の進路を決めるのはちょっと早すぎるとは思うけれど、4年の後5年生からはそれぞれの進路に別れていく。大学をめざすのはギムナジウムという9年制の高校である。大学をめざさない子達は実業高校などに進み就職し、再度技術を身につけるためにマイスター学校へ行きマイスターの資格をとる場合も多い。この場合必ず実務経験と共に理論もマイスター学校で修得するようになっている。ドイツの有名なマイセンの陶磁器技術もこのマイスターによって支えられており、世の中からその技術は高い評価を得ている。
  なぜ受験戦争がないのか。大学進学コースであるギムナギウムの入学には大変な競争があるのではとの疑問が出てくる。しかし、現実には日本のような中高一貫の私立中学めざした小学生の異常な塾通いは見られない。それはギムナジウムにたとえ入っても2年間は仮の期間で入学後は毎日大変な宿題やレポート課題が出されそれについて行けなければ退学となるためである。定期試験に合格点をとるのみならず毎日の課題をこなすことが必須である。たとえ2年過ぎたとしてもこのような環境はずっと続くためその後にも退学、実業高校へ編入する人が結構いるという。知り合いのお子さんがギムナジウムに通っているが、入学時1クラス32人いたのが5年経った今24人に減っているという。ついていけず退学して行ったのである。それ故みんなが無理して入っても意味がないと判断しギムナジウムに子供が殺到しないことになる。とはいってもギムナジウム希望者は増える傾向である。選抜は小学校の先生の推薦が重要な役目をはたす。先生、子供、父兄の三者で話し合って進路を決めることになっている。父兄がぜひともと依頼することもあると聞くが、入学しても結局は退学することが多いという。
  それでは塾は皆無かというとそうではない。数はわずかであるがナッハヒルヘ(Nachhilfe)という民間の補習塾がある。これは文字どおり、ギムナジウムに入った後ついていけない子供を助ける目的で民間の人が独自に営んでいる。能力のある子にとっては学校と家での自発的な勉強が当たり前になっており塾など不要との考え方が一般的である。
  ギムナジウムでは単位を取ると共にアビトゥアという大学入学資格試験に合格すれば大学入学資格を得ることが出来る。これは定員何名というものではなく各学科のある点数以上をとればとれる。また合格したからといってすぐに大学に入れるとは限らない。資格をとればドイツのどこの大学にも入学出来るが、定員があるため自分の希望する大学の欠員がないときは待つことになる。そのときの決まる順序はアビトゥアの点数の高い人から決まる。基本的には日本のように偏差値による大学のランクづけのような考え方はなく、各自はおのおのの多様な目的に従って大学を選んでいる。各大学の格差が少ないこともこのような選択を可能にしている。それでも、医学部の人気が高いのは日本と同じであり、福祉国家ドイツでは同じように福祉関係の学部、獣医学部も大変人気があるという。
  そして大学に入る時期はそれぞれバラバラ。要するに欠員が出来れば次の点数の学生に入学許可が出され単位をとり始めることになる。全員を集めた入学式、卒業式などない。卒業も必要な単位を取り、論文が通ればその時点で卒業、時期は決まっていない。だから入学もバラバラになるわけである。
  ドイツの大学は年限的には日本の大学2年から大学院修士1年までの4年間で、単位は非常に取りにくく4年で卒業する人はほとんどなく、ましてや最低年数2年で卒業する人もいない。早い人でも5年、普通6~7年という。ドイツの大学を出ると与えられる学位Diplomは日本では修士に相当し、その上は博士コースとなる。もう一つ忘れてはならないのがドイツでは小学校から大学まで授業料は無料、どんな貧しい家庭の子供でも能力さえあれば勉強できる。ドイツの活力はこのような教育制度に支えられているところが大きいと感じる。
  ドイツのみならず我が娘の通っていたインターナショナルスクールも日本とはあまりにも違いがある。毎日たくさんのレポート課題が出る。それをこなすには毎日深夜1~3時までかける必要がある。しかし、必ずしもすべてこなす必要なく、できた範囲でも良いのである。しかし、成績は定期試験とともにこの毎日の課題が重要なウェイトを占めることになる。
  また課題は難問を解くのではなく、調べて考えをまとめてレポートを書くのがほとんど。数学、物理、化学の場合は確かに問題を解くという宿題も出るがその問題は習った定理、法則を駆使して解く難問はない。本質を理解させるように工夫した問題ばかりである。自然現象の本質を理解していない場合にはかえって受験の難問より難しい。
  さて日本はどうであろうか。小学校からの塾通い。東京本社に勤務していたとき夜遅く地下鉄千代田線西日暮里駅からどっと乗ってくる塾から帰宅する子達の群を毎日のように見た。日本では当たり前になっている光景であるが誠に異常である。人間としての生き方を無意識のうちに形成していく幼稚園、小学校時代、試験の点だけが人生の目的のような生活。幼いとき子供らしい正常な生活を送り自我が確立してからの受験勉強は目的と手段の区別がきちんと認識され問題は少ないけれど、まだ頭脳細胞の回路がつながりつつある時点での点数至上主義の生活体験は、無意識のうちに偏狭な価値観、特権意識を植え付けていく。昔軍人、いま官僚。このような幼少時代の異常な生活が生んだ結果と私は理解している。
  ドイツへ来て2年目の夏、日本のトップ大学医学部の教授がハノハーでの学会の出席のため来欧された。わが社も医薬事業があるため今回はわが社が面倒を見ることになり、ちょうど医薬担当の駐在員が夏休みであったため私が一週間アテンドさせていただいた。非常に気さくな方で話しやすく安堵したが、そのときのその教授の話。我が医学部に入ってくる連中はほとんどが6年制の中高一貫私立高校出身者で占められ概して入学後の成長は鈍く、大学院に至ってはほとんどは他の大学から入ってくるとこぼしておられた。
  大学はすでに知られた法則を駆使して難問を解くことが目的ではない。今までにない事実の発見、法則の発見、新しい技術の創造など無からのクリエーションが目的である。それには物事に対するこのうえない興味と持久力のある探求心、それに加えて思考の過程で、子供の時から大人に至る無意識のなかでの生活体験から出てくるちょっとしたヒントが効いてくる。記憶力がよいとか問題の回答を早く導き出すとかいう能力とはまた違った、別のパワーが必要とされる。
  明治以後、後進国日本は欧米にキャッチアップするため今の教育制度を完成させた。現在韓国、台湾、中国、東南アジアなど発展途上国といわれる国々も、大学へ入るための競争は日本と全く同じ様相と聞いている。日本の社会レベルはすでに欧米に届いたにもかからわず、その人の養成方法は現在の発展途上国となんら変わらず欧米キャッチアップ型のままであるということである。これから先、日本はお手本のない世界を歩こうとしているのにこのままの人材育成体制ではお先真っ暗と心配する。これからは、人間のクリエーションをいかに引き出すかという所に重点を置いた教育体制が望まれている。ノーベル賞の自然科学の分野ではダントツに欧米からの受賞者が多いのはこの教育の基本的違いから来ているのであろう。
  解決法はないのか。教育の改革は非常に難しいようである。なぜなら制度として改革が出来る立場にある人々は今の受験戦争の中での勝利者であり疑問を感じることがないからである。今から思うとちょうど我々の大学時代の全共闘運動が現在の教育の問題点をいち早く察し改革をめざしたもであったのかと思える。全共闘運動挫折の後日本の教育はいまの現状にまっしぐらに進んで行ったと言える。
  インターナショナルスクールを卒業した学生は一般受験なら合格するはずがないトップ大学に入学して立派な学業成績を残しているという。むしろ受験勉強を勝ち抜いた有名高校の学生よりも伸びるとの話も聞く。このような実績がはっきりしてきたことから帰国子女枠採用の大学が増えている。これはインターナショナルスクールでの勉強法は大学のようなクリエーションの世界では有効であるとの証明であろう。しかしそれだけではないと考える。クリエーションのパワーはいろいろな所に潜在している。受験競争を勝ち抜いた人にももちろんその可能性はある。さらには落ちこぼれていた人、就職経験のある人、それぞれにクリエーションの可能性はある。クリエーションの世界とはこのような多様性を基盤として開けていくものと思う。
  日本の高校卒業者で受験戦争に加わっていない人の中にもクリエーションの世界では活躍できる可能性のある人がたくさんいると考える。改革の基本は帰国子女のような特別選抜の枠をもっとを広げ、一般入試をやめることではないかと思う。すでに工業高校卒業生だけの枠、一点能力だけで選抜する方法、推薦制度など実施されている。しかし、一般入試をそのまま残しておいては逆に大変な不公平である。一般入試を全廃し、すべてそれぞれの特徴ある多選抜方式を採用するのが唯一の解決策のように思う。定員100名なら30名は公立普通高校から、25名は6年制私立高校から、15名は社会人から、15名は実業高校、10名は高等専門学校から、5名は帰国子女などのように。そしてそれぞれの試験はそれぞれに適した違った尺度で選抜する。まずは国立のトップ大学がこのような改革を英断すれば日本の教育も21世紀に向けたクリエーションを尊ぶ体制に変換できるのではないかと思う。
  デュッセルドルフで実際あった話。まだ小学校低学年のお嬢さんがいる若い夫婦が、同じ頃デュッセルドルフにやってきた。近所同士で、しかも日本人小学校も子供が同じクラス、すぐに親しくなり家族ぐるみのおつき合いが始まった。塾(デュッセルドルフにも日本人目当てに塾が進出している)の他にいろんな習い事で両お嬢さんとも時間を刻むような毎日の生活。ある日学校で一方のお嬢さんがもう一方のお嬢さんに「お父さんは日本で一番難しいA大学を出てるの。」といった。一方のお嬢さんも「うちはお父さん、お母さんともB大学(日本で2番目に入学が難しいとされている大学)出ている。」とやり返した。そしてある日学校で物がなくなる事件が起こった。すぐにA大学のお嬢さんがB大学のお嬢さんに「あなたでしょう」と疑いをかけた。その夜、B大学の奥さんがA大学の奥さんに抗議の電話をかけた。A大学の奥さんが「当家としましては今後おつき合いしかねます」といって絶縁状態になってしまった。気まずくなったのか、まもなく両奥さんとも子供をつれて帰国、今では両ご主人とも単身でデュッセルドルフ暮らしをしておられる。個人的に両方のご家族とおつき合いがあったことから、言葉をはさむこともなくこのような話を両方から聞いた。今の教育体制が生んだまことに先の思いやられる出来事と思った次第である。

1996年9月30日月曜日

クロムフォルド

産業革命当時の紡績機械
(クロムフォルド工業博物館)
 その昔、文明としてはヨーロッパよりも中国、中近東のイスラム世界が進んでいたことは、ヨーロッパが絹、羅針盤、天文学など古い文明をむしろ導入した事実から理解できる。しかしこれら中世までの状況は産業革命を節目に一変する。18世紀の後半,イギリスでアークライトが初めて綿紡績の機械を発明、さらにはカークライトが力織機を発明、ここに近代工業がはじまったというのは中学の時習った世界史。18~19世紀の大英帝国の繁栄はここがスタートであった。その中心はダービシャインから北ランカッシャーの地域である。しかしその本格的なスタートの場所がダービーシャインはクロムフォルドであるというのはあまり知られていない。
  1769年アークライトは水力による紡績機械を発明し、まずは小さな規模で生産をスタートした。その場所は現在日本の一合繊メーカーの織物工場もあるノッティンガムである。そして事業を本格的に進めるために1771年に本格的な工場が建てられた。その場所がクロムフォルドという町である。本格的な産業革命はこのクロムフォルドから始まったといえる。この地区には今でもコーツビエラなどのイギリスの伝統あるテキスタイル会社があり幾度となく訪問したことがある。現在では古い煉瓦の工場は一見廃墟のように見えるけれど内部には最新の機械が入れられ付加価値商品の製造が続けられている。地球上で欧米が先進国となった理由は産業革命をいち早く成功させたことの一言につきる。
  イギリスに遅れてヨーロッパ大陸でも産業革命が起こるのであるが、そのスタートもやはりクロムフォルドであることもあまり知られていない。この9月、その産業革命がスタートした旧工場の跡を改造し新しく工業博物館が開館した。その場所はデュッセルドルフから北10kmの所にあるラッティンゲンの町で、その一角はやはりクロムフォルドと呼ばれている。これは、イギリスのクロムフォルドの技術をそのまま大陸に初めて導入、名前まで同じにしたためである。イギリスに遅れること13年、1784年に工場は生産スタートしたという。当時と同じ大きな水車による動力を、皮製のベルトで伝導し、カードから粗紡、精紡の木製の機械を運転して見せてくれる。その後蒸気機関の発明により動力は蒸気になり、さらには電力に変遷してゆく。この近くルール地方には豊富な石炭が産出し,そのエネルギーを使用してこの地区はドイツの重要な工業地帯に発展していったのである。
  スタート当時,安い労働力を求めて,学校に行けない子供を働かせ,一時は500人の労働者の内400人が子供で,残りは女性だったとの記録も展示されている。学校にも行かせず、週6日、毎日12時間の労働をさせてほとんどの子供は健康を害しているという状況の中から、ようやく約70年後に子供保護法が制定されたが、それでも実体は学校6時間、労働6時間となったにすぎなかった。子供の労働がなくなるにはさらなる年月が必要であった。このような初期資本主義の利潤第一主義が作り出した悲しい歴史も展示されている。
  対照的に、この工場を作った人、ビュリゲルマンの自宅はお城のように飾られ、内部は天井、壁に美しい絵が描かれている。工場に接しているこの自宅は別名クロムフォルド城と呼ばれ博物館の一部として公開されている。まさしくお城である。当初の繊維産業がいかに利益のあがる事業であったか。多数の人々の犠牲のもとに産業革命は進行していったことは容易に想像できる。
  まずはイギリスが世界を制覇し、それに遅れてドイツが近代的工業を発達させるが、ドイツは世界の領土分捕り合戦への遅れのあせりからイギリスと対立し第一次世界大戦を引き起こすことになる。さらには第一次世界大戦後の多額の賠償の負担から逃れるためまたまた戦争を引き起こす。このような暗い歴史の大きな原因は結局は産業革命により豊かな物質社会になったにもかからわず,人間の心はまだ貧しく未熟であったためと考える。その未熟さとは弱肉強食の考え方である。生物学的な食物連鎖としての弱肉強食は自然原理と思うけれど、これを理性ある人間社会に適応することは普遍性がなく詭弁である。人間社会の歴史は弱肉強食という詭弁からの克服の歴史でもあるようである。
  この9月,もう一つの象徴的出来事があった。それはルール工業地帯の代表的鉄鋼会社ティッセンの巨大なオーバハウゼン工場跡地に、スポーツ設備、映画館、大ショッピングセンターなどからなる新しい町が2年の準備を終えて開場したことである。産業革命、戦後復興の象徴であった重化学工業のような大量生産型産業は、今ではコスト的に東南アジアを中心とする発展途上国に移転せざるを得なくなった。ルール工業地帯も鉄鋼産業は僅かになり、煙突が建ち並びそこからもくもくとでる煙りの風景はもう見られない。この大レジャータウンのすぐ北にわずか小さなボタ山の跡が見られるだけである。この新しい町は毎日大勢の人々で賑わっている。
  18世紀以後の産業革命を第一次産業革命とすればこの10数年前までは第一次産業革命が続いていたと言える。その流れは、大量生産、効率第一、利潤第一、拡大第一、資源は無限という考え方。しかし、多くの人がその恩恵を享受すると同時にまた、逆に、子供・少女の労働、ばい煙公害、河川の汚染、水銀中毒、オゾンホール、CO2による温暖化、酸性雨などたくさんの人々の犠牲と地球破壊も作り出した。ようやく問題意識が芽生え、欧米を中心に価値観の転換が進められている。
  それは人間として、地球人としてどうあらねばならないかとの観点での実践である。労働環境の改善、労働時間の短縮などはすでに戦後改革が進んできたが、これからはさらに地球規模でのテーマ、セ゛ロ・エミッション、バイオメデレーション、リサイクル、温暖化・酸性雨対策、有限資源の有効利用、ライフサイクルアナリシスなど、検討課題が続々と出てきている。
  すべての人が人間らしい生活が出来る社会となるには産業はどうあらねばならないか、このような考え方で物事を判断することが地球と人類への損失を少なくし、結局はそれがビジネスのメリットになるとの見方。これがまさしくこれからの産業革命,第二次の産業革命ではないかと思う。まだ第一次産業革命の意識から脱皮出来ない人が多いけれど、時代はすでに第二次産業革命が着々と進行しているのを実感する。
  先日の新聞で科学技術論学者の山田国広さんが、それぞれの家庭で“環境家計簿”をつけることを提唱している。企業のみならず家庭でも意識改革が必要になってきているようである。

1996年8月30日金曜日

子犬のワルツ


 
延々と続く石炭搬送用コンベアベルト
 
ヤスナグラ僧院(現ローマ法王の出身僧院)
旧ナチスビルケナウ収容所跡
  子供のころ我が家には親父時代からの骨董品のオルガンがあった。そのころは音楽にそれほど興味もなく触れることは全くなかった。中学になって京都市中学音楽祭があるということで音楽の教師が急遽人選して合唱団を作ったとき、偶然その人選に引っかかった。これが私と音楽とのつきあいの始まりであった。放課後は音楽室で過ごすことが多くなったが、その時上級生のピアノ部のお姉さんが華麗にピアノを弾いていた。その曲はショパンの「子犬のワルツ」。私も弾けたら楽しいのではないかと思い練習を始めた。学校ではピアノ、家ではボロボロのオルガンをたたき始めた。ピアノ部の女性のようには華麗ではないけれど、ようやく弾けるようになったときの感激は今でも覚えている。
  この夏休みの後半はポーランド一周のドライブ旅行。昨年ボランティア活動でドライブしたときはベルリンからの国境越えであった。しかし、車の長い行列に出くわし国境を通過するのに2時間も費やした。今回はそれを避けるためドレスデンから入ることにした。予想していた通り国境での行列はほとんどなく10分で通り過ぎることが出来た。しかし、ポーランドに入ってまもなく高速道路を走り出したとたんお腹をえぐるようにドンドンという振動が伝わる。外観は立派な高速道路であるが表面は凸凹。振動が激しくスピードは90km以上出せない。5年前の旧東独の高速道路と全く同じ。旧東独ではまだ依然として道路の改修工事は続いているが、ドイツの経済力でこの5年間でかなりの部分が旧西ドイツのレベルになってきた。しかし、ポーランドでは高速道路の改修は後回しのようで、むしろ普通の国道が先に美しくなっていた。昨年の時よりさらに一般道路は走りやすくなっている。
  ポーランド南部のカトヴィツェを中心としたシレジア地方は石炭鉱山を基盤として鉄鋼など産業が発達している。ドライブしていると大きな何キロもあるコンベアベルトに出くわした。鉱山から石炭を鉄鋼などの工場へ運ぶコンベアベルトである。15年ほど前、旧共産圏から石炭用コンベアベルトを日本が大量に受注、その基布になる織物をたくさん設計したことがあるが、その製品を使用したと思われる巨大なコンベアベルトをはじめて見ることが出来た。まわりには至る所に炭坑があり、また大きな火力発電所が見られた。この地方は産業が発達、庶民の家も美しく、活動も活発で西欧と変わらない豊かさが見られた。

  このシレジア地方の東にポーランドの古都クラッカウがある。第二次世界大戦にも破壊されることなく昔の建物がそのまま残っている趣のある町である。その一角に有名なユダヤ人街があり、ナチス時代のゲットーの建物がそのまま残されている。歩きながら映画「シンドラーのリスト」を思い出す。一時的にこのゲットーに集められ、まもなく最後に追い立てられてアウシュビッツに運ばれる。その現場がここなのか。このようなことがもう二度とないように広場には犠牲者を弔う碑が建てられている。
  また車で約1時間の所にはアウシュビッツがある。人間世界のもう一つの、価値観が一つしかない世界の恐ろしさを再度見せつけられる。アウシビッツ近くのビルケナウ収容所は、いままで訪れたことのあるブーヘンバルト、テレジン、ダッハウの収容所より、とてつもなく広大なものであった。粗末な煉瓦の土台に木でバラックが造られている。隙間だらけで、今冬経験したような -22℃の時にはたくさんの人々が殺されるまでもなく凍え死んだのではないかと思われた。壁に書かれた標語「Sauber Sein ist Deine Pflicht.」(きれいにしておくのはおまえの義務)は誠に冷血な響きを伝える。
  ポーランドの歴史でユダヤ人はポーランドに同化し、ポーランド文化の一翼を担っていた。しかし、何百万人という人々がガス室から消え、今ではわずか数千人という。50年後、イスラエル大統領がドイツ国会で演説した時の言葉が思い出される。「ナチスが殺害した人々が生きていたならどれほどの書物が、交響曲が、科学的発明が生まれていたであろうか」。人類にとって永遠に記憶にとどめなければならないことと感じる。
  ポーランドで忘れてはならない町の一つ、チェンストホーヴァーにも立ち寄った。ローマ法王パウロ二世の出身地である。そのヤスナグラ僧院はポーランドの敬虔なカトリック信者の総本山。8月15日の聖母昇天祭に向けて有名な「黒いマドンナ」に祈るたくさんの人々が集まっていた。遠くからも数週間かけて歩いて参拝するのが習わしという。幾度となく外国の支配を受けるポーランド苦難の歴史の中で人々の支えになったのは宗教であったのだろう。ポーランドの人々の95%がカトリック教徒というのは理解できる。
  北上を続け、ショパンのピアノ曲を聞きながらようやくワルシャワに入った。さっそくショパンが生まれた家に向かった。その場所は、ワルシャワ郊外西60kmジェラゾヴァヴォラである。小川も流れる木々の茂った広大な庭園のあるスカルベク伯爵屋敷の一角に、二階建ての白い建物が生家として公開されている。父ミコワイはこの伯爵家の家庭教師をしていたのである。ショパンはここで生まれ、生後7ヶ月で一家はワルシャワへ移る。ワルシャワで成長するのであるが、ジェラゾヴァヴォラやその近郊の田舎へは夏休みになるとふるさとのようによく出向いてその地方の郷土音楽に親しんだという。7才の時にはすでに作曲をしているが、マズルカやポロネーズはこれら地方の音楽から感じとったものを作曲したのだろうといわれ、その後の彼の作風の根底になっているという。
  広大な平原と森、その中で生まれた郷土音楽、このような環境の中でショパンははぐくまれた。演奏家としても秀でていたが、それだけだったらとっくの昔に名前は忘れられているだろう。それだけではなかったことで彼は偉大な芸術家となった。いつもの持論であるけれど演奏家はただのテクニシャン、音楽の世界での唯一の芸術家は作曲家であると再度認識した。
  そして最後はグダニスク。古い旧市街と巨大な造船工場が不思議とマッチしている。この数週間前の新聞でこの造船所がとうとう破産したことを知った。しかし、ドックには建造中の大きな船が見られ、依然として工場は動いていた。元大統領のワレサ氏が再建を熱望しているという。
  帝政ロシアの圧政が済めばポーランド分割、ナチスドイツの占領が終われば今度はソ連の圧力、ポーランドの多難な歴史の中でいつも外圧に耐えてきた忍耐力。この造船所から発生した連帯運動も10年もの長きにわたって続け、ようやく勝利を得ることができた。ポーランド人の忍耐力のすばらしさには脱帽せざるを得ない。グダニスク港は貿易港として栄え、近辺はたくさんの輸送トラック、車で慢性渋滞。排気ガスの臭いには閉口したが、北の経済拠点として今後も発展していくものと思う。
  コペルニクス、キュリー夫人、ショパンのような世界文化をになう人物も傑出したポーランド。腕力はないけれど地道に成し遂げる力、人口3800万人とロシア、ウクライナに次ぐ東欧での大きさを持つこの国は、平和さえあれば豊かな国になるとの印象を受けた旅であった。
  この国の偉大な芸術家のおかげで、これからも「子犬のワルツ」を弾いて楽しむことが出来る。今では家族から「子豚のワルツ」とからかわれるけれど自分で弾いて楽しむことほどすばらしいものはない。作曲家ショパンはやはり天才芸術家である。

1996年7月30日火曜日

クレムリン

赤の広場クレムリン向かいのグム百貨店
 
地下鉄の長いエスカレーター
 エルミタージュ美術館
  旧ソ連が人工衛星を世界最初に成功させ、ガガーリン少佐が初めて人間宇宙旅行に成功したのをすぐこのあいだのことのように覚えている。オリンピックではアメリカとメダルの数を競うなどいろいろな面で世界を二分する一方の大国と認識していた。たとえ自由化の後の混乱があったとしても、その昔の栄光というものが残っているだろうと思いつつ、この夏休みロシアを旅した。
  ソ連邦の崩壊直後、食料品もなくなり、パンに並ぶたくさんの群衆をテレビで見たが、現在では何とかお店には商品がでている。西欧に比べればまだまだ豊富ではないけれど、5年前に比べれば向上しているのだろう。モスクワ、セントペテルスブルグの中心地には西欧風のスーパーマーケット、マクドナルドの店も出来ていたが、ほとんどの普通の店はクローズ式で商品を自由にとって見ることは出来ない。いちいち店員にほしいものを伝えて見せてもらうとのスタイル。旧来の売ってあげるとの姿勢がまだ依然として強い。
  ガソリンスタンドも旧来の古くさい給油機が一つか二つ置いただけの小屋で商売しているような店がほとんどである。西欧のガソリンスタンドとしては、フィンランドに近いセントペテルスブルグに数軒のネステ(フィンランドの石油メーカー)の大きな美しいガソリンスタンドを見ただけに過ぎない。チェコ、ハンガリー、ポーランドではすでに西欧の石油メーカーの美しいガソリンスタンドが林立しているのと比べと大きな違いであった。
  日本のポンコツ車が新潟などの港からロシアへ運ばれて活躍しているというが、ロシアではボロボロの車が普通。首都モスクワ、第二の都市セントペテルスブルグでも、ほとんどの車はガタガタ。中にはドイツのDマークをそのまま付けたボロボロのベンツも走っており、ドイツで廃車になった車が、あるいは盗まれた車かもしれないが、十分活躍している。もちろん圧倒的に多いのがラーダなどのロシア製自動車。四角い古くさい車体が道を占領している。
  セントペテルスブルグの一番の繁華街、ネフスキー通りで自動車同士が接触事故を起こすのを目撃、私から見ればどうせ古い車なのに少々へこんでもどうでもよいのにと思うが、交差点の真ん中で長時間にわたって運転手同士口論を続けていた。以前ナポリを旅行したとき同じような場面を目撃したが、当たった後お互いにどこが凹んだか見てそれでさよなら。少々凹んでも平気でなんの口論もなかったのと比べると大きな差を感じる。南イタリア人の陽気さと、ロシア人気質との差なのか。むしろ、ロシアではボロボロの車でもその人にとっては大切な財産となっているためと私には思えた。
  モスクワ、セントペテルスブルグとも泊まったホテルは町の中心から離れたところにあった。そのおかげで、中心地以外の庶民の生活も見ることが出来、またバス、市電、地下鉄を乗り回し、人々の生活ぶりに接することが出来た。
  中心地のモスクワのクレムリン付近やセントペテルスブルグのエルミタージュ美術館付近はきれいに整備され美しいが、中心から離れちょっと庶民的な所に行けば道は凸凹。市電もレールの整備が出来ていないために車輪が外れそう。コトコトとノロノロ運転。それでも歩くよりは早いので何回も乗ることになったが。市電、バスも車体はほとんどボロボロ。出入扉がきちっとしまらないので隙間が空いている。夏はよいが冬はすきま風で寒いことだろうと心配する。
  しかし、さすが旧共産主義の国だけあって住むところは鉄筋コンクリートの高層共同住宅で完備されており、数年前ポルトガルをドライブしたときに出くわしたリスボン近くのスラム街のような貧困街を見ることはなかった。が、高層住宅の外観は良いけれど、近くで見ると窓枠は錆びてボロボロ、さんなどの木は腐っており手入れが行き届いていない。中を覗くとその生活ぶりは質素そのものであった。
  このような後進国とおなじような様相に驚いたけれど、一方では西欧よりもBetterのものも見た。それは地下鉄である。モスクワといい、セントペテルスブルグといい、地下鉄はすばらしい。地下数10mぐらい、エスカレーターは100mもあるだろうか。地下奥深くに、整備された電車が待つ時間もなく数分ごとに走っている。ニューヨークの地下鉄と同じ方式でコインを購入しそれを改札機に入れてホームに向かう。まもなく長いエスカレターが必ずある。長さが100mくらいあるため、普通のエスカレーターよりずいぶんスピードが速い。駅の入口、通路、プラットフォームがすばらしい彫刻などで飾られており、お金をかけていることがよく分かる。ロシア文字が読めないので最初乗るときには戸惑うが、まもなく駅のスタイル、乗り継ぎなどすべて同じシステムになっていることに気がつき、外国人にも乗りやすく出来ていると思った。一回乗車で約30円と非常に安い。
  モスクワではフランス資本で新しく出来たホテルに滞在、値段は一泊250DM相当で値段的にドイツのホテルと変わりはない。また、サービスもよくようやく西欧並になったとの感じ。それに対して、セントペルスブルグのホテルは旧ソ連時代のそれなりの高級ホテル。外観は15階建てで立派に見えるけれど、内部はちょうどユースホステルのような作り方。それに従業員のあいそがない。お湯を出せば赤茶色、なかなか真水にはならなかった。そして価格はなんと一泊約300DM。ビザをとるには権利を持っているロシアの旅行社の宿泊証明が必要という旧ソ連時代の悪習がそのまま残り、やむなくとってもらったのがこのホテル。ドイツの星なしホテル以下のレベルで約300DMは高いと文句をいったが受け入れられず払わされるはめになった。せいぜい100DMが妥当な値段、残りはロシアマフィアが利権でとるのか、個人の懐にはいるのか、まったく不可解な癒着構造である。
  もう一つの体験は、お金の支払いにはUSドルが好まれるということ。激しいインフレのためにルーブルの信頼性がない。食事の請求書も、みやげものもすべてドル表示。ルーブルで払うときは換算して書いてくれる。表面上、経済の帳簿は合わされていたが、いざソ連を解体してみると、数字上膨らんだ経済には実質的なものは何もなく、虚構の経済はまたたく間に崩壊し、年率100%を越すインフレに苦しんでいるのが現状のようである。経済安定化のめどはたっていないとの印象を受けた。
  クレムリンの一党による官僚政治により支配された世界、価値観が一つの世界、それが生み出した良い面と悪い面。官僚が選択し実施したことは確かにそれなりに際だった成果を上げることができる。金も人材も集中的にそれに投入するのだから当然である。宇宙開発、軍備、オリンピック、そして地下鉄。地下鉄はむしろ戦時に備えての防空豪の役目を果たすべく特に力を入れたのだろう。また、ポルトガルで見たようなスラム街はなく、すべての人がそれなりの家に住める。住宅も政策的につくられたものと思う。しかし一方、その選択から漏れたものはすたれてしまう運命になる。地下鉄以外の乗り物はこの部類に入るようだ。
  日本でも歴史に残っている女工哀史のような初期の資本主義の悲惨な歴史体験のなかで、それを解決する考え方として共産主義運動は生まれたものと理解している。明日は生きられないかもしれない貧しい人々が人間らしい生活が出来るようにするには、資本主義自体の矛盾から生成される変革エネルギーにより独占的に権力を持った人が強引に政策を進めないと実現出来ないとする。この変革エネルギーはロシア革命により確認はされたが、その後の独占的権力の存続がさらに大きな問題を発生させた。性善説が成り立てば結果は人間の理性に合致したものになったかもしれない。しかし、権力を握り同じポジションに長くいると、いろいろなしがらみの中で性善説を実践することは難しくなる。聖人がいるといわれる宗教界でさえ非人間的なトラブルがあるのを見ると、性善説は成り立たないようだ。ソ連という国もそれを証明してしまったように思う。
  とは言っても、西欧の国であるポルトガルでさえスラム街で過ごす人々の貧困があるのを見ると、資本主義社会自体にも自ら解決しなければならない課題は依然として残っているといえる。
  人間は広範な多様性を持っている。一つの価値判断で優劣をつけることは出来ない。この多様性を一部の人が優劣を付けて順位付けすることが官僚体質の基本である。その判断が歴史的に見て正しい場合よりも、大きな間違いを犯したことの方が多かったというのが今までの歴史。それぞれの人々がそれぞれの価値の中でそれぞれの分野で最大の能力が発揮できるような世の中ではじめて社会は活性化すると思う。
  さて日本はどうであろうか。バブル経済崩壊後、官僚と金融業界の癒着などようやくその元凶が分かってきた。その行政の体質は旧ソ連クレムリン官僚政治と同じようである。違いは、日本では官僚の横柄さをカバーするだけの一般の人々のまじめな働きがあり、人々は文句を言いながらも知恵を絞り改善・実践を続けるパワーがあることである。今までは官僚の私利私欲をカバーするだけの大きな利得が得られていたので何とかやっていけた。しかし、これからは世界的な経済競争の中で今までのような大きな利得を得るのは期待薄である。旧ソ連と同じような官僚・癒着体質を改善し、多様な価値観の実践が容易になる体制が望まれている。ソ連の解体劇、ロシアの現状をみて現在の日本の問題点を感じざるを得ない。
  市電、バス、自動車などの地上の乗り物と地下鉄との格差、それから乗り物、道路のみすぼらしさ、庶民生活の質素さとは対照的に、都会の中心を歩く女性はファッショナブルで西欧とほとんど変わりない。このアンバランスが現在のこの国を表しているように思う。自由化により一部の人は豊かになったようであるが、国全体としの生活レベルが西欧に近づくにはまだ少なくとも20~30年はかかるように感じられた旅であった。

1996年6月30日日曜日

バルベック

  この6月のはじめ日本からたくさんの方が来欧された。我社の専務がデュッセルドルフに立ち寄ることになった。昼前に予定通りミラノからの飛行機でデュッセルドルフに着いたが、ちょうど昼食前で、食事をどこでとるかということになった。結局私の提案でバルベックに行くことになった。

  バルベックはデュッセルドルフから北西約70kmにある小さな村である。この村の端にはヨットセールで有名なアメリカのディメンションポリアント社の親会社ベルサイダッハの一工場がある。きれいな町並みに調和するように白いコンクリートでできた広い平屋の工場が見られる。ドイツへ来てすぐのころ何回か訪問したことがある。当時、ドイツならどこにでもあるような村で、仕事でもなければもう訪問することはないと思っていた。

  しかし実際はこの町を毎年、何回も訪れることになったのである。それは、まもなくこの町がアスパラガスの里であると知ったからである。この町はカトリックの巡礼地で有名な町ケベラルとその南シュトレーレンを結ぶシュパーゲル(Spargel、アスパラガス)街道のちょうど真ん中に位置している。アスパラガスのシーズンは4月から6月の間わずかな期間だけ。毎年このシーズンに旬のアスパラガスを味わってきた。5年半ドイツで生活してみてドイツで唯一の美味である。
  
  ドイツビールは逸品であるけれど、食べ物はもう一つというのがドイツ料理。フランクフルトのまさしく有名なフランクフルトソーセージ、ミュンヘンの白いソーセージ、そしてニュールンベルグの小さなニュールベルガーソーセージ、初めて食べると美味しく感じるけれど、そのうち飽きてしまってもう敢えて食べようとはしない。この頃では日本からの出張者とのおつきあい以外はほとんど食べることはなくなった。

  塩辛いのと脂っこいのは私にはどう見ても食欲が進まない。これらソーセージにはまた有名な突き合わせザワークラウトがある。キャベツの塩漬けで少し酸味がある。脂っこいソーセージにはちょうどすっきりして組み合わせは良いのだが、なぜか味は私にはなじまない。これら庶民的な大味な料理の他にもう少し繊細なドイツの肉料理にシュモールブラーテン、ザワーブラーテンもある。たまに家で食べ、確かに美味しいとは感じるけれど毎日は食べられない。結局は魚主体の日本食がベストとの結論となってしまった。

  しかし、このアスパラガスだけは別である。日本ではアスパラガスといえば緑が主体で、白いアスパラは缶詰がほとんど。新鮮なとれたての白いアスパラガスを食べるチャンスはほとんどなく、缶詰の味しか知らないのでなんと味ないものだと思っていた。ドイツへ来て初めて白アスパラガスの本当の味を知ることになった。ゆがいた後、溶かしたバターをつけて、あるいはホーランディシュソースで、そして日本人にとっては鰹節と醤油で食べると最高である。ドイツレストランではこの醤油味は味わえないが、バターでも美味しくツルンと喉元を通る。

  このアスパラガス、一年中いつでも食べられるとなるとまた飽きるのだろうか。春だけ食べられるため余計に美味しく感じるのだろうか。ソーセージはいつでも食べられるので敢えて食べないのかもしれない。しかし、ビールはうまいので毎日飲んでいることからすると、やはり美味しいものは美味しいのであって、限られているからというのが理由ではなさそうである。

  このたび専務は初めて、とれたての白いアスパラガスを食べることになった。さすがに美味しかったとのことで、さっそくおみやげに2kgを購入し持って帰ることになった。調理の仕方を書いた小冊と皮むき器もつけることにした。皮をむかずにゆがいて、堅くて食べられなかったと言った人がいるからである。おそらく日本では味わえない食べ物であるので、おみやげをもらった人はさぞ美味しさに驚かれたことだろう。

  この時期、シュパーゲル街道起点の町ケベラルには巡礼客がたくさん訪れ、有名な「聖母の恵みの聖画」に祈る人が見られる。この10㎝四方くらにの小さな銅板に刻された聖母様に祈ると幸せになるという。内部が鮮やかに彩色されたバチカンを小さくしたようなバジリカ聖堂では日を決めて教会音楽が演奏されている。

  少年合唱隊、オルガンコンサートなど。 この日曜日の夜この聖堂で、ボーイソプラノの美しい音色、パイプオルガンの荘厳な響きを堪能した。いつものことながら、ヨーロッパ人の生活の中に身近に音楽が入り込んでいるのを感じる。その帰り、夕食は当然のことながらバルベック。今シーズン最後のアスパラガスを味わった。来シーズンも出来れば旬のアスパラガスを食べたいと思っているけれどどうなるであろうか。

1996年5月30日木曜日

カルカール

  ライン川の下流、デュッセルドルフから北西100km、クサンテンとクレーフェをつなぐローマ街道のちょうど中間に、15世紀に栄えた町、カルカールがある。人口一万ばかり、その町の中心、中世の町並みの中にラートハウス(市庁舎)とニコライ教会がある。このラートハウスは1445年に完成した煉瓦ゴシック建築で、第二次世界大戦で破壊され、戦後復元されたもの。またニコライ教会は1450年に完成した後期ゴシック建築で、ライン川下流の中で最も美しい教会といわれている。この教会は祭壇画やきめの細かい木彫があり、特に「キリストとサマリアの女」、「ラザロの復活」の宗教画は有名である。この町のまわりはのどかな田園風景で、たくさんの馬、羊、豚、牛が草原の中で自由に遊んでいる。
  この町から東北数キロの所、のどかな田園の中、ライン川沿いに大きなコンクリートの蒸気塔と大きな四角い建物が見える。この建物の数100mの所にはヘンネンペルという小さな村があり、その農家の家々の壁にはいろいろなスローガンが書かれている。「Baustop(建設ストップ)、Narrensicher?(馬鹿でも安全に運転できる?)、Stralen in die Zukunft(将来は放射能)、Wir wollen leben(私たちは生きたい)」 この大きな建物はドイツで唯一のプルトニウム高速増殖炉である。
  しかし、この建物は色鮮やかな万国旗と大きな看板(Kernwasser Wunderland Kalkarと書いてある)があり、どう見ても稼働している原子力発電所には見えない。実は1973年着工され、1985年には発電開始予定であった。しかし、付近住民をはじめ広範な市民の反対運動と、膨大な経費、それに大きな技術的困難に直面し、社会的大論争になった。1985には完成したが、ついに原子力エネルギー政策の転換を迫られ、1991年運転することなく閉鎖することになったものである。そのまま放置されていたが、最近民間に払い下げられ、余暇休養施設(増殖炉の見学、その他娯楽など)として解放されることになったもの。
  アメリカその他での原子力発電所の小さな事故や、それに決定的なチェリノブイリ原発の爆発事故で、世の中は原子力発電所をこれ以上増やさない機運になってきた。そんな中でこのカルカールのプルトニウム高速増殖炉は建設され、結局安全性の問題からドイツはプルトニウム利用から撤退したのである。世界的にもプルトニウム利用は危険との判断から各国とも撤退したが、日本のみが開発を続けている。世界の人々が心配していたとおり、高速増殖炉「もんじゅ」は運転まもなくナトリウム漏れを起こし、再検討を余儀なくされている。
  科学技術の発展にはある程度の危険を覚悟せざるを得ない場合もあるが、原子力と遺伝子操作はこの範疇には入らない。一度扱いを誤れば人類存続にとって取り返しのつかないことになるからである。チェルノブイリの事故後すでに十年が経過したけれど、放射線によるガンをはじめとする遺伝子病はますます増加し、もう取り返しのつかない状態になっている。何十年、何百年の人体実験が着々と進行している。遺伝子操作も同じような心配がある。
  高速増殖炉はプルトニウムを燃焼させそのときに出る中性子により、豊富に存在する核分裂しないウラン238をプルトニウムに変換する。このように、運転するだけでみずからプルトニウムを生産する高速増殖炉がなければ日本のような資源のない国では将来の電力需要をまかなえないと言いきり、その他の意見に耳を貸さず秘密のうちにことが進められることほど恐ろしくて危険なことはない。
  何でも強引に前に進めないと幸せはないとの論理が、結局はばい煙公害、水俣病、いろいろな薬害など大変な犠牲者を生み出した原因のようである。その推進者は、たとえ犠牲者が出ても認めようとせず、また認めたとしても全体の中では少数と無視し、その責任すら感じていない。これが現在の日本の行政と言える。この体質は旧ソ連の官僚体制と同じように思える。
  原子力のトラブルが起これば、犠牲者が少数では終わらないこと、その影響が子孫にまで続いていくことを認識する必要がある。トラブルがあれば人類の存続に大きな影響を与える技術開発は、慎重過ぎても慎重すぎることはない。情報をすべて公開し、自由な雰囲気の中で十分な議論をしたうえで理解が得られなければこのような開発は進められないようにするシステムが必要のように思う。
  ドイツのこのカルカールの高速増殖炉が余暇休養施設に変わったのは、良かったことか、悪かったことか。それは将来しか分からない。増殖炉がないために電力が不足し豊かな電化生活が出来ず不自由な生活をしているかもしれない。それでは、増殖炉が稼働していたらどうだろうか。今以上の便利な電化生活を楽しめる可能性はある。しかし、それと同時に、チェルノブイリ以上の大事故により多くの人々の命がなくなり、生存しても後遺症に苦しむ可能性もある。確率的にこのような事態がゼロとは言い切れない。
  いろいろ可能性はあるけれど、とにかく今はっきりと言えることは、増殖炉の断念により、このカルカールの古い町並みと、美しいラートハウス、ニコライ教会、それにまわりののどかな田園風景は将来とも維持され、まわりの自然の中で人々の生活が脈々と続くことは間違いない。人々が生き続け、生活し続けられるという保証の方が、生活の不自由さより優先されなければならないと私は思う。
  電力の心配があるなら、もっと安全な方法、たとえば太陽エネルギー、風力、海流などを利用した方法など開発すべき技術はたくさんある。これら安全な方法の開発に集中すれば必ずや代替えエネルギーが得られるものと思う。

1996年4月30日火曜日

ベリチェリ

  このイースター休み、北イタリア、南フランスをドライブ、その初日、デュッセルドルフから約900km、ミラノから西80kmの所、アルプスの南に広がるピエモンテの平野にあるベリチェリに立ち寄った。スイスに入りアルプスの下を通る17kmのトンネルに入るまで、イースター休みのラッシュのため3時間もの大渋滞、このためベリチェリに着いたのは日暮れであった。

  まわりの畑の一部は水が引き込まれ水田の準備中の所も見られた。ここは、イタリアリゾットの産地、お米の栽培で有名なところである。最近は日本のもみを持ち込んでイタヒカリなる米も作られているという。天気が良ければ遥か北にはアルプス、モンテローザの白い山並みが望めるが、日暮れのせいと、春霞のせいで残念ながら見ることは出来なかった。ちょうど北陸は小松付近の水田から見える白山と同じような光景で、合繊織物の産地、北陸の自然を見ているようで、なにか親しみを感じる。

  翌日、建設中の新合繊織物会社を訪問した。イースター休みにもかからわず社長が工場を案内してくれた。工場内の機械はすべて準備完了、事務所もようやく完成して建設事務所から移ったところ。しかし、建物の回りの整備はこれからとのこと。試作生産も開始しており、6月の操業式までには回りの整備も完了しいよいよ本格的な工場のスタートとなるという。

世界的に見れば繊維産業は成長産業である。しかし、従来の素材を扱う限りは、その生産場所はコスト的に最適な開発途上国にゆだねざるを得ない。しかし、テキスタイル産業は化学産業とは異なる面を持っている。それは、ファッションと結びついていること。すなわち工業であると同時に工芸の領域にも入り込んでいる。ファッションデザイナーは芸術家と同じように、素材、色、形、それに風合いを使い無限の表現をする。人間には自分を着飾ろうとする欲望をもっており、それを満足させる人がファッションデザイナーである。画家が色とデザインで、作曲家が音と時間の組み合わせで無限の表現をするように、ファッションデザイナーは織物の風合い、色、柄、パターンなどを駆使して表現を試みる。

  そしてこれらデザインの中から選ばれたものがまずはブランド商品としてでまわる。専門家は織物の風合いでもって服の仕立てばえ、見栄え、ドレープ性など判断し服を作っている。消費者はお金の許す限りより見栄えのする服を買おうとする。このとき無意識のうちにより良い風合いのものを選んでいるのである。

  衣料用繊維産業の牽引車はこのテキスタイルの工芸的要素である。合成繊維は10年程前までは天然繊維に近づくことを目標にしてきた。しかし、新合繊の出現により、天然繊維にはない風合い、表面構造、機能性を生み出せることが確認された。これで可能性は終わりであろうか。テキスタイルの視点から、新しい合成繊維とテキスタイルがつくれるということ。この新会社がその開発体制の一翼をになうようになることを期待したい。

  ベリチェリから南120KMにあるジェノバ、そしてサンレモ、モナコ、ニース、カンヌ、アルル、グルノーブルを経てデュッセルドルフにもどった。晴天に恵まれ、北イタリア、南フランスの自然を満喫したことはいうまでもないが、ニースの山の手にはルノアールが晩年過ごした町カーニュシュルメール、マルセイユの北にはセザンヌが生活した町エクスアンプロバンス、またゴッホが過ごしたアルルなど、芸術家が絵の対象にしたこれら自然も見て回った。

  ミラノ、パリという、世界ファッションの発信地の近くにひかえるこれら芸術家が愛した自然環境、さらにはベリチェリ付近の北陸産地との類似性、など考えるとますますこの会社の地理的環境が新しい合成繊維の開発に最適の地であると認識させられたドライブであった。 

1996年3月30日土曜日

ウイリアムズタウン

  我が家に二つの油絵の再生画がある。一つはモネの”睡蓮”、もう一つはルノワールの”コンサートにて”である。睡蓮についてはすでに各所の美術館で本物に出会うとともに、またフランスはジベルニーにあるモネの住居跡を訪れ、その庭にある睡蓮を鑑賞しモネが自然をいかに表現しているか実感した。しかし、もう一つの絵“コンサートにて”は今までなかなか本物に出会うことが出来ず、どこに本物があるのかいろいろな美術書を当たって探していた。パリのオルセー美術館にある“ピアノに寄る娘達”は何回か本物を見ているが、この絵と“コンサートにて”の描き方は、再生画を見る限り全く異なっているように私は感じ、ぜひとも本物を見たいと常々考えていた。ようやく昨年、アメリカはウイリアムズタウンのスターリング アンド フランシーヌ クラーク アート インスティチュート(Sterling and Francine Clark Art Institute)にあることを突き止めた。
  18年前、我が家に二人目の娘が誕生したとき、なにか娘達にふさわしい絵はないか探した。たまたま再生画の“コンサートにて”に出会い、将来娘達にもこのようなコンサートでの場面があればと願いつつ、黒と白のドレスのコントラストとそのなかに鮮やかな色彩の花束が入ったこの絵が気に入り、その作者が誰かとも知らずに買い求めた。その後まもなく、再生画自体にルノワールのサインが入っていることに気がつき、その作者を知った。それ以来ずっと東京、デュッセルドルフと我が家に飾られ、一方では実生活においても何度かこの絵と同じような場面を経験してきた。
  この3月アメリカ出張の際、日曜日を利用してマサチュセッツ州にあるこのウイリアムズタウンを訪問することを試みた。ニューヨークの北250km、ハドソン川に面したニューヨーク州の州都オルバニーから東へ車で約1時間、峠を越えると低い山に囲まれた盆地にこの町ウイリアムズタウンがあった。距離にして約50kmであった。町自体は小さく人口数千人といった感じである。この町の南はずれの森の中に茶色いタイルと白い外装の二つの建物が連なった美術館、スターリング アンド フランシーヌ クラーク アート インスティチュートがあった。
  この美術館は観光名所としてはほとんど知られていないことから、見学者はわずか数人であった。スターリング クラークが1910年代パリに住んでいたとき、その後夫婦でウイリアムズタウン近くの町に住んでいたとき、当時のフランス美術界のアカデミックな風潮に影響されることなく自分たちの好みに従って絵画を買い集めた。それらを公にするため1955年に夫婦でこの美術館を建てたという。作品の蒐集は夫人との共同作業であったことから夫人の名前フランシーヌが入っている。
  1894年一人のルノワール蒐集家がなくなり、その遺言で作品をフランス政府に寄贈することになったが、このような輪郭がはっきりしないぼけたような絵は引き取るに値しないとして当時のフランスアカデミーは猛反対した。その結果引き取られなかった作品が各国に散らばってしまうことになった。フランス政府が引き受けたルノワールの作品はパリのオルセー美術館で見ることが出来るが、かなりの作品が各国の美術館に散らばってしまった。その美術館の一つがこのスターリング アンド フランシーヌ クラーク アート インスティチュートである。
  この美術館に集められているルノワールは彼の後期の肉体感豊かな女性の絵はなく、むしろ中期頃の目元がきちっと描かれた比較的細身の肖像画と人物画が多く、また色彩が豊かで鮮やかなものがほとんどであった。ルノワールの初期から中期の作品は当時あまり評価されず、晩年になってようやく評価されるようになった。イレーヌで有名な女の子の横顔の絵は中期の作品で、ある資産家の奥さんがあまり売れていないルノワールに自分の娘の肖像画を書かせたもの。奥さんご自身の肖像画は当時もっと画料の高かったた別の画家に描かせたという。その画家はその後誰も知らない存在となり、いまではルノワールの描いたイレーヌだけが世界に知られることになった。もしこの時、この奥さんが自分の肖像画をルノワールに描かせていれば、現在では彼女が世界に知られることになっていたであろう。
  お目当ての絵が見られると心をときめかしながら絵を見て回った。しかし、ルノワールがずらっと置いてある中央の大広間の展示室にもお目当ての絵がない。さらに別の部屋を見回ったが、他のルノワールの絵はあっても、肝心の絵がない。最後に中世の絵の部屋を見たがとうとう見つからなかった。
  がっくりして、入口の係員に聞いた。入口に置いてあるパンフレットの表紙にはまさしく“コンサートにて”がのっている。それをさして、この絵はどこにあるか聞いた。答えは倉庫。現在一部改造工事中でそれが終わるこの7月にはまた展示するという。わざわざドイツからこれを見に来たと説明し見せてほしいと交渉したが日曜日のため担当がいないとのことで断られた。あきらめざるを得なく、他のルノワールを楽しんだことを満足に感じ美術館を出ることとした。
  美術館ロビーに書かれたスターリング クラークの言葉。“絵を鑑賞するための指導書はないですかとの質問をよく受けるが、これに対しては、あなたが自分自身でじっくり見て感じることそのものが絵を鑑賞することであり、指導書などありませんといつも答えています。”作者が誰であろうと自分の目で見て自分が気に入ればそれがすばらしいのであって、その道の大家がいろいろ理屈を並べて良さを勧めるからとか、有名な画家だからといって作品に接することほど馬鹿なことはないのである。音楽についても全く同じことが言え、このクラークの言葉は私には良く理解できる。
  帰り美術館の売店で気に入った絵はがきを買った。本物では独特の色彩鮮やかな絵がたくさんあったが、残念ながら絵はがきでは本物の色は出ておらず、やはり本物のすばらしさを認識した。しかし、我が家にある再生画“睡蓮”ではすでに何回か本物との比較をしており、限りなく本物に近く、家でも十分に味わえることを体験している。“コンサートにて”の場合はどうであろうか。今回は空振りに終わってしまったが、次の機会を楽しみに待ちたい。

1996年2月28日水曜日

グリュンコール

  ドイツに赴任してすぐの1991年の2月、-10℃~-15℃の日が続いた。デュッセルドルフの南にあるベンラート城の前の池は完全に凍り、たくさんの人がスケートを楽しんでいた。このお城の庭園には500mくらいの細長い池がある。いつもは白鳥やカルガモの住みかであるが、完全に凍ってしまって、即席のアイスリンクとなり、子どもたちがアイスホッケーに興じていた。
  話はそれるけれど、この厳寒の時に、前任者の送別会としてゴルフをしたことを覚えている。前任者はことのほかゴルフが好きだったことから段取りされたものだけれど、池のみならず地面、芝生すべてが凍りついた所でのゴルフであった。地面が凍っているためキーが立たない。後で知ったことであるが、このためにゴム製のボール立てがあるという。ほとんどキーが使えない状態で、ボールはどこかへ跳ねて不明になる。池に入っても氷に跳ねてロストボール。ボールは数え切れないくらいなくしたような記憶がある。このような悪コンディションでも上手な前任者はちゃんと実力を発揮した。それに反して、私のようなへたくそは初めてコースに出たときよりもまだ悪いスコアーであった。あの寒さが、冷めかけていた私のゴルフ熱を完全に凍らせてしまったように思う。
  その後、この5年間このような寒波はなく、ドイツの人々からドイツには本格的な冬はなくなったとさえ聞いていた。それに加え夏が極端に暑くなり、地球の温暖化といわれる現象をまさに経験し、もう寒い冬は来ないだろうと思っていた。が、この2月、日本からの出張者と共にポーランドを訪問したとき、寒波がやってきた。
  ポーランドの古都クラッカウを訪問したとき-22℃。クラッカウから訪問先のウクライナ国境に近い町サノックに向かう車はヂーゼル車。走り出してまもなくトラックを追い抜こうとしたが、ブスブスといやな音をたてはじめ失速してしまった。寒さのため軽油が気化しないためである。運転手はゆっくりと走って近くのガソリンスタンドに車を止めた。運転手は車にアルコールを飲ませるといって、軽油ではなくガソリンを入れた。ガソリンのおかげでまた正常に走り出したが、まもなくまたのろのろ運転。再度ガソリンを入れる。また動き出す。何回繰り返しただろうか。とうとう、ガソリンスタンドのないところで完全に止まってしまった。運転手は民家にガソリンをもらいに出かけた。そして再度動き出した。車の中は暖かいためにガラスの内側が曇るがガラスが冷たいことから内側が凍っている。日が昇るにつれて若干気温があがり、その後何とか目的地までたどり着けた。外に出るとすぐ耳たぶが痛くなり、10分も外にはいられない世界であった。
  通勤のウォーキングをはじめて早いもので4年が過ぎた。往復8kmのライン川沿いの道を、土砂降りでない限り、寒い日も、暑い日も歩き続けている。ウォーキングを始めてから今まで寒くてもせいぜい-5℃ぐらいだったので、むしろ朝の引き締まった空気の肌をさす気分が気持ち良いこともあり、通勤のウォーキングが楽しみの一つになっている。
  ポーランドから帰ったあと、-10℃の朝もウォーキングで通勤。この寒さではいつも出会う人とは会わないだろうと思っていたがそうではなかった。乳母車を押して散歩している奥さん、犬を連れて散歩しているおばあさん、町なかのホッフガルテンで出会うおじいさんのグループ、いつものみなさんに出会った。さすがに寒いので耳カバーがなければ歩けないが、早足で歩くとこの寒さでも15分ぐらいで体が暖かくなってくる。聞くところによると、赤ん坊の時からこの寒さを体験し皮膚を刺激することが健康を維持する一つの方法という。ウォーキングをずっと続けてみると、ドイツ人の生活の知恵が理解できる。
  このような背景からか知らないがドイツ人は散歩が大好きである。時間があればそれぞれ散歩を楽しんでいる。ドイツは積極的に自然を残す努力をしている結果、大都会でさえ必ず近くに散歩できる森、公園がある。またグループで森を歩くヴァンデリンググループもたくさんある。
  先日の土曜日、ヴァンデリンググループの一つに参加することができた。このグループ、若い人で20歳代、最年長で87歳。このおばあさん、赤いゴアテックスのようなジャケットを着てヴァンデリングシューズで決めている。坂ではゆっくりとなるが、普通の森の道では若い人と変わりのないテンポで歩くのには驚いた。
  2時間のヴァンデリングの後は森のはずれにあるレストランで食事をする。料理は有名な冬のドイツ料理、グリュンコールである。この野菜はほうれん草の2倍以上の大きな葉っぱでしかも冬霜が降りると味が良くなるという寒い冬の貴重な野菜である。その葉っぱをきざみ豚肉のだしなどで煮込んであり、大きなお皿一杯に盛られている。その上におおきな豚肉のスライスと太いソーセージが添えられる。量はたっぷりである。
  87歳のおばあさんはぺろりと食べてしまった。わたしは、塩辛いのと、ソーセージの油っぽさ、量の多さに閉口だが、時間をかけてなんとか食べた。もちろん飲み物はビール。デュッセルドルフ特有の黒いアルトビールを何杯も飲んでいた。最後に食後酒シュナップスがついており、このきつい味の料理にはすっきりして合っていた。寒い冬を過ごすための生活の知恵としての料理と理解できたが、この量と油っこさ、それに塩辛さでは日本人にとって毎日食べられるものではない。
  カーニバルが過ぎるとようやく寒波も一息ついた。春の新芽に備えてライン川土手のプラタナス並木の枝の剪定が始まった。ホッフガルテンの池に遊ぶカルガモたちも雄、雌ペアーの動きが活発になってきた。今年はいつカルガモ親子の行列が見られるのだろうか。昨年は4月4日(火)と私の日記には記されている。春が近いことを感じる。