1995年12月30日土曜日

クリスマスプレゼント

ベーリングさん(ポーランド国境で待つ)
  この12月最初の日曜日、3日はAdvent(降臨節)である。正式にはクリスマスシーズンはこの日から始まるのであるが、すでに町のクリスマスマルクトは一週間前から人々で賑わっている。この日は各所でバザーなど催しものが行われ、そこでローソクのついた飾りを買う人が多い。ちょうど正月前の注連飾りのように。クリスチャンではないけれど、Dueseldorf近くの小さな町Lankのバザーで大きなローソクのついた飾りを2つ買い求めた。一つは自宅のテーブルの上を飾り、もう一つは大家さんにクリスマスプレゼントとしてさしあげた。まだ買っていなかったと喜んでもらえた。
  今年は11月早々にクリスマスプレゼントとしていただいたワインがある。これが最後の挨拶とも知らず、あまりにも早いプレゼントに疑問を持ちつつ、そのお返しを考えた。結局日本のものがよいと思い、博多人形をプレゼントすることにした。さっそく買い求め、もう少しクリスマスが近づけば訪問し手渡す考えでいた。
  11月29日、チェコを訪問し自宅へ帰ったとたん、電話が入った。「Schlechteste Nachricht(最悪のニュース)」と電話のドイツ人が言う。続いて、「Tod(死)」と聞こえた。その早いプレゼントの送り主、Wellingさんの突然の死の連絡であった。
  12月4日、気温はマイナス数度、この冬一番の冷え込みの日、午後1時20分からDueseldorfのSuedfriedhofの教会にて葬儀がとりおこなわれた。ドイツで生活して初めて葬儀に立ち会った。祭壇には花輪が置かれその真ん中に棺が置かれていた。聞くところによると彼の宗教はEvangelisch(プロテスタント)という。前もって花屋さんに依頼しておいた花輪には大きな白いリボンがかけられ、そこには“Als letzter Grusse”(最後のお別れに)と書かれていた。教会内は200人ぐらいであっただろうか、椅子に座れきれず立つ人でいっぱいであった。この5月、Wellingさんと一緒に援助物資を運んだポーランドの孤児院のご主人と子ども二人も車で急遽駆けつけていた。半年ぶりの悲しい再会であった。
  賛美歌に始まり、牧師さんが死者を弔い、その後バリトンとコーラスによる鎮魂歌、そして友人3名が追悼の辞を読む。また賛美歌を歌う。パイプオルガンと歌の厳粛な音が教会に響いた。教会での儀式の後、棺を先頭に参列者全員が墓地までゆっくりと歩き、深く掘られた墓地に棺がそのまま安置された。一人づつ棺に対し最後のお別れをする。この時頭を下げる人、持参した花束を添える人、篭に入れられた花びらを添える人などまちまちであった。私は花びらをそえ深く頭をさげ、亡き人を弔った。人間として何が大切で価値あるものか、実践によって教えてくれた人Wellingさんは、市井の偉大な人物の一人であったと思う。
  12月10日は次のAdvent。さらにもう一つローソクを灯す。そして、また一週間後さらにもう一つ、最終的に4つのローソクが灯されるとクリスマスとなる。博多人形は梱包されたまま我が家にそのまま置かれている。もうしばらく置いておいて、落ちつけば未亡人に手渡すつもりである。自分の死を予想してのプレゼントだったのか。Wellingさんからいただいたワインはこのクリスマス休暇に故人を偲びながらゆっくり飲むつもりでいる。

1995年11月30日木曜日

Weisheitszahn(親知らず)

  この数年前から、修理した歯のクラウンが外れ時には歯医者へ行って、外れたクラウンをそのままはめ込んでもらうように頼んでその場しのぎをしてきた。まもなく帰国するのだからそれまで我慢しようと決めていた。それに治療をしなかった最も大きな理由は、日本の歯医者ならわずかでも歯根が残っておればそこへ支柱を立ててでも正規の歯と同じように機能できるクラウンを作って修理してくれるが、ドイツの歯医者へ行けばすぐに抜いてしまうとの話、またその際の麻酔でのトラブルで入院したなどいろんな話を聞いていためである。
  しかし、この3月、友達の送別会の時にはなにも食べられなくなり、とうとう歯医者に行かざるを得なくなった。猫が年をとって歯がなくなり食べられなくなると静かにいなくなってそのまま死の床につくとの話を聞いたことがあるが、食べられないというのがこれほど辛いことかと初めて体験した。
  歯医者に行くと、案の定もう抜くしか手はありませんとの診断。しかも歯槽膿漏、歯周病というのか歯茎が腐っているため6本抜く必要があるという。聞いたとたんびっくりした。クラウンが外れ歯茎の痛む1本は抜かざるを得ないと覚悟していたが、クラウウンだけが外れた2本は修理可能と思っていた。ましてや現在正常と思われる歯まで抜くという。
  歯槽膿漏の治療としては歯根近くの腐った部分を歯茎の横から手術し取り出す方法があるというが、私の場合奥歯の歯茎のほとんどにわたってこのような手術が必要で、たとえ歯茎が治療されても歯自体が弱いので結局は抜くことになるとの説明。やむなく初日は痛む1本のみ抜くことで同意した。歯医者は一度に右上の2本、左上2本を抜くと言ったが、なんとか断った。
  結局心配した麻酔のトラブルもなく簡単に抜かれた。しかし、一部歯茎の切除のため、歯茎には大きな傷が出来た。帰りくれたのは痛み止めの処方箋のみ。薬局へ行きその薬を買い求めたが、抗生物質はくれなかった。ドイツではなかなか抗生物質をくれないというがその通りであった。それでも化膿することはなく、人体は自然治癒の力を持っていると実感した。
  その後も何回ともなく通っていると、まもなく正常と思われていた奥歯も痛みだし、結局当初歯医者が言った通り6本抜いて、右下以外の本来の奥歯はすべてなくなってしまった。しかし幸いなことに前歯はすべて健康でしかもそれに加えてヴァイスハイツツァーン(親知らず)が健康であった。このため、前歯と親不知でブリッジが出来き、入れ歯は免れることになった。
  いつだったか忘れてしまったが、親知らずが生えだしたとき歯医者に相談したら、親知らずはむしろ抜いた方が良いとの説明。正常な歯になりにくく、奥にあるため歯磨きが難しく虫歯になりやすいとのこと。しかし、せっかく生えてきた正常な歯を抜くことへの抵抗とまた役に立つこともあるのではと思い、痛さを我慢した。いつの間にか痛さも消え、そのままほっておいたが、結局きちっとした奥歯に成長していたようだ。
  ブリッジは歯科技工のマイスターが作り、装着の時にはそのマイスターが立ち会った。若干かみ合わせが高いとの指摘に対して再度持ち帰り手直しをするという丁寧さであった。ドイツのマイスター制度の一端を見た。親知らずと前歯との間に長いブリッジがはめられ、正常にものが食べられるようになった。この時ほど食べられるということがうれしく感じたことはない。すでにそのとき季節は8月になっていた。
  とにかく、歯医者の助言に従わなくて良かったと今思う。確かに将来何もなければ親知らずは無用の存在であり、合理的に判断すれば歯医者の言うとおりである。しかし、将来についてはいろんな見方が出来るのであって、なにを重きにおくかでそれぞれの人の行動が異なってくる。今の判断では無用でも、確率は少ないと思われていた事態の出現によって大変有用になる、大げさに言えば命さえ救うかもしれないということもある。たかが親知らずであるが、親知らずに感謝である。
  だけど、親知らずをすべて抜いてしまっていても、それはそれで入れ歯をすることで済んでしまい、親知らずを抜いたことに対する後悔の念を抱くこともなく過ぎ去るのだろう。親知らずが残っていたからこそ、そのありがたみを感じたのではないかと思う。
  お節介は避けたいが、もし若い人から親知らずはどうしたらよいかと尋ねられたら、我慢できるのならそのままにしておいたらと助言したい。今回私が経験した効用以上のものが発見される可能性もあるから。

1995年10月30日月曜日

ヴェッツラール

  昨年の12月21日、妻がある機会に知り合いになったドイツラインオペラのコロラチューラソプラノ歌手の番場ちひろさんから、ご自分が出演するオペラの招待券をいただきそのオペラを観ることがあった。この時の出し物はMassenet作曲"Werther"。有名なGoetheの若き時代の自分自身の体験に基づいた小説"Die Leiden der jungen Werthers(若きヴェルテルの悩み)"のオペラ版である。番場ちひろさんは1993年にDortmundで開催された広島被爆者援助チャリティコンサート"HIROSHIMA' 93"のソリストの一人として出演、その演奏会録画が日本のテレビでも放映され見られた方も多いと思う。

 この10月、社長、専務、常務など日本から多数の来欧者があった。専務一行の会社訪問が早く終わり、Frankfurt20:00発の飛行機まで時間があったことから、私の車で近くのどこかへ案内することになった。以前Dueseldorfに駐在経験のある常務の提案からWetzlarへ行こうということになった。初めて聞く町の名前のため地図を調べた。場所はFrankfurtから北へ約40kmにある、小さな町であった。
  町の中心部近くにはその昔世界に名を知られたカメラLeicaの本社があった。それよりもこの町は1771年頃のまさしく"若きヴェルテルの悩み"の舞台で有名であるということを知った。若きGoetheが何度となく訪れた恋人Charlotteの家があった。その家は石畳の町の中心、昔のドイツ騎士団建物の一角にそのまま残され、今は博物館としてピアノ、手紙などその当時の様子をそのまま保存していた。
  ドイツ騎士団領地の法官を父にもつ娘Charlotteは母親が亡くなるとき婚約者を決められる。次女にもかからわず家事、10人の弟妹の世話をする明るくてやさしくしっかりした女性であった。まもなく法律官吏としてWetzlarに赴任してきたWertherと出合う。Wertherはたちまち彼女のとりこになるが、彼女は婚約者と結婚してしまう。その後も手紙などで連絡を取るが、ある日出会った時、彼が絶望的な愛の告白をする。この時歌うアリアがこのオペラで最も有名な"Warum weckst du mich auf, du Fruehlingshauch(なにゆえにわれを目ざますや、春の精よ)"である。しかし、彼女は町を出て欲しいと嘆願し結局Wertherは去る。自殺の心配をした彼女は彼を追うが、彼の家に入った時にはすでにピストルで致命傷を負っていた。この時初めてCharlotteは彼に愛を告白するがまもなく息絶える。Goetheは実際には自殺はしていないが、Goetheの友達の自殺事件をからめてこの話は出来ている。
  現存する道徳、論理的合理主義に対立し、あくまで自分の感情を第一に行動する若きGoetheの生き方がありありと感じられるお話である。人生にとって論理的合理主義一点張りでよいのか。この主義が行きすぎると、人間の最も人間らしい感情というものが無視されることがおうおうにして起こる。また、すくなくとも若い世代は論理的合理主義よりも気持ちの高ぶりを大いに優先させる生き方が必要と思うし、それが若者の特権のように思う。現在我々の回りの若い世代を見ているとむしろ若くして老成してしまっている人が多いと感じるのは私だけなのか。若きGoetheは人間の感情こそすべての創造の源であると云いたかったのではと思う。

 このオペラのクライマックスは何といっても有名なアリア "Warum weckst du ・・・!(なにゆえに・・・)”である。気持ちの高まりを作曲者 Massnet は見事に表現し、聴くものに感情移入させる。今までもCDで Pavarotti や Domingo の歌で何回も聴いているが、生で聴くのは初めてであった。

 歌手はドイツ人テノール Fink。声の音色・ハリの点でラテン系の人々と比べて不利なように感じた。ドイツ人はむしろバリトンで素晴らしい力を発揮するように思う。そうはいっても、肉声で聴く歌声はやはり素晴らしくすっかり堪能したことを覚えている。

 このオペラで番場ちひろさんは Charlotte の妹 Sophie 役で、Werther との間を取り持つ役目の場面に何回も出てきて、コロラチューラソプラノ独特の華麗な歌声を聴かせてくれた。

1995年9月30日土曜日

オクトーバーフェスト

 オクトーバーフェスト(ビアホールテントの中)
1リットルジョッキーと白いソーセージ
  ドイツの秋祭といえばMuenchenのOktober-Fest。世界的にあまりにも有名なビール祭であるが、規模の差こそあれ、これと同じ様な祭はドイツのいたるところで催されている。祭の名前はいろいろ、Schuezen-Fest(射撃競技会、流鏑馬に似ている)、Kirmes(もともとはKirchmesse、教会縁日の催し物)、Hanse-Fest(ハンザ同盟市民の祭)、Pfarr-Fest(教会の祭)・・・などなど。Dueseldorfの有名なGrosse Kirmes、町内の至るところで見られるSchuezen-FestもOktober-Festに比べて規模も小さく目的も異なっていているが、その様相は全く同じである。その特徴は移動娯楽施設とビアーホール。我が家の町内会Alt-niederkasselのSchuezen-Festにも小さな観覧車、電気自動車などの遊び道具がやってくる。その一角には必ずテントばりの大きなビアーホールが出来る。その中では飲めや歌えやの大騒ぎ。もちろんビールで乾杯。このような祭の一番大がかりなものがこのOktober-Festということになる。
  Oktober-Festと云うからには10月のお祭と思われるけれど実際はほとんど9月に行われる。今年も9月16日(土)に始まり、16日間開催される。かろうじて最終日が10月1日にかかりOktober-Festの名前を残させている。
  夜遅くなって、Muenchen市内の森、Englisher Gartenにあるホテルに戻ってみると、その周辺は静寂の世界。近くを流れる小川の音だけが聞こえる。翌朝その森の中を散歩すると市内とは思えないほどの静かさのなかに森が広がっている。池には水鳥が遊び、散歩しているすぐそばの木々にひょっこり栗鼠が現れすぐに木の上に登っていく。夫婦で散歩する人、犬と散歩する人、自転車で子供と遊んでいる人。ここは大都会の中心ではないのではと勘違いする。Oktober-Festはどこで開催されているの分からなくなる。
  そしてDueseldorfへの帰り、Muenchenの隣町Dachauに立ち寄った。ナチス時代無数にあった強制収容所跡の一つが残されている。お祭の歓楽を責めるように暗いドイツの一面を見せつけられる。動と静、明と暗。動と静のコントラストは素晴らしく、とくにドイツ風、静の雰囲気は気に入るところである。しかし、明と暗のコントラストの中で、暗の部分は非常に残念に思う。ドイツを考えるときどうしてもこの暗の部分を常に認識させられる。しかし、この認識が前提にあるからこそ、気がね無くお祭も大いに楽しめるのではないかと感じられた。
  Oktober-Festに続いて、一週間遅れでStuttgartでもお祭が始まった。ドイツ以外ではあまり知られていないが、その地区の名前をとってCannstatter-Festという。ドイツではOktober-Festについで二番目に大きいお祭と云われている。これも歴史は古く1818年以来開催されており、やはり主人公はビールである。こちらの方は10月8日まで開催される。現在ではむしろ時期的に、このお祭の方がOktober-Festと呼ぶにふさわしいような気がする。

1995年8月30日水曜日

Hundstage(盛夏)

 ネス湖
 野生のアザミ(スコットランド・グレンコー近く)
ストーンヘンジ
  この夏ヨーロッパも昨年同様暑い晴天の日が続いた。8月のドイツの新聞Rheinische Postに、もうくたびれたというなさけなさそうな犬の顔面アップ写真がのった。その説明に、「Wenn moechlich, cool bleiben:Die Hundstage dauern noch bis 23, August.」(出来れば涼しくなって:暑い日はまだ8月23日まで続く。)と書かれていた。この暑い盛り、フェリーでドーバー海峡を渡り、イギリスはブリテン島を車で一周した。
  ブリテン島は大きく分けると南のイングランドと北のスコットランドからなる。その境に近いところNewcastleからCarlisleの海岸にいたる東西約120kmの地帯に、ローマ帝国皇帝Haidorianは万里の長城と同じような長い防壁を建設した。ここから北へ向かうとイングランドののどかな丘陵地帯の風景から一変し、ヒースの潅木しか見られない山々の風景になっていく。この北はスコットランド、風景とともに民族も文化もイングランドとは異なる。
  その昔、シーザーがイングランドに侵攻、この地点まではたどり着いたが、その後さらなる北上は出来なかった。むしろスコットランド人の攻撃から守ることの必要性からこの大きな防壁が作られたという。まわりは延々とした丘陵が続き、その丘陵の尾根のところどころに、高さ5m、巾約3mの石で積まれた防壁が残っている。その近くの丘陵地には羊が群れをなして草を食べている。
  この防壁には数kmごとに監視用砦があり、それに多くの要塞があったという。その一つであるChester Fortに立ち寄った。昔、ここにはローマ時代の建物があった。ローマ風呂などの遺跡が残っており当時の様子がうかがえた。当時イングランドはローマ化されたが、スコットランドはもちこたえた。ローマ人との戦いはその後も続いたと思われるが、その戦いについての足跡には出会うことは出来なかった。
  ローマ人はローマ文化を持ち込みイングランドはその影響を受けたが、スコットランドはその影響を受けず、独特の文化を守ったのではないかと思う。スコットランドの独立心はこの時からはぐくまれ、イングランドへの併合の際の抵抗も、民族の違いのほかにこのローマ時代からの伝統があったからかも知れない。
  さらに北上し、スコットランドの首都Edinburgh、ネス湖の町Innverness、イギリスの最高峰Ben Nevisをドライブすると、風景はちょうど雪のないスイスの山々のよう。イングランドの自然とは全く異なり、別の国であるとの印象を受けた。
 スコッチウイスキー、タータンチェック、バグパイプ、これらはすべてこの自然があってはじめて育ったに違いない。それに、ローマ帝国の影響を受けず独自の文化を育てたとも思われる。いまイギリスといえばイングランドを指すことが多いが、文化に関してはこのスコットランドが巾を利かす。しかし、他の国の人々がイングランドの文化と認識してしまう所にスコットランドの人々の腹立たちさがあるように感じる。バーバリーチェックも本来はスコットランドの製品と云いたいのだろう。
  スコットランドの工業都市Glasgowでは、古い煉瓦の建物が壊され新しい建物が建ちつつあり、造船工業などの衰退からようやく立ち直りつつあるように思われた。新しい産業は重化学工業ではなくコンピューターを中心とした産業それにサービス業のようである。イギリスの凋落を挽回する旗手となったサッチャー前首相のスローガン、「自分の働きで身を支えていくことのできる人間は1ペンスといえども国家の福祉を期待すべきではない」は、この近くの炭鉱ストライキに対する彼女の強硬な政策の背景にあった。現在のGlasgowを見るとその効果が出て来つつあるようである。
  しかし、イギリスの一人当たりのGDPはドイツの55%、依然としてその差は大きい。ドイツとの比較でまだ大きな問題があるように思う。人間生まれてすべての人が同じ条件でスタート出来ればサッチャー前首相のスローガンも理性にかなったものとなる。現実はそうではない。生まれながらにして大きな差がある現実のもとでは人々のやる気はなくなる。外国企業の誘致もいいけれど、イギリスのさらなる活性化には、サッチャー前首相のスローガン通りやろうとしている庶民がやる気を起こさせるような社会作りにあるように思う。ドイツとの対比でイギリスの内在する問題点を感じざるを得ない。

1995年7月30日日曜日

ジベルニー

  30才代はタイヤコードの仕事に没頭していた。その最大の客先はブリヂストン。この日本のタイヤ業界でのガリバー会社が、文化面での活動にも力を入れているのは有名である。その一つが東京にあるブリヂストン美術館。世界的に有名な絵画を集め展示している。しかし、庶民が有名な絵画を買い家庭で楽しむことは不可能である。それで考案されたのは再生画の技術。この技術は原画と同じような油絵の凹凸があるというものである。ブリヂストンが豪華な額の技術と共に開発し販売をしていた。現在はこの技術を小さな別会社が引き受け製造販売している。

  当時、新築祝い、餞別などの贈り物として重宝させてもらっていたが、10年程前プライベートにも2つ買い求めた。一つはルノワールの「コンサートにて」、そしてもう一つはモネの「睡蓮」である。日本の家には大きすぎる額の大きさであったが、ドイツにきて大きな白い壁にかけるとちょうどバランスがとれ、部屋の雰囲気作りに一役かっている。もちろん毎日見ていても飽きることはない。

  この土日の休み、車でパリへ買い物に行ったついでにGivernyという小さな村を訪れた。この村はパリより北西約70km、セーヌ川をルーエンに向かったちょうど中程にある。セーヌ川を渡って田舎道を走るとこの小さな村に入り、まもなく道の両側が塀で囲まれた所に達する。この塀の両側がモネが晩年過ごした自宅であり、庭園である。

  道をはさんで北側にアトリエ兼住居跡があり、今はモネ博物館になっている。その建物の前は花盛りの庭園である。いろんな花が鮮やかに咲いている。道をはさんだ南側に池があり、この池には睡蓮、柳、日本風太鼓橋、小舟などが見られる。まさしくモネの絵画の題材が目の前に広がる。しかし、池そのものはそれほど大きなものではなく数分も歩けば一周できる。案外小さいのには驚いた。また色も絵は青色系統が主体であるが実際には緑が主体であった。構図とこの色の選択により絵の世界では大きな広がりを感じさせるのだろう。

  そしてモネが住んでいたという博物館に入ると浮世絵がいっぱい。浮世絵美術館と勘違いさせられる。葛飾北斉、安藤広重などがヅラリ。モネは浮世絵を見て、その構図と色の素晴らしさに感嘆し、睡蓮の絵のヒントにしたというのは間違いないと思われた。実際の絵としては浮世絵と印象派の絵では大きな違いがあるが、世界的に知られていなかった浮世絵の素晴らしい所に感動し取り入れる度量はやはり西欧の特徴ではないかと思う。浮世絵が西欧の絵画に大きな影響を与えたことはよく知られているが、日本画が西欧で絶賛されたという話はあまり聞かない。当時浮世絵は庶民の文化、それに対し日本画は文化人といわれた人々のための文化、この辺に芸術の真の醍醐味があるように思う。

  さて、池に浮かぶ実際の睡蓮を見て、背景の緑に映えるその色の美しさにしばし時の流れが止まるように吸い込まれて行く。しかし、絵画を見る方がより永遠の広がりがあるように感じた。現実の風景は限られた空間にすぎないがモネの力により絵には無限の空間を感じさせられる。今回実際の風景を見て、はっきりと認識された。実際の風景を見るよりも絵を見る方が想像の世界が広がる。有名なオランジュリ美術館の睡蓮の大作を思い浮かべると、この思いはさらに強くなる。この雰囲気は本物のモネの絵画でなくても自宅の再生画でも味わえることが今回確認できた。本物の方が迫力あるのはもちろんであるが。

  音楽の世界と同じように自分の聞きたい見たい時にいつでも見聞きできることが芸術を楽しむ基本と思っている。この意味で、この再生画は私にとってはありがたい存在である。どんなところに引っ越しても、これからもいつも見られるよう私の手元に飾っておきたいと思う。それから、もう一つの再生画、ルノワールの「コンサートにて」の本物(アメリカにあるという)にもぜひ出会って、再生画との比較をしてみたいと思っている。

1995年6月30日金曜日

バルトブルグ城

  DresdenからAuto-Bahn4号線を一路Kasselに向かってドライブすると、Weimarを過ぎてまもなく旧東西ドイツ国境に近づき、前方左小高い山の上にお城が見えてくる。Wartburg城という。このあたりはThuringenの森の北端、Eisenachという町である。この町はバッハが生まれた町として有名で、またこのお城はその昔宗教界のお尋ねものであったマルチン・ルターがかくまわれ、聖書のドイツ語訳を完成させたところとしても有名である。
  この4年間いろいろなプロジェクトが目白押しで出張続きが多かった。しかし、今年に入ってそれらプロジェクトも一部一段落し、出張が少なくなり、そのおかげで前もってプライベートの予定を入れることが可能になった。その一つがオペラ鑑賞である。今回初めて、一か月前から予約を取ってオペラを楽しむことが出来た。曲は「タンホイザー」。このような有名な曲の場合、ある日急に時間がとれて見に行ってもいつも売り切れである。一ケ月前の発売日に即刻売り切れてしまうので今まで見ることが出来なかった。
  舞台はこのWartburg城。話はこのお城に伝わる宮廷歌手の歌合戦伝説とその昔その宮廷歌手の一人タンホイザーの禁断の恋と純愛との葛藤物語。話の内容はありふれたどこにでもある話ではあるが、音楽の力で見事昇華され、人々を圧倒させる。
  ワーグナーは歌劇に新しい試みをしている。一つは、ドイツの昔からある伝説に基づいたドイツ独自の歌劇の創出。それから本来伴奏に過ぎないオーケストラを全面に出しオーケストラが劇の流れを導き、流れを止める独立したアリアを避け、途切れなく歌い語りの旋律が続く点。彼の後半の作品は歌劇とは云わずに楽劇と云われている理由はここにある。オーケストラが全面に出てくる場面が多く、もちろんそれに加えて合唱、重唱、独唱も入り、旋律は官能をゆさぶる。ヨーロッパでオペラが娯楽の一つとして繁栄を続けているのは、劇場で官能を揺さぶるような感動を与えてくれるからであろう。
  ものの本によると、ワーグナーは36才の時Sachsen王国の首都であったDresdenに住んでいた。この時、Dresdenの市民革命に出くわし、市民派につき市民派として活動している。結局市民派は破れ革命は失敗に終わった。その結果ワーグナーには逮捕状が出され、彼は一時スイスで亡命生活を送らざるを得なかった。しかし、49才の時に逮捕状は撤回され、その後バイエルン王ルードビッヒ2世の絶大なる援助を受け彼の音楽を成就させたという。
  若きワーグナーは市民革命に賛同し、晩年は国王の援助を受けた。ナチスがワーグナーの曲を好んで使用した理由は、曲にドイツというものを官能的に意識させる力がある点である。ヒットラーはそれを利用したと思える。もし、ワーグナーが生きていれば、自分の音楽がナチスの道具に使われたことに憤慨したのであろうか。興味あるところである。
  この半年比較的出張が少なかったが、一時停滞中であったプロジェクトの再開、新しいプロジェクトなど出てきており、これからまた忙しくなりそうである。残念ながら今回のようなオペラ鑑賞はもう出来そうになく、従来の突然時間が出来たときに聞きに行くというスタイルで楽しむことになりそうだ。

1995年5月30日火曜日

ベーリングさん

 ポーランド国境で待つ
 
 建設中の孤児院(イエデバブノ)
旧ナチス参謀本部を案内するベーリングさん
(ギルロッツ)
  ドイツとポーランドとの国境の町Frankfurt(Oder)に近づくと長いトラックの列に出くわす。およそ20kmの列であったように思う。国境手前数キロの所には税関用の巨大な駐車場があり、ここでさらにチェックのため無数のトラックが連なって待っている。聞くところによると国境を通り過ぎるのに寝泊まりが必要なこともあるという。
  乗用車も結構長い行列であったが、約2時間ぐらいで無事国境を通ることが出来た。この春からEU内はパスポートのチェックをしなくなったが、EU以外の行き来はむしろ従来よりチェックが厳しくなり、国境での待ち時間が大幅に増えているという。 
  車はトヨタワゴン車。後ろの荷台には日用品・学用品など、わずかの隙間もなく積めるだけ詰め込んでいるため、車は後ろに傾いた状態で走る。目的地はロシア国境に近いポーランド東北のMasuren地方。ポーランドでも特に貧しい地方と言われている。
  しかし、田舎道は完全整備とは云えないまでも舗装はされていた。数年前はまだ砂ぼこりであったという。道なりには、古い工場も見られたがほとんどは平原の続く農地、農村が続き、たまに大きな巣にこうのとりも見ることが出来た。森と湖の自然に恵まれた村に今回の目的場所Jedwabnno孤児院はあった。片道1300kmのドライブであった。
  Dueseldorf の下町にHumanet-Shopというお店がある。開店して4年になる。この店は日本企業駐在員の主婦達がボランティアで始めたリサイクルショップである。駐在員は定期的に交替することから引っ越しが頻繁にあり、その時いろいろな不要品が出る。それを集めて回り、この店で売り再利用をはかろうというもの。しかし、この活動の主目的はリサイクルにあるのではなくその収益金を東欧や第三世界の人々を援助する事にある。もちろん収益金のみならず、再利用できる日用品自体も援助品となる。もう一つ最も重要な特徴は、その援助品を他人に託すのではなく、自分達の手で援助の必要な人に直接手渡すところまですること。ボランティアで自主的に集まった主婦たちは、自分の出来る範囲で交替で店頭に立つなどして参加している。
  一番の問題は、援助物資をどう運ぶかということ。主婦のボランティア活動であるため困難なことが予想された。運搬の協力者を探したところ、運よくドイツ人のWellingさんが協力を申し出た。彼はすでに年金生活の身で現在66才、この店のスタート以来4年間運搬の仕事をボランティアで引き受けている。いつもは彼が一人で車を運転し、ポーランド、ロシア、ルーマニア、ドイツ国内(Friedensdorfという施設、アフリカなどの戦禍により傷ついた子供達を自らの手でドイツへ運び治療しているボランティア活動)などへ援助物資を運搬している。今回は私もボランティアで参加、Wellingさんと交替で車を運転することになった。
  今回訪問した孤児院は建物が劣悪のため、新しく立てる計画を持っているとのことでその建築資金の一部を手渡すことが目的。ポーランドでは金利が30~40%でこのような個人の善意でまかなっている孤児院ではお金を借りることが出来ないため困っていた。寄付を目的に訪問したが、貸してもらえるだけで充分とのこと。それも金利は8%でとの申し出。とりあえずはこれで了解し援助金と日用品などの援助物資を手渡した。
  下は5才から18才まで13人の子供たちが生活しているが、それぞれ事情があって孤児となっている。持参したおもちゃをすぐにあけて遊ぶ子供を見て、この子達が立派に成長することを願い、少しでも役に立てたらと思う。子供達からの「ジンクイエ(ありがとう)」の言葉に見送られて、帰路についた。
  帰り、ロシアとの国境30kmのところにあるGierlozをWellingさんが案内してくれた。ここはナチス時代、Hitlerの参謀本部のあったところ。ここでHitler暗殺未遂事件も起こっている。森の中におおきな防空豪のような、映画館、プール、生活に必要な設備がそろっていたという。地図を見ると、ロシアを含めた全ヨーロッパの中心がちょうどこの辺りであることに気づく。ロシアを含めた全ヨーロッパを征服することを考えて場所を選んだようである。今では爆破された無惨な残骸が残っているだけであった。
  見学しながら、Wellingさんの話を聞いた。「16才の時までHitlerに熱狂した。みんなが熱狂した。ナチスの本質も知らずに。でも、当時知ったとしても何もできなかったかも知れない。」この思いが、現在のWellingさんのボランティア活動の原点になっているように私には思われた。
  日本のゴールデンウィークの合間で、ちょうど仕事も少なかったこともあり、3日間の休暇がとれたのはラッキーであった。今までこのようなボランティア活動をしたいと思いながらなかなか出来なかった。一時帰国休暇もとれないまま本帰国になりそうであるが、日本での休暇より有意義で貴重な体験であったと思っている。

1995年4月30日日曜日

ノルマンディー

  Buchenwald、Normandy、Dresdenといえば第二次世界大戦に関するヨーロッパでの歴史に残る地名である。これら地名がこの大戦で名を残すことになった時間的順序は、Buchenwald ⇒ Normandy ⇒ Dresdenの順である。2年前、Buchenwald、Dresdenを訪問、戦争の生々しい傷跡が残され強い衝撃を受けた。このイースター休みに今回は、Normandyをドライブすることが出来た。
  北フランスNormandy地方は、東はRouenから西Cherbourgの地区をさす。Rouenはジャンヌダルクの裁判が行われ処刑された所、Cherbourgは映画の題名にもなったが今は核燃料処理品の出発港として有名になった。この一帯は美しい砂浜の海岸が続き、50年前の上陸大作戦は想像することは出来ない。唯一アメリカ軍が上陸したOmaha海岸に、碑と小さな展望台、それに墓地が、その昔の出来事を思い浮かべさせるに過ぎない。
  Omaha海岸近くのBayeuxには戦争博物館があり、そこにはNormandy作戦の当時の新聞、写真、武器、戦車、軍服など展示されている。ドイツ軍の抵抗も大きかったことから、この上陸作戦により、近くのBayeuxとCaenの町は焼け野原になった。その当時の写真も見ることができた。戦争は勝った方も負けた方も共に大変な痛手を被ることを認識させさせる。
  アウシュビッツのような強制収容所はナチス時代無数にあったが、その一つであるBuchenwald(ちなみにこの収容所はアメリカ軍が解放した。)を訪れたとき見たような残虐な写真はなく、このNormandy大作戦は正義の戦いであるとの意図のもとに展示されているとの印象を受けた。
  この世には悪はないと信じたいが、Wuchenwaldを訪問した時そうも云えないと感じた。「悪は悪そのもので常に存在する力を持つ。善なるものは人々が努力したときのみ現れる。」という誰かの言葉は、真実のように思えてくる。Buchenwaldは悪であり、それをなくそうと努力することにより善と言うものが認識されるのか。そう考えるとNormandy大作戦・Dresdenの大空襲も善なのか。また、南京大虐殺は悪で広島の原爆は善なのか。現在の日本を騒がせている宗教団体も悪であり、捜査することは善なのか。悪の存在しない社会は出来ないのだろうかとつくづく思う。
  ヨーロッパでも有名になってしまった話題の新興宗教の上層部は有名私立中学高校を出た超有名大学・大学院出身者が多いのを見ると、論語読みの論語知らずと感じざるを得ない。自我の確立以前の幼い時の歪んだ生活、その中で無意識のうちに形成される価値観と悪とは結びついているような気がする。
  頭脳が優秀、知識が豊富であること自体は何の価値もなく、その頭脳なり知識が世界の人々の幸せのために役だってこそ価値があるのである。このような価値観がより多くの人々に認識されなければ悪は常に存在する力を持つように思う。
  それから、今回Normandyを見て回って感じたのは、Normandy、Dresdenがあって, Buchenwaldがあったのではなく、BuchenwaldがあってNormandy、Dresdenがあったということである。これは誰も否定出来ない事実である。この事実をきちっと認識することも、悪のない社会を作るためのもう一つの考え方ではないかと思う。

1995年3月30日木曜日

トゥルク

  フィンランド南西部のTurkuでは、昨年冬場-30℃、夏場+30℃を経験したと言う。なんと一年の気温の差60℃。冬場は池ではスケートができ、わかさぎ釣りも楽しめる。今年はそれほど寒くないとはいいながら、最も寒い日で-20℃であったと言う。3月も終わりに近いけれどまだ所々雪が残り、気温は-5℃ぐらい、今回仕事で訪れてこの冬久しぶりに寒さを感じた。この1月にはノールウエーのベルゲン研究所も訪問したが案外寒さは厳しくなかったのを思い浮かべると、海流の影響を受けるところとそうではないところとの差ではないかと感じた。
  フィンランドは地理的にスウェーデンとロシアに挟まれ、むしろエストニア、ラトビアなど旧ソ連の国の方が近くに感じられる。歴史的にもスウェーデン、ロシアの支配下におかれ、ロシア革命後に最終的にソ連から独立した。よく知られた話として、この独立運動の際、フィンランドの人々を勇気づけるために作曲されたのがシベリウスの交響詩フィンランディアである。
  しかし、その後一部領土がソ連にとられたことから、ナチスドイツのソ連への侵攻に乗じて領土の回復をねらった。しかし失敗し、このため戦後ソ連に対する多額の補償を余儀なくされた。戦後、林業が主であった産業を工業中心の産業に転換をはかることに成功しこの苦境を乗り越えた。結果、北欧の福祉国家の一つとして豊かな生活の国となった。など今回はじめて知るところとなった。
  しかし、森林以外天然資源はなく、結局はソ連との貿易が大きなウエイトを占めざるを得なく、極端にいえばソ連とのつながりの中で繁栄をしてきた。政治的にも社会民主党を中心とした左派連立政権が続いていた。ソ連の崩壊と同時に初めて保守連立政権に移行したが、旧ソ連との貿易がとまり、その影響で不況のどん底の状況となり、失業率は年々増加、現在18%に達していると言う。このためか、この3月の総選挙では保守連立政権は勢力を落とし、再び社会民主党がトップとなり、社会民主党指導による連立政権に向けて動いている。
  EUの仲間入りをはたしたにもかからわず経済状況は厳しく、今後の課題は、工業の立て直しである。そのためには天然資源の確保、西欧との貿易の拡大が重要で、エネルギー源としては原子力発電の検討もなされているという。それぞれの国にはそれぞれの地理的、歴史的背景があり、他の国の方法が必ずしも適切とは限らず、フィンランドもこらから独自の方策を模索していくものと思う。
  フィンランドには、首都Helsinki、Tampere、Turkuの3大都市がトライアングルの地理的関係で位置しており、それぞれに工業が発達している。それを支えるようにそれぞれの都市に大学が存在している。今回Turkuの企業とTampere工科大学を訪問したが、共同で研究開発を進めているという。このような大学と企業が共同して新しい領域を開発する姿勢はすでに確立されており、戦後の急速な工業化を支えたのはこの連携作業ではないかと容易に察することが出来た。これからも、この体制の強化と、厳しい自然環境の中でも耐え抜く忍耐力で難局を切り開いて行くのではないかと思う。
  帰りの飛行機の上から見ると湖はほとんど氷でおおわれ春はまだ遠いとの印象を受けたが、同時に経済の春ももうしばらくは来ないのかも知れない。

1995年2月27日月曜日

グラナダ・ダカールラリー

 フィギュアスケート欧州選手権
(優勝したボナリの演技)
グラナダ・ダカールラリーのスタート

  この2月5日の日曜日、Dueseldorfから東北60kmの所にある、DortmundのWestfalenhallenで開催されたヨーロッパフィギュアスケート選手権を見に行った。フィギュアスケートの競技を見るのは初めての機会であった。なんといってもハイライトは女子のソロ。優勝は有名なフランスの黒人選手Bonalyであった。ヨーロッパ選手権であるのでスポンサーには日本の企業は入っていないであろうと思っていたが、なんとスポンサー8社の中に、富士フィルムとシチズンが含まれていた。写真を撮るたびにリンクのボードに描かれた会社のロゴマークが入る。グローバルなビジネス活動には世界的な宣伝活動も重要なようである。
  この冬休みポルトガル、南スペインをドライブした。大晦日はアルハンブラ宮殿で有名なグラナダに滞在した。ちょうど元旦の朝、グラナダの中心通りから、Granada-Dakarラリーのスタートがきられた。数分ごとに一台ずづスタートするのであるが、1mぐらいの高さの台に自動車ごとのり、そのチームの紹介をする。スペイン語と英語であるが、目立ったのは ”ミツビシ”と ”シトロエン”のアナウスであった。三菱の自動車が紹介されるたびに大きな歓声があがり、このラリーでの知名度は世界的なものであることを知った。結果は、1位シトロエン、2位、3位、4位を三菱が占めた。
  周知のごとく、三菱は早くからこのラリー(昨年まではParis-Dakarラリーであった。)に参加、この数年の自動車不況にもかからわず三菱だけが好調なのは、RV車の代名詞までなったパジェロのおかげと云われる。今やシェアーをじりじり増やし日産に迫っている。これは宣伝効果のみならず、このラリーから技術的な改良を繰り返し、それがパジェロに生かされたことも大きい。F-1に参戦したホンダと同じような考えと思う。
  その昔、RV車が売れるとはだれも予想していなかったと思う。このラリーが注目されるにつれてブームを起こした。技術的に見れば砂漠を走るニーズはなくRV車が売れるはずはないのであるが、結局は何か違う物・新しい物が欲しい消費者ニーズにあったようだ。むしろこのラリーが消費者に火を焚きつけたということである。
  もちろん、日産車もトヨタ車もスタートをきっていたが観衆の反応はほとんどなく、このラリーに関する限りは三菱が王様のような印象を受けた。ここまで来るにはこのラリーに莫大な経費と労力を費やしていると思う。その効果はすぐに計算出来るものではなく、長い年月をかけてようやく効果が見え出したもので、三菱の忍耐力には感嘆する。
  もしRVブームが来なければ、三菱のこのラリーにかけた経費と労力は無駄になると思われがちである。しかし、技術屋から見れば頑丈な車を作る技術の向上には大いに役立ち、RV以外の車にも応用出来るということで、無駄ではないと考える。この考え方がどこまで通用するかでこのたぐいの活動が企業内で認められるかどうかのポイントになるように思う。遊び心にお金を使うことも発展のためには必要な場合もある。もちろん表面的には失敗との結果になることもあるが、それは考えようで数値にあらわれないメリットが必ず残るもので、次の大きな飛躍に逆に利用出来ることが多い。少なくとも技術部門ではその蓄積が技術の財産となり、これがまさしく技術力となる。
  ドイツに来てスノータイヤを購入したとき、一番安いタイヤをつけて欲しいとタイヤショップに頼んだら、なんとMade in Japanのブリヂストンがついていた。Auto-Bahnを走るので、もちろんレーヨン使用タイヤである。レーヨンをわざわざAKZOから輸入し、タイヤを日本で作りヨーロッパに輸出している。コストは高くついている。しかし、ヨーロッパでの一般消費者の評判はピレリー以下であり、いかにブリヂストンのブランドがヨーロッパでは通用しないかを示すものである。
  日本での王者であり、しかもファイヤーストンを買収してその業界ではすでに世界的に知名度が上がっているが、一般消費者にはまだまだ浸透していない。商品の力とは、技術力とブランド力の両輪がうまくかみ合ってはじめて発揮出来るようである。
  フィギュアスケートを見てDortmundから家に戻りテレビを見ていたら、トーレパンパシフィックオープンテニスで伊達公子が優勝したと報じていた。テレビを通じてたくさんのヨーロッパの人々が”トーレ”という名前を聞いたことと思う。東レのグローバリゼイション戦略の中で、このパンパシフィックテニス大会がどう位置づけられているのかたいへん興味のあるところである。

1995年1月30日月曜日

Hochwasser(洪水)

1年前のライン川洪水
  神戸の大地震はヨーロッパでも約一週間にわたって各テレビ局のトップニュースとして報道され、そのすさまじさは戦争の空襲後の様相と重なるものとの印象を与えた。燃え続ける神戸市内、崩壊した家屋、傾いたビル、倒れた阪神高速道路、阪急伊丹駅の電車の惨状、下敷きになった人を捜索する住民などなど。
  この惨状のなかで少なくとも18日のニュースまでは救助隊の活動、消火作業の画面は見られず、ようやく19日になって、水がチョロチョロの中での消防隊の活動、わずかな自衛隊の動きなどが映し出された。その後日本の新聞を見て出動が遅れたり、他府県からの救援も遅れたことを知り、即刻充分な救助活動がなされておれば、犠牲者をもっと少なく出来たのではないかと考えないわけにはいかなかった。
  神戸地区に震度7クラスの地震が発生するとの想定をしていなかったと云われている。想定を越える災害発生のため、全国から救援を求める敏速な手続きが出来ず、その決定が遅れてしまった。また、道路渋滞のため救援隊が現地に到達出来ない、消防活動の訓練も現実にはあわず、震度7での予知管理訓練が欠けていた。神戸地区の地震は震度5までと決めつけていたことが大きな原因と云われている。
  確かに過去の実績からすれば充分との判断であるが、自然はそう簡単ではない。自然科学の世界は現象を単純化、平均化して、現象を理解するのに成功しているが、実際はもっと複雑で変化に富む。バラツキを考慮した理解方法はスタートしてまだそれほど年月は経っていない。工学設計の世界ではそのバラツキの部分を安全率との概念で逃げている。神戸地区も震度7を想定した防災対策が事前に実施されておれば災害はもっと小さく押さえられたのではないか。
  新聞に出ていた話に、ある地震学者が神戸地区でも震度7は有り得ると主張していたとのこと。結局は少数意見で発生の確率は小さいとの判断で、震度5という想定になったのではないかと思う。最も研究されなければならないのは、たとえ1%の確率でも起こり得る時、どう判断するかという点である。神戸での震度5と決定に至ったプロセスを徹底的分析して、誤った決定に至ったのはなぜか研究する事も重要ではないか。それをふまえて、関東地区で想定されている震度6は適切なのか再検討し、建物、道、救助体制、避難方法などの見直しをすべきと思う。
  しかし、現在の東京地区の混雑状況ではおそらく今回と同じ震度7になれば大きな災害は避けられないのではないかと心配する。結局は都市の分散化が課題となり、ドイツのような機能分散の国作りを進めることが究極の対策のような気がする。
  今、我が家のそばを流れるライン川は外側堤防下2mの所まで増水している。フランス、ベルギー、ドイツにかけて、この1月下旬から大雨の日が続き河川が増水、ドイツではワインで有名なモーゼル川、ライン川が氾濫し、コブレンツ、ケルンでは床上まで浸水している。また先日訪問したルクセンブルグにあるタイヤメーカー技術センターのそばの川も氾濫していた。我が家近くのライン川はいつもは内側堤防の範囲内で川幅約350mであるが、増水により川幅は1000mに達した。内側と外側の堤防の間にあるテニスクラブ、レストラン、屋外プール、畑はすべて水の中、家庭菜園用小屋は水に浮かんで流れている。