1996年8月30日金曜日

子犬のワルツ


 
延々と続く石炭搬送用コンベアベルト
 
ヤスナグラ僧院(現ローマ法王の出身僧院)
旧ナチスビルケナウ収容所跡
  子供のころ我が家には親父時代からの骨董品のオルガンがあった。そのころは音楽にそれほど興味もなく触れることは全くなかった。中学になって京都市中学音楽祭があるということで音楽の教師が急遽人選して合唱団を作ったとき、偶然その人選に引っかかった。これが私と音楽とのつきあいの始まりであった。放課後は音楽室で過ごすことが多くなったが、その時上級生のピアノ部のお姉さんが華麗にピアノを弾いていた。その曲はショパンの「子犬のワルツ」。私も弾けたら楽しいのではないかと思い練習を始めた。学校ではピアノ、家ではボロボロのオルガンをたたき始めた。ピアノ部の女性のようには華麗ではないけれど、ようやく弾けるようになったときの感激は今でも覚えている。
  この夏休みの後半はポーランド一周のドライブ旅行。昨年ボランティア活動でドライブしたときはベルリンからの国境越えであった。しかし、車の長い行列に出くわし国境を通過するのに2時間も費やした。今回はそれを避けるためドレスデンから入ることにした。予想していた通り国境での行列はほとんどなく10分で通り過ぎることが出来た。しかし、ポーランドに入ってまもなく高速道路を走り出したとたんお腹をえぐるようにドンドンという振動が伝わる。外観は立派な高速道路であるが表面は凸凹。振動が激しくスピードは90km以上出せない。5年前の旧東独の高速道路と全く同じ。旧東独ではまだ依然として道路の改修工事は続いているが、ドイツの経済力でこの5年間でかなりの部分が旧西ドイツのレベルになってきた。しかし、ポーランドでは高速道路の改修は後回しのようで、むしろ普通の国道が先に美しくなっていた。昨年の時よりさらに一般道路は走りやすくなっている。
  ポーランド南部のカトヴィツェを中心としたシレジア地方は石炭鉱山を基盤として鉄鋼など産業が発達している。ドライブしていると大きな何キロもあるコンベアベルトに出くわした。鉱山から石炭を鉄鋼などの工場へ運ぶコンベアベルトである。15年ほど前、旧共産圏から石炭用コンベアベルトを日本が大量に受注、その基布になる織物をたくさん設計したことがあるが、その製品を使用したと思われる巨大なコンベアベルトをはじめて見ることが出来た。まわりには至る所に炭坑があり、また大きな火力発電所が見られた。この地方は産業が発達、庶民の家も美しく、活動も活発で西欧と変わらない豊かさが見られた。

  このシレジア地方の東にポーランドの古都クラッカウがある。第二次世界大戦にも破壊されることなく昔の建物がそのまま残っている趣のある町である。その一角に有名なユダヤ人街があり、ナチス時代のゲットーの建物がそのまま残されている。歩きながら映画「シンドラーのリスト」を思い出す。一時的にこのゲットーに集められ、まもなく最後に追い立てられてアウシュビッツに運ばれる。その現場がここなのか。このようなことがもう二度とないように広場には犠牲者を弔う碑が建てられている。
  また車で約1時間の所にはアウシュビッツがある。人間世界のもう一つの、価値観が一つしかない世界の恐ろしさを再度見せつけられる。アウシビッツ近くのビルケナウ収容所は、いままで訪れたことのあるブーヘンバルト、テレジン、ダッハウの収容所より、とてつもなく広大なものであった。粗末な煉瓦の土台に木でバラックが造られている。隙間だらけで、今冬経験したような -22℃の時にはたくさんの人々が殺されるまでもなく凍え死んだのではないかと思われた。壁に書かれた標語「Sauber Sein ist Deine Pflicht.」(きれいにしておくのはおまえの義務)は誠に冷血な響きを伝える。
  ポーランドの歴史でユダヤ人はポーランドに同化し、ポーランド文化の一翼を担っていた。しかし、何百万人という人々がガス室から消え、今ではわずか数千人という。50年後、イスラエル大統領がドイツ国会で演説した時の言葉が思い出される。「ナチスが殺害した人々が生きていたならどれほどの書物が、交響曲が、科学的発明が生まれていたであろうか」。人類にとって永遠に記憶にとどめなければならないことと感じる。
  ポーランドで忘れてはならない町の一つ、チェンストホーヴァーにも立ち寄った。ローマ法王パウロ二世の出身地である。そのヤスナグラ僧院はポーランドの敬虔なカトリック信者の総本山。8月15日の聖母昇天祭に向けて有名な「黒いマドンナ」に祈るたくさんの人々が集まっていた。遠くからも数週間かけて歩いて参拝するのが習わしという。幾度となく外国の支配を受けるポーランド苦難の歴史の中で人々の支えになったのは宗教であったのだろう。ポーランドの人々の95%がカトリック教徒というのは理解できる。
  北上を続け、ショパンのピアノ曲を聞きながらようやくワルシャワに入った。さっそくショパンが生まれた家に向かった。その場所は、ワルシャワ郊外西60kmジェラゾヴァヴォラである。小川も流れる木々の茂った広大な庭園のあるスカルベク伯爵屋敷の一角に、二階建ての白い建物が生家として公開されている。父ミコワイはこの伯爵家の家庭教師をしていたのである。ショパンはここで生まれ、生後7ヶ月で一家はワルシャワへ移る。ワルシャワで成長するのであるが、ジェラゾヴァヴォラやその近郊の田舎へは夏休みになるとふるさとのようによく出向いてその地方の郷土音楽に親しんだという。7才の時にはすでに作曲をしているが、マズルカやポロネーズはこれら地方の音楽から感じとったものを作曲したのだろうといわれ、その後の彼の作風の根底になっているという。
  広大な平原と森、その中で生まれた郷土音楽、このような環境の中でショパンははぐくまれた。演奏家としても秀でていたが、それだけだったらとっくの昔に名前は忘れられているだろう。それだけではなかったことで彼は偉大な芸術家となった。いつもの持論であるけれど演奏家はただのテクニシャン、音楽の世界での唯一の芸術家は作曲家であると再度認識した。
  そして最後はグダニスク。古い旧市街と巨大な造船工場が不思議とマッチしている。この数週間前の新聞でこの造船所がとうとう破産したことを知った。しかし、ドックには建造中の大きな船が見られ、依然として工場は動いていた。元大統領のワレサ氏が再建を熱望しているという。
  帝政ロシアの圧政が済めばポーランド分割、ナチスドイツの占領が終われば今度はソ連の圧力、ポーランドの多難な歴史の中でいつも外圧に耐えてきた忍耐力。この造船所から発生した連帯運動も10年もの長きにわたって続け、ようやく勝利を得ることができた。ポーランド人の忍耐力のすばらしさには脱帽せざるを得ない。グダニスク港は貿易港として栄え、近辺はたくさんの輸送トラック、車で慢性渋滞。排気ガスの臭いには閉口したが、北の経済拠点として今後も発展していくものと思う。
  コペルニクス、キュリー夫人、ショパンのような世界文化をになう人物も傑出したポーランド。腕力はないけれど地道に成し遂げる力、人口3800万人とロシア、ウクライナに次ぐ東欧での大きさを持つこの国は、平和さえあれば豊かな国になるとの印象を受けた旅であった。
  この国の偉大な芸術家のおかげで、これからも「子犬のワルツ」を弾いて楽しむことが出来る。今では家族から「子豚のワルツ」とからかわれるけれど自分で弾いて楽しむことほどすばらしいものはない。作曲家ショパンはやはり天才芸術家である。