1994年12月30日金曜日

Weihnachten(クリスマス)

  「Die auf diesem Flug angebotenen Mahlzeiten enthalten kein Schweinefleisch.」(この飛行機で出される食事には豚肉は含まれていません。)ドイツからイスタンブールへ向かうルフトハンザ航空の機内食説明書のコメントである。

  今回はじめてトルコを訪問する機会があった。豚肉の好きなドイツ人も乗客には多いと思うが、イスラム教の人のためにルフトハンザは気を配っている。日本人のような雑食人種にとって、何故イスラム教では豚肉を食べてはいけないのか、こんなにおいしい物が食べられないのはかわいそうといいたくなる。特殊世界にだけ通用する戒律であり、その普遍性はないと感じる。

  宗教とは人の精神的支えになるものではあるけれど、逆に人の活動を規制する役目も持っているようだ。信じれば、自由の制限ではなく、それが自然のことと受けとめることになるのだろう。トルコはイスラム教の戒律から比較的自由な世界に見えたが、たまに、目以外は完全に黒装束の女性も見られ、初めて見るものにとっては異様な感じを受けた。もっといろんなおしゃれが楽しめるのにと思う。

  しかし、おせっかいというものなのだろう。人はそれで満足していれば他人はとやかく云うことはないというのも道理である。もし、助言を求めてきたときにはご意見を差し上げるのが良いと思いつつドイツへ戻った。

  先日、レンブラント派の絵画展がミュンスターで開催されているというので訪れた。デュッセルドルフから東北150kmの所にある古い町である。この町の中心にランベルティ教会がある。15世紀に完成したその聖堂には、90mの尖塔がそびえている。この塔の大時計の上の窓に鉄製の篭が三つぶら下がっているのが見られた。これは1534年~35年にこの町を支配した再洗礼派の首謀者3人が処刑され、見せしめのためにその死体を入れてぶら下げた鉄篭という。処刑は焼きゴテで突き刺す方法だったといい、キリスト教という宗教の世界での非人間性を示す例の一つであると感じた。

  再洗礼派は、乳児期に受けた洗礼は本当の洗礼ではなく、真のキリスト教者になるには、成人した後もう一度自覚的に洗礼を受けなければならないと主張する。宗教改革当時このミュンスターではルター主義にとどまらず、ラジカルな再洗礼派に支配された。この時、カトリックもルター派も弾圧する側となって攻め込み、まもなくこの一派を追放した。そして、その指導者3人が処刑されたという歴史である。

  宗教とは人間の内的精神的苦悩を助けるものとして存在価値があるが、それが権力化すると逆に人を苦しめるように働く。自我の確立以前に宗教を教え込まれるとそれを信じ、三つ子の魂百までと云うように、その価値観を変えることは非常に難しい。自分の信じることが絶対正しいと思いこみ、それがいろいろなトラブルのもととなる。

  この意味で、再洗礼派の主張する所はよく理解できる。乳児期に一方的に洗礼させ信じ込ませるのは盲信につながり結局は、再洗礼派の首謀者が受けたような非人間的な行為にまで至るのだろう。もちろん再洗礼派にも過激な行き過ぎがあったことも一因にあると言われているが。

  12月のヨーロッパは極端に日が短く暗い雰囲気になるが、その暗さをはねのけるように、街角、家にはクリスマスのイルミネーションが美しく映えている。クリスマスマルクトは毎日、子供も大人も沢山の人々で賑わっている。宗教というものが個人の自我を奪い去るものではなく、自由な雰囲気の中での自己の確立を助けるものであってほしいと思う。