1997年7月20日日曜日

前書き

自宅近くのライン川
  1997年7月4日(金)、快晴の関西空港に降り立ったとたん、ムットする気候であった。34℃とすでに真夏の暑さ。一時帰国もなかったことから、この7年弱、経験したことのないものであった。

  三ノ宮駅行き高速バスから見える文字はすべて日本語、ようやく日本へ帰ってきたとの実感が湧いてきた。三ノ宮駅周辺の人の多いこと。30年ほど前よく三ノ宮で遊んだけれどその当時の面影は何もない。大震災のため建物は新しくなってすっかり変わってしまっていた。まだ所々空き地が見られるけれど、かなりの建物・道路は改修され、本当に美しい姿になりつつあった。

  会社の岡本社宅に入居したが、布団はなし。さっそく布団屋を訪れ布団を購入しようとしたが、希望の出来合いのものはなかった。しかし、店の主人が夕方6時までに希望のものを作って届けるという。結局約束どおり布団は配達され無事その夜から新しい布団で寝ることが出来た。ドイツではなかなかこうは行かなかったことが思い出された。

  1990年12月19日、アンカレッジ経由デュッセルドルフ行きの飛行機に乗りヨーロッパ駐在員としてドイツに赴任、1997年7月の帰国までの7年弱、駐在員としての毎月の報告書に付け加えて、見たり、聞いたり、感じたりしたことを独断と偏見で書き残した。ここにその内容を紹介する。
帰国便からの明石大橋

1997年6月30日月曜日

帰国

  「今日も熱が下がらない。もともとの風邪はすっかり直ったというのに。」東京女子医大に通ってすでに2週間が経過。医者はいろいろ検査するけれど何の異常もないという。もう駐在員としての赴任は難しいかも知れない。赴任予定日からこの2週間、一応有給休暇で休んだことにしているが、このまま回復しなければいつまで休めるのか、などなど頭の中は混乱を極めていた。ところが数日後の朝、何故か体が軽く熱が下がっていた。即会社に電話を入れ飛行機の手配をし、アンカレッジ経由デュッセルドルフ行きの飛行機に乗った。1990年12月19日のことであった。

  入社当時は海外事業華やかな時。必ず海外での仕事があるというので英会話を習おうかと思っていた矢先、会社の方針は大変換。海外事業から続々撤退すると同時に、海外留学・語学留学などの制度も全くなくなってしまった。その後20数年、国内関係の仕事にすっかり没頭し、外国語との縁は完全になくなってしまっていた。また自慢にもならないが、海外出張もなく、海外旅行もない生活であった。ところが、突然44歳間近になってヨーロッパ駐在員という辞令。すでに老眼の進んでいるものが何故。全く予期していなかった海外への転勤、それも工場勤務ではなく駐在員とは。これから何が起こるかさっぱり見当がつかないという不安が無意識に体のバランスを崩させたようである。

  初めての海外旅行がヨーロッパ駐在員としての赴任の時。来てみれば当然経験したことのないことばかり。特に赴任した季節が悪かった。毎日曇りと雨のぐずついた天気。朝は9時すぎにようやく明けて、夕方も3時過ぎには暗くなってくる。北陸の12月の雰囲気よりまだ暗い。寝泊まりした安ホテルは天井が高くて窓の少ない、まるで監獄のよう。いきなりクリスマス休暇になりレストランまで閉店のため食事にも困った。

  新たに家を借りることになったが、電話取り付けを依頼しても何回もすっぽかされた。家具も予定通り配達されずイライラがつのった。しかし、寒い冬が過ぎて春になるとようやく家族との生活が始まり、時間と心の余裕が出来るようになった。さらに1年間の生活体験を経過するとヨーロッパでの当初のカルチャーショックは消え去り、また言葉のストレスも無くなっていった。結局は、人間は同じ、ただ生まれ育った環境のために食事、習慣、言葉などの文化が異なるだけと思えるようになった。

  ヨーロッパでのカルチャーショックは難なく解消されたが、全く予期していなかった小さな日本人集団でのカルチャーショックの方が大きな衝撃を与えた。異国文化の違いは体験によりある程度慣れることが出来るが、生き方に対する貧しい価値観には同化することは難しい。このショックがこの小さな集団での活動に大きな影響を及ぼすことになったが、一方では外向きの活動に没頭するパワーを生み出すもとにもなった。ドイツ・フランス・スイス・オーストリア・ベネルックス・イギリスはいうに及ばず、北はノルトカップ、北極圏、西はポルトガル・スペイン・アイルランド・ネス湖、東はポーランド・チェコ・スロバキア・ハンガリー、南はイタリア・シシリー島など仕事にプライベートに車でヨーロッパ中を走り回った。わがベンツとレンタカーで30万Kmは走ったであろうか。

  ヨーロッパの美しい街角、きれいに保存された自然、余裕のある豊かな生活環境を身を持って体験すると共に、一方では歴史的には不正と大変な破壊と非人道的残虐行為なども繰り広げられたことも見せつけられた。宗教戦争、領地分捕り合戦、2度の世界大戦、ナチスによるホローコースト、公害問題、最近では社会主義東欧諸国で噴出したいろいろな問題など。現在の豊かな社会はこれらの大きな犠牲のもとに成り立っていると認識せざるを得ない。

  このような人間の負の歴史はヨーロッパではようやく克服されたようであるが、発展途上国では今なお続いている。産業が導入され一部の人は豊かさを享受しているが、その一部の人の不正がはびこり、ほとんどの人々は、戦争の犠牲、劣悪な環境、貧困のなかでの生活を余儀なくされているのが現実である。発展途上国もヨーロッパ諸国が歩いた道をまた繰り返しているようである。

  不正、破壊、犠牲のない社会発展を遂げるにはどうすればよいのかとつくづく考えてしまう。人それぞれいろいろな面での向上心を持っている。自分をよりレベルの高い所へ持っていきたい。その目標に邁進し目的を達成し、それにより何らかのよりよい境遇を得る。それが自分の生活を豊かなものにすると考える。しかし、本当の向上心とはそのようなものだけなのだろうか。今までの歴史を見てみるとこのような価値観だけが支配的であったがために、結局はいろんな負の歴史も作り出していったのではないか。

  「人間のもつ向上心とその努力は、世界の人々の幸せに役だってこそ価値があるのであって、自分のためだけ、あるいは自分の名誉だけに向けられるならそれは非常に悲しい結果となる。」

  日本では官僚・有力企業の不正・腐敗構造が続々と公にされてきている。日本という国が精神の世界ではいまだに後進国のままであるとの印象を強く受ける。仕事の世界でも新しい価値観が求められているように思う。五十にして天命を知るというけれど自分の力量を見極めながら、7年弱におよぶヨーロッパの生活体験を心に秘め、これからも精いっぱい励んでいきたいと思う。

1997年5月30日金曜日

クレフェルド

  クレフェルドはデュッセルドルフの北25kmの所にあり、染色会社のクレスをはじめ、産業資材織物のフェルサイダッハなど有名なテキスタイル会社があるとともに、イタリアのテキスタイルメーカーのマンテロ社兄弟も学んだというテキスタイルデザイン学科を有する工科大学(ファッハホッホシューレ)、ヨーロッパではフランスリヨンに次ぐ織物博物館などを有し、ドイツの繊維の町として知られている。来欧してすぐの1月、雪の降る日、初めて車でクレス社を訪問、アウトバーンは除雪され問題なかったが一般道路に入ると雪のためスリップし、のろのろ運転で訪問したことを昨日のことのように覚えている。

  この5月19日の月曜日はキリスト教の聖霊降臨祭という日で、デュッセルドルフでは土日と続けて3連休となった。この期間このクレフェルドの東端にあるリン城はフラックスマルクトで大変賑わい、特に小さい子供を連れた親子連れで一杯であった。フラックスとは亜麻のこと。1315年、リン城の回りの亜麻を栽培する農民達が生活必需品と物々交換するために出来た市場がこのフラックスマルクトのはじまりである。その後この市場は食物も含めた生活必需品の市場として発展し、1903年まで続いていたという。このむかしの市場の面影を記念して1975年に年一回のお祭りとして現在のフラックスマルクトが再開され、今は毎年一回この聖霊降臨祭の3連休に開催されている。

  リン城を中心に城内のみならず町の一部も含めて日常生活必需品を売る出店でいっぱいである。特徴は中世のもの作りの有り様をそのまま再現していることである。中世の服装のおばさんが亜麻の繊維から手作業で紡績し、撚糸し、そして手機織機で織物を作る所まで実演しつつ、飾りとしての織物を販売する。また刺繍、ボビンレースなども実演しその製品を販売する。鍛冶屋も中世の装束で飾りものを作る作業を実演し製品を販売する。パン屋も同様。

  興味深かったのは紙屋さん。抄紙法は和紙と同じ技術であるが、透かしの作り方を実演していた。前の列には台がおかれ小さな子が見られるようになっている。子どもたちは食い入るようにその工程を見ていた。出来上がった透かしの入った紙を子どもたちは不思議そうに見入っていた。広いお堀に囲まれた芝生では中世の服装をした騎士たちが日本でいう流鏑馬の実演をしており、ヨーロッパの中世の雰囲気を知ることができた。

  それよりも、このお祭りで感じたのは、もの作りの基本は長い人間の歴史の中で営まれ、現在の最新技術も今までの技術を基礎に成り立っているということである。小さい子供達に昔の人々が創造してきたもの作りの面白味を言葉ではなく実際の目で見て体験させるという機会を与えているようである。

  ある子は亜麻が人の手により美しいボビンレースに変わる姿に、ある子は人の手によって鉄の姿が変わっていく様子に、ある子はパルプが紙に変わる姿に、など興味を示し、自分でもの作りをしてみたいと思う心が芽生えるのではないかと思う。このお祭りが、ドイツのもの作り技術伝承の一つの方法になっていると思った次第である。

1997年4月30日水曜日

ゲーテインスティテュート

  4月1日、私の後任がデュッセルドルフに着いた。デュッセルドルフの飛行場が初めての出会いであった。私より随分若く我が事務所もどんどん若返って行く。翌日銀行口座の開設、日本領事館への登録、日本人クラブへの登録、外人局への登録など手続きはスムースに進んだ。ミュンヘン行きの飛行機まで少し時間があったので、さっそくベンツの店へ行き車を品定めした。新型のEタイプがあり、この車を購入する方向で検討することになった。すぐ飛行場に向かい、彼はミュンヘン経由プリーンへ向かった。これから1ヶ月間ゲーテインスティチュートでドイツ語の研修を受けるためである。25日までは学生気分でドイツの生活にまずは慣れることから始まる。
  6年半前、私がドイツへ赴任したときのことが思い出される。赴任したとたん、湾岸戦争が始まり本社から飛行機の出張中止指示があり、前任者との出張はほとんどなく前任者はそのまま帰国した。その年も5月にフランクフルトでテックテキスティルが開催され、当時は我が事務所ですべて準備していたものだから、メッセ業者との打ち合せなどで大変忙しくしていた。
  また6月にはドルンビルン学会のフォローなど仕事は目白押しであった。このためか当時の上司の判断でドイツ語研修は夏休みまで延期され、ドイツ語研修は結局夏休みも兼ねて行くことになった。いつもは前任者が帰国した直後の月に行くことになっている。研修の間は他の駐在員がカバーすることが前提になっていると説明を受けていた。それが何故か私の場合はカバー出来ないとの判断であろうか。結局7ヶ月後にドイツ語研修を受けることになったのである。
  すでに家族が来ていたので、毎週土日は研修場所のローテンブルグから車で帰宅し家族と共に過ごし、また日曜日の夜にローテンブルグに戻るという生活であった。土日デュッセルドルフに戻った時事務所にも寄り、一週間分の仕事も済ませた。研修を受けつつほとんど仕事もこなすという生活であった。しかも上司からは月報も提出するようにとの指示で月末それら仕事の内容を書いて提出したのを覚えている。とは言え毎日授業は14時で終了することから時間的に余裕があり、久しぶりに学生気分を味わえ楽しい思い出となった。
  しかし、苦い思い出もある。その年の7月7日の日曜日、デュッセルドルフ日本人学校の運動会がラインスタジアムであった。我が娘も出るため家族で出かけた。学校の催しというよりもデュッセルドルフの日本人集団のお祭りのようなもの。とにかく日本の雰囲気を十分に楽しんで翌月曜日の朝3:30デュッセルドルフを出て、ローテンブルグに向かった。ローテンブルグ近くになってすごい霧に出くわしアウトバーンの出口が分からない。予定より随分走って急に出口が見えた。すぐに出るべくハンドルを切ったがスピードは落ちておらず出口カーブのガードレールに擦ることになった。後から分かったのであるがローテンブルグの出口から3つの出口を見過ごしていた。ガソリンも少なくなっていたので近くのガソリンスタンドでガソリンを入れてもとの出口に戻ったところポリスが来ていた。おそらく誰かが電話をしたのだろう。事情聴取となり、事故証明書を発行してもらい若干遅れたがドイツ語の授業を受けた。
  授業の後近くのベンツ営業所へ行くと数日で修理可能とのことで、まもなく元通りの車になった。事故証明のおかげで経費は保険でまかなわれた。すでにヨーロッパ中を我が車で22万Km走り、さらにレンタカーも入れると30万Kmは走っただろうか。車に関する唯一の苦い、そして貴重な体験となった。
  そして家族との夏休みは一週間ほど家族をローテンブルグに呼びドイツ語研修を受けながら過ごすことになった。授業が終わってから車でクレクリンゲン、ビルツブルグ、アンスバッハ、ディンケルスビュールなどドライブ、土日はミュンヘン、ノイシュバンシュタイン城など回り、初めてドイツの観光名所を見て回った。ヨーロッパのお城、中世の町並み、延々と続く平原など新鮮で印象深かった。ドイツ語研修から戻ると、ITMA91デレゲーションの準備などでまたまた忙しい日々に戻った。
  その後、新任者のドイツ語研修は前任者が帰国した後すぐ実施することで続いている。1980年代と違ってわが社もグローバル化が叫ばれ各自それぞれ担当分野で忙しく動き回っており、研修中の新任者のカバーは必ずしも出来ていない。そういう事情で、今回はドイツ語研修を済ませてから引き継ぎを進めるという方式を試すことになったもの。
  後任のドイツ語研修もまもなく終わりいよいよ引継がはじまる。まだ私の帰任先は決まらず実感がわいてこないが、引継の準備と帰国の段取りをしなければならない。この6年半の間一時帰国を何回か段取りしたけれど結局は実現しないままとなった。私の日本時計は1990年12月のままとなっている。そろそろ日本時間にあわせるべく準備をしなければと思う。

1997年3月30日日曜日

シュタインカンプさん

  先月はほとんど出張でつぶれてしまったが、今月に入っても引き続き出張が続き、ようやく16日夜家に帰宅した。食事の後、たまっている日本の新聞とともに、ドイツの新聞Rheinische Postを読んでいると、3月14日付け新聞に新約聖書コリント人への手紙の言葉を引用した死亡記事を見つけた。
Glaube, Liebe, Hoffung
diese drei,
aber am grössten ist
die Liebe
Korinther
Dr.med.Hubert Johannes
Steinkamp
*4, Oktober 1927
†6, März 1997
Ich betrauere den Tod
meines Mannes
Herr,Dein Wille geschehe
Dorothea Steinkamp
Die Beerdigung hat
in aller Stille stattgefunden
信仰、愛、希望
しかし、この3つの中で
最も偉大なのは
愛である
コリント人への手紙
医師 フーベルト ヨハネス
シュタインカンプ
1927年10月4日生
1997年3月6日没
私は夫の死を弔い

神の御心に従います
ドロテア シュタインカンプ
葬儀は内々にとり行われた


 ちょうど6年前の3月末、家族がデュッセルドルフにやってきた。妻はその後子供の学校の手続き、家具荷物の整理などに忙しく過ごしていた。ところが2週間経った金曜日の朝腹痛を訴えた。しばらく様子を見るため私はそのまま出勤したが、夜帰宅するとますます痛みは激しくなるという。ちょうど右下腹が痛むという。

  それで、会社の秘書の自宅に電話を入れたところ、すぐに彼女のホームドクターに電話を入れてくれ、その診療所に出向いた。原因が不明のため取りあえず痛み止めを処方し、薬局で購入し帰宅し様子を見ることになった。しかし、夜になっても痛みはおさまらず、さらには熱も出だした。家庭医学の本で調べると、症状は全く虫垂炎と思われた。

  翌日土曜日、診療所は休みであるが、朝になり秘書からその医者の自宅へ電話を入れてもらった。医者は休みにもかからわず診療所に来るようにとの指示。さっそく見てもらい、これは虫垂炎に違いないとの診断となり、救急病院外科への入院の段取りなどしてくれた。

  さて、病院では手術するには白血球のチェックが必要とのことでさっそく血液検査を受けた。結果は白血球の増加なし。医者はこれでは手術は出来ないとしてまずは入院して様子を見ることになった。そして土日と病院で過ごしたが、腹痛もやわらぎ、発熱もなくなったので退院した。

  しかし、火曜日になるとまた腹痛、発熱し、再度入院。白血球はやはり増加なしとのことで手術はせずそのまま入院した。腹痛は続くが、熱が高くなれば解熱剤をくれるだけで、検査はするけれど治療は全然なし。2週間入院していつのまにか腹痛もなくなり結局原因不明のまま、治療も受けず退院することになった。

  退院するにあたって医者からホームドクター宛手紙が託された。それにはなんらかの感染症で原因は不明との記載であった。さっそく診療所に出向き対応をお願いした。結局薬が処方され、それを飲んで一週間後また来なさいとなった。

  すでに健康な状態に回復していたが、医者の指示に従って食後その薬を飲んだ所、急にふるえと血の気がなくなり嘔吐し寝込んでしまったため、それ以後その薬を飲まないことにした。一週間経って再度検査を受けたところ、薬を飲んでいないだろうと指摘され事情を説明した。薬の量を半分にしてのむようにとの指示で、また一週間のみ続けようやくその医者の全快のお墨付きをいただいた。

  少々話が長くなりすぎたがこのような出来事が昨日のことのように思い出された。この思い出のお医者さんがシュタインカンプさんである。当時はドイツへ赴任した時必ず身体検査を受けることが必要で、その時初めて接したのがシュタインカンプさんであった。その身体検査を受けてすぐにまた妻が病気でお世話になるとは予想していなかった。まだドイツへ来たばかりでどうすれば良いのかさっぱり分からない中で、休日にもかからわず診療所に出てきていただき、本当に救われる思いであった。

  その後我が家のホームドクターとして毎年の健康診断を受け続けた。しかし、ドイツ人と日本人では体格の違いか、基準が違うようで、たとえばコレステロール値が260でも問題ないという。健康診断書を東京の医師に送り見解を聞くと問題との指摘。妻の場合も薬の量が日本人には多すぎた。やはり日本人の体は日本人医師がよく知っていると判断し、3年前マーストリヒトに日本人医師による健康診断所が開設されたため、それ以後マーストリヒトに通うようになった。このためしばらくお目にかかることはなかった。

  本帰国する前には、お会いし挨拶をしてからデュッセルドルフをあとにしようと思っていたが、かなわないことになってしまった。当時のことを思い出すと感謝してもしきれない思いである。せめて、イースター明けに夫人宅を訪問しお世話になった感謝の言葉とお悔やみを伝えるつもりでいる。

  シュタインカムさんの人生の指針は愛であったのだろうと思う。シュタインカンプさんのご冥福をお祈りしつつ。

1997年2月25日火曜日

神々の黄昏

  デュッセルドルフの北30kmにあるエッセンという町はルール工業地帯の中心的町として有名であるが、この町に澤田さんという御夫妻が住んでおられる。ドイツに住んですでに28年、ご主人はエッセン交響楽団のホルン奏者、奥さんはバイオリニストである。お二人とも東京の音楽大学を卒業した後、ケルンの音大でさらに勉強され、現在はそれぞれの分野で活躍しておられる。
  特に親しくなったのは、ご主人と私が全く同い年、そして出身が京都であったためである。話をするうちに、中学校の時の一学年上の友達で音楽高校から東京の音大へ進んだ人がいると話を持ち出したところ、澤田さんの友達でもあることが分かり、ますます身近に感じるようになった。
  その友達は中学時代からブラスバンド部でホルンを習い、当時合唱部にいた私と放課後はよく顔を合わせていた。中学卒業後ホルン奏者になるといって京都の音楽高校へ進み、そこで澤田さんとも友達になったという。当時彼のお母さんはチンドン屋のラッパ吹きぐらいにはなるかもと謙遜しておられたが、その後読売日本交響楽団のホルン奏者として活躍、私も彼がテレビに出演しているのを何回も見て楽しませてもらっていた。今彼はどうしてますかと聞くと、交響楽団をやめて現在はドイツとの文化交流関係の仕事をしていると聞いた。
  エッセン交響楽団は、普通の演奏会の他にエッセンオペラハウスでのオペラ演奏にも出演する。エッセンオペラハウスはデュッセルドルフオペラハウスのように専属歌手はおらず、合唱団以外の歌手はすべて客演で興行している。それぞれの演目に応じてそれを得意とする歌手を招くので、デュッセルドルフよりも聞きごたえがあるという意見も多い。
  昨年、澤田さんご自身が演奏するオペラに招待していただいた。演目はワーグナーの“神々の黄昏”。有名なバイロイト祝祭劇場落成記念公演のために作曲された“ニーベルングの指環3部作”の最後の曲である。ラインの川底の世界にある黄金から作られた指環を手に入れれば世界の権力を手に入れることが出来るとのことからラインの神々が獲得合戦を演じ、神々の孫ジークフリートの活躍をからめ、ジークフリートも悪巧みにより殺されるなど結局は争いにより神々が没落、その黄金の指環はもとのライン川底の世界に落ちつくというゲルマン民族の神話物語である。
  延々6時間、その間主演の歌手はほとんど歌いづめ、さらにはオーケストラも演奏づめ。幕間の休憩の時、ロビーに澤田さんがわざわざ私に会いに来てくれた。こんなに長時間演奏し続けで疲れませんかと聞いたが、プロですからと軽くいなされた。
  ワーグナーはホルンを効かすのが得意で、特にこの曲ではワーグナー自身が考案したという特殊なホルン、ワーグナーチューバを使う。チューバとホルンを組合わせたもので荘重な音色が出る。実際、澤田さんもオーケストラボックスの中で、普通のホルンとこのワーグナーチューバを使い分けしながら演奏されていた。
  6時間もの長時間公演にもかからわずその音の魅力に引きずり込まれた。ホルンが華々しく響く曲であり、ホルン奏者の活躍できる数少ない曲の一つである。それ故招待してくれたものと思う。
  それ以後時間の出来たときにはデュッセルドルフのみならずエッセンのオペラにも通うようになった。今年に入って、プッチーニの“蝶々夫人”がこのエッセンオペラハウスで演じられるというので見に行った。特にこのオペラには思い出がある。高校生の時初めて見たオペラがこの“蝶々夫人”だったからである。当時二期会の中沢桂、友竹政則などが演じていたように記憶する。今回、“蝶々夫人”を演じた歌手は日本女性のしぐさを見事に研究しており、誠に日本女性らしく演じていた。
  しかし、どうしても着物、舞台などは日本と違和感があり、日本人が舞台を作り、衣装を担当することが必要と思われた。とはいえ、本場の“蝶々夫人”を見て声量といい、演技力といい、当時の日本人が演じたものとは格段に聞くものの心をとらえた。当時の日本の公演も日本の一流の人たちではあったが、オペラという文化では層の厚さの違いを感じざるを得なかった。
  3年程前、デュッセルドルフオペラハウスの馬場ちひろさん出演のオペラを鑑賞させてもらったが、その後彼女は契約出来ず現在はフリーで研鑽しておられる。また同じような境遇の女性歌手も何人かデュッセルドルフで生活しておられる。音楽の世界で生きていくのもなかなか大変との現実も身近に見せられている。
  私の中学時代の友達もすでに演奏家としての仕事から離れたと聞く。本場ヨーロッパでもプロとして生きて行くには才能はもちろんのこと、それプラス、強運も大変必要なようである。私自身は才能がないから素人として演奏したり歌ったりして楽しんでいる。才能がないことからかえって気楽に音楽を楽しめる境遇になったといえる。
  なぜか我が娘は中学以来ホルンを吹いたり、バイオリンを弾いたりしている。我が娘を通じて澤田さん御夫婦と知りあいになることになった。これからも澤田さんご夫妻が出演される演奏会にチャンスがあれば出かけて、音楽を楽しませていただこうと思っている。

1997年1月30日木曜日

エトナ火山

  この正月休みは家族で4回目のイタリア旅行。今回は南イタリアに行くことにしたが、懸念されることが2つあった。一つは南イタリアの交通道徳のなさ、そしてもう一つはマフィアの存在である。いろいろ経験してみたいというちょっとした冒険心もあり、これら危惧を押して敢えて車で回ることにした。

  5年前、ナポリを初めて訪れたときは飛行機で入りタクシーを利用した。道は混みに混んでおり、対向車線に車がいないとなると堂々と走っていく。対向車があったらどうするのかと心配したがまたスーットもとの車線には入り込む。とにかく町の真ん中は車の洪水。クラクションがそこら中で鳴り響く。ほとんどの車は当たった跡があり凹んでいる。目の前で当たってもそのままさよなら。赤信号でも平気で進んでいく。こんな所ではとうてい車の運転は出来ないとその時思った。

  さて敢えて今回運転してみるとやはり状況は同じ。赤信号で平気で進んでいく。赤信号で待っていると後ろからやかましく早く行けとばかりクラクションが鳴り響く。うるさいとぶつぶつ一人でいいながら我慢して待つ。前はもちろん右左、後ろまで気をつけて、どんどん前へ進まないと取り残される。後の車は車間距離をほとんどとっていないのでブレーキを踏むにも後を見つつ細心の気配りが必要である。

  少々凹んでも良いのならそんなことお構いなしに進めばよいのであるが。フランスのパリも同じ気配りが必要であるが、信号はちゃんと守っている。信号もあてにならないので、信用するのは我が目だけ。とにかく少しでも空いていているところをわれ先に進まないと前へ行くことは出来ない。しかし大変ではあったが、結局はなんのトラブルもなく、風光明媚なソレント・アマルフィ海岸、コセンツァ、セントジョバンニを経由してシシリー島に入った。

  もう一つの懸念はマフィアの存在。その本拠地はシシリー島のパレルモ。夕方に到着し、車の動きはナポリと全く同じとすぐに認識。すでにナポリで経験済みのため車の運転は特に脅威ではない。ホテルはすぐに見つかり、さっそく車はホテルの駐車場へ。さてこれから夜の町を歩くかどうか。いろんな人からパレルモの夜歩きは危険と聞いている。しかし、ホテルにこもっていてはおもしろくない。とにかく家族で出かけることにした。

  出かけてみると一番の繁華街ローマ通りはミラノなどの中心街と全く同じで危険など感じることはなかった。着飾った若い女性がショッピングを楽しんでいる。お店はどこもあでやかなイタリアファッションであふれている。そして庶民的な市場街プリンシャ通りは魚貝類、野菜、果物などが豊富に並べられ庶民の買い物客で賑わっている。

  魚料理主体のシシリー料理を食べ、パレルモの庶民的雰囲気も味わいホテルに戻ろうとタクシーを探した。しかしなかなかつかまらずレストランの御主人にタクシーを呼んでもらおうとした。すると御主人はチョット待ってとカギを取りに行き結局彼の車でホテルまでわざわざ送ってくれた。恐い体験どころか庶民の暖かい気持ちに触れることができた。マフィアはこのパレルモでも一部の人の世界ではないかと思えた。

  翌朝車で市内を回ると、夜には分からなかった貧しいパレルモも見ることになった。崩れそうな煉瓦の建物で生活している人もいる。また海岸近くにはバラックのスラム街もあり、貧しいシシリー島の一面を見せられた。ミラノ地区の繁栄により得られた税金の相当な額が南への援助に使われていると言うが、それにもかからわず依然としてこのような現実があるのは、やはりマフィアが牛耳ることにより末端庶民への浸透が難しいと言うことなのだろうか。

  シシリー島への援助を物語るものの一つが高速道路。パレルモからカターニャに至る高速道路は広大な草原の山並みの間に延々と続く。この道路はすべて高架式になっており、北イタリアの高速道路よりもむしろ美しく整備されている。

  その途中前方岩石が飛び出た山がポッツンと見えてくる。その山頂はエンナという小さな町になっている。さっそく車でかけ登った。この町からは現在も活動する火山エトナ山が、広大な一面緑の山並みにの奥に見える。ちょうど山梨県側から見た富士山のようである。

  さらにドライブするとカターニャとメーシーナとの中間にもカステルモーラという、やはり山の頂上にできた町に出会う。ここからのエトナ山はちょうど箱根から見る富士である。この山の麓にはギリシャ遺跡で有名なタオルミーナという町もあり、その遺跡からは左下には地中海が見え、顔面には雄大なエトナ山がせっまてくる。これはまた駿河湾からみる富士のようで絶景である。エトナ山頂にはわずかな噴煙が見えるが雪で覆われ冬の富士山そのものである。

  しかし、富士の美しさに比べて若干物足りない。高さはほとんどおなじで、そのすそのも同じように長い。その物足りなさは山の形の違いにあると気がついた。富士は頂上からかなり鋭角的な線ですそのに至るが、エトナ山にはその鋭角さがないためである。富士の素晴らしさを再確認させられた。

  シシリー島をあとにメッシーナからフェリーで大陸に戻り、イタリアのかかとに位置するアルベロベルロ、カステラーナも訪れた。アルベロベルロは平たい黒い小石の瓦で出来た丸い屋根の石造りの家が群を作っており、今までヨーロッパでは見ることのなかった特殊な家の集落であった。日本の飛騨白川郷の合掌造りの集落と同じようにその土地の自然に合わせて、その土地の素材をうまく利用した建物と言える。またカステラーナは鍾乳洞の町。ちょうど秋吉台と同じある。しかし、規模は秋吉台の方が大きいと感じた。そして、アドリア海岸沿いにドライブし、バリ、ペスカーラなど経てローマに入った。

  エトナ山、カステラーナの自然を満喫、アルベロベルロの集落をなかなか趣のある文化と感じるとともに、富士山、秋吉台、飛騨を思い出し、南イタリアと日本の自然、文化の類似性も印象に残った。また、途中なんのトラブルもなく、懸念は思い過ごしで終わり、むしろ庶民の心の暖かさを体験させてもらった旅でもあった。

  これでサルジニア島を除いたイタリアのほぼ全土を車で見て回った事になる。他のヨーロッパの国々に比べて日本とよく似ているところが多かったように思う。似ていると言えば、マフィアの存在、それに汚職構造、膨大な財政赤字も例としてあげることが出来る。

  また一方、命を懸けてマファアと対決する検察庁の人々がいたり、1000人以上にも及ぶ汚職官僚を逮捕し徹底的に追求する司法当局の人々、赤字削減に奔走する政治家もイタリアにはいる。イタリアでよく言われる言葉、“明日の天気は変えることは出来ないけれど、政治は変えることが出来る”の通り、人間の良心は健在である。悪は決して似て欲しくないけれど、人間の良心はぜひともこのイタリアに似て欲しいと思う。

  ドライブの間、南イタリアは気温10~15℃、すっかり冬を忘れていた。デュッセルドルフへ戻ると雪と氷の世界。この大晦日は -20℃まで下がったという。新年早々厳寒のなか、相変わらずウォーキングで通勤開始。ライン川堤防内にできた池は完全に凍り、アイススケート、アイスホッケーに興ずるたくさんの人々で賑わっている。通勤のウォーキングは今年も快調である。