1995年5月30日火曜日

ベーリングさん

 ポーランド国境で待つ
 
 建設中の孤児院(イエデバブノ)
旧ナチス参謀本部を案内するベーリングさん
(ギルロッツ)
  ドイツとポーランドとの国境の町Frankfurt(Oder)に近づくと長いトラックの列に出くわす。およそ20kmの列であったように思う。国境手前数キロの所には税関用の巨大な駐車場があり、ここでさらにチェックのため無数のトラックが連なって待っている。聞くところによると国境を通り過ぎるのに寝泊まりが必要なこともあるという。
  乗用車も結構長い行列であったが、約2時間ぐらいで無事国境を通ることが出来た。この春からEU内はパスポートのチェックをしなくなったが、EU以外の行き来はむしろ従来よりチェックが厳しくなり、国境での待ち時間が大幅に増えているという。 
  車はトヨタワゴン車。後ろの荷台には日用品・学用品など、わずかの隙間もなく積めるだけ詰め込んでいるため、車は後ろに傾いた状態で走る。目的地はロシア国境に近いポーランド東北のMasuren地方。ポーランドでも特に貧しい地方と言われている。
  しかし、田舎道は完全整備とは云えないまでも舗装はされていた。数年前はまだ砂ぼこりであったという。道なりには、古い工場も見られたがほとんどは平原の続く農地、農村が続き、たまに大きな巣にこうのとりも見ることが出来た。森と湖の自然に恵まれた村に今回の目的場所Jedwabnno孤児院はあった。片道1300kmのドライブであった。
  Dueseldorf の下町にHumanet-Shopというお店がある。開店して4年になる。この店は日本企業駐在員の主婦達がボランティアで始めたリサイクルショップである。駐在員は定期的に交替することから引っ越しが頻繁にあり、その時いろいろな不要品が出る。それを集めて回り、この店で売り再利用をはかろうというもの。しかし、この活動の主目的はリサイクルにあるのではなくその収益金を東欧や第三世界の人々を援助する事にある。もちろん収益金のみならず、再利用できる日用品自体も援助品となる。もう一つ最も重要な特徴は、その援助品を他人に託すのではなく、自分達の手で援助の必要な人に直接手渡すところまですること。ボランティアで自主的に集まった主婦たちは、自分の出来る範囲で交替で店頭に立つなどして参加している。
  一番の問題は、援助物資をどう運ぶかということ。主婦のボランティア活動であるため困難なことが予想された。運搬の協力者を探したところ、運よくドイツ人のWellingさんが協力を申し出た。彼はすでに年金生活の身で現在66才、この店のスタート以来4年間運搬の仕事をボランティアで引き受けている。いつもは彼が一人で車を運転し、ポーランド、ロシア、ルーマニア、ドイツ国内(Friedensdorfという施設、アフリカなどの戦禍により傷ついた子供達を自らの手でドイツへ運び治療しているボランティア活動)などへ援助物資を運搬している。今回は私もボランティアで参加、Wellingさんと交替で車を運転することになった。
  今回訪問した孤児院は建物が劣悪のため、新しく立てる計画を持っているとのことでその建築資金の一部を手渡すことが目的。ポーランドでは金利が30~40%でこのような個人の善意でまかなっている孤児院ではお金を借りることが出来ないため困っていた。寄付を目的に訪問したが、貸してもらえるだけで充分とのこと。それも金利は8%でとの申し出。とりあえずはこれで了解し援助金と日用品などの援助物資を手渡した。
  下は5才から18才まで13人の子供たちが生活しているが、それぞれ事情があって孤児となっている。持参したおもちゃをすぐにあけて遊ぶ子供を見て、この子達が立派に成長することを願い、少しでも役に立てたらと思う。子供達からの「ジンクイエ(ありがとう)」の言葉に見送られて、帰路についた。
  帰り、ロシアとの国境30kmのところにあるGierlozをWellingさんが案内してくれた。ここはナチス時代、Hitlerの参謀本部のあったところ。ここでHitler暗殺未遂事件も起こっている。森の中におおきな防空豪のような、映画館、プール、生活に必要な設備がそろっていたという。地図を見ると、ロシアを含めた全ヨーロッパの中心がちょうどこの辺りであることに気づく。ロシアを含めた全ヨーロッパを征服することを考えて場所を選んだようである。今では爆破された無惨な残骸が残っているだけであった。
  見学しながら、Wellingさんの話を聞いた。「16才の時までHitlerに熱狂した。みんなが熱狂した。ナチスの本質も知らずに。でも、当時知ったとしても何もできなかったかも知れない。」この思いが、現在のWellingさんのボランティア活動の原点になっているように私には思われた。
  日本のゴールデンウィークの合間で、ちょうど仕事も少なかったこともあり、3日間の休暇がとれたのはラッキーであった。今までこのようなボランティア活動をしたいと思いながらなかなか出来なかった。一時帰国休暇もとれないまま本帰国になりそうであるが、日本での休暇より有意義で貴重な体験であったと思っている。