1994年3月30日水曜日

音楽三題

  今月は、近くの教会での宗教音楽、市の音楽ホールでのオーケストラ、それに昔の宮殿の広間での室内楽、3種類の音楽を聴くチャンスがあった。今住んでいる家の近くにある教会、St.Antoniuskircheにふと出かけレクエムを聴いた。300人ぐらいしか入れない教会であるが、パイプオルガンにオーケストラ、合唱団も入り、本格的な教会音楽の雰囲気であった。
  一曲目はパイプオルガンによるオルガン協奏曲。作曲者は知らないが(紹介によると、Rheinberger, 1839~1901)、教会の中でのオーケストラとオルガンのハーモニーがなす響きはすばらしかった。2曲目はFaure(フランス、1845~1924)のレクエム。モーツアルなどの有名なレクエムはたびたび聴いたことがあるが、この曲は初めてで、そして教会の中で聴く本格的なレクエムも初めてであった。
  本来レクエムは教会での演奏を頭に入れて作曲されたものと思われ、教会の中で聴くと、その荘厳さは言葉では言いようがない。もちろんパイプオルガンも入っていることから、このパイプオルガンの音と合唱の声が荘厳さを増長させているように感じた。私はクリスチャンではないが、宗教心とは関係なしに、この音には魅了されてしまう。
  次は、デュッセルドルフのトーンハーレでのロンドン交響楽団の演奏会。ハイドンの交響曲、シューマンのピアノ協奏曲(ピアノは内田光子)、そして最後はショスターコービッチの交響曲6番であった。ショスターコービッチといえば5番が特に有名であるが、生で聴くのは高校生の時聴いたオラトリオ”森の歌”以来であった。ソ連の社会主義リアリズムの代表的音楽であり、難解な現代音楽の中では比較的素直に聴き楽しめる音楽と私は思っている。今ではソ連は崩壊したが、音楽は今後も人々を楽しませ残って行くのであろう。
  3番目が、ザルツブルグのミラベル宮殿での室内楽。演奏はベルリンハーモニアンサンブル。ロッシーニ、シューベルト、チャイコフスキーなどの演奏もあったが、なんといても興味深いのがモーツアルト。まさしくこの宮殿の金ピカの広間でモーツアルト一家が貴族の前で何回も演奏をしたという。モーツアルトの曲はDivertimento KV136。モーツアルトの簡素な美しい響きは、広間の金ピカの美と大きなコントラストを示していた。私は、この金ピカの悪趣味を好まないが、モーツアルトの簡美な音は心地よい響きであった。貴族社会はすでに崩壊したが、音楽は永遠に人々に愛されるのだろう。
  キリスト教という異なった文化のなかで作られたもの、あるいは、社会主義・貴族社会というそれぞれの栄華を極めた時代に作られたものである。その時代の栄華は一時的なものであるが、芸術は永遠、人類共通のものとして残る。この世にはこのたぐいものは芸術以外にもたくさんある。その時代の栄華を極めるという価値観よりも、永遠・人類共通のもっと価値あるものを求めて生きたいと思ってやまない。
  今回教会のレクエムを聴きに、私以外にもう一人の日本人がいた。その人は、昨年ベートーベンの第九の合唱に参加したときの合唱の指導をしてくれたオペラ歌手であった。身近で聴くこのような演奏会の演奏者は世界的にはほとんど無名の人であるが、れっきとしたプロであり、その音楽もすばらしく、たいへん楽しめるといつも感じている。