Buchenwald、Normandy、Dresdenといえば第二次世界大戦に関するヨーロッパでの歴史に残る地名である。これら地名がこの大戦で名を残すことになった時間的順序は、Buchenwald ⇒ Normandy ⇒ Dresdenの順である。2年前、Buchenwald、Dresdenを訪問、戦争の生々しい傷跡が残され強い衝撃を受けた。このイースター休みに今回は、Normandyをドライブすることが出来た。
北フランスNormandy地方は、東はRouenから西Cherbourgの地区をさす。Rouenはジャンヌダルクの裁判が行われ処刑された所、Cherbourgは映画の題名にもなったが今は核燃料処理品の出発港として有名になった。この一帯は美しい砂浜の海岸が続き、50年前の上陸大作戦は想像することは出来ない。唯一アメリカ軍が上陸したOmaha海岸に、碑と小さな展望台、それに墓地が、その昔の出来事を思い浮かべさせるに過ぎない。
Omaha海岸近くのBayeuxには戦争博物館があり、そこにはNormandy作戦の当時の新聞、写真、武器、戦車、軍服など展示されている。ドイツ軍の抵抗も大きかったことから、この上陸作戦により、近くのBayeuxとCaenの町は焼け野原になった。その当時の写真も見ることができた。戦争は勝った方も負けた方も共に大変な痛手を被ることを認識させさせる。
アウシュビッツのような強制収容所はナチス時代無数にあったが、その一つであるBuchenwald(ちなみにこの収容所はアメリカ軍が解放した。)を訪れたとき見たような残虐な写真はなく、このNormandy大作戦は正義の戦いであるとの意図のもとに展示されているとの印象を受けた。
この世には悪はないと信じたいが、Wuchenwaldを訪問した時そうも云えないと感じた。「悪は悪そのもので常に存在する力を持つ。善なるものは人々が努力したときのみ現れる。」という誰かの言葉は、真実のように思えてくる。Buchenwaldは悪であり、それをなくそうと努力することにより善と言うものが認識されるのか。そう考えるとNormandy大作戦・Dresdenの大空襲も善なのか。また、南京大虐殺は悪で広島の原爆は善なのか。現在の日本を騒がせている宗教団体も悪であり、捜査することは善なのか。悪の存在しない社会は出来ないのだろうかとつくづく思う。
ヨーロッパでも有名になってしまった話題の新興宗教の上層部は有名私立中学高校を出た超有名大学・大学院出身者が多いのを見ると、論語読みの論語知らずと感じざるを得ない。自我の確立以前の幼い時の歪んだ生活、その中で無意識のうちに形成される価値観と悪とは結びついているような気がする。
頭脳が優秀、知識が豊富であること自体は何の価値もなく、その頭脳なり知識が世界の人々の幸せのために役だってこそ価値があるのである。このような価値観がより多くの人々に認識されなければ悪は常に存在する力を持つように思う。
それから、今回Normandyを見て回って感じたのは、Normandy、Dresdenがあって, Buchenwaldがあったのではなく、BuchenwaldがあってNormandy、Dresdenがあったということである。これは誰も否定出来ない事実である。この事実をきちっと認識することも、悪のない社会を作るためのもう一つの考え方ではないかと思う。