1994年5月30日月曜日

アイルトン・セナ

セナと日本からの出張者(女性は恋人?)
  Ayrton Sennaという名前は、昨年の5月まで知らなかった。名前を知る機会を得たのが昨年のFormula One Spanish Grand Prix (Barcelona, 5/7~9/7)であった。三日間とも非常に天気が良く、暑く日焼けしたことを覚えている。
  二日間は予選でタイムを競い、その一番早いレーサーがポールポジッションをとり、ラストデーの決勝の先頭のスタート位置を得ることが出来る。Sennaのチーム、McLaren-FordはホンダがF-1から撤退するまではホンダのお化けエンジンにより何度も勝利していた。昨年からはホンダの撤退によりFordのエンジンを使用している。
  予選の場合それぞれバラバラに走り、タイムだけを測りその順位を決める。同時にスタートするのではないのでドライバーの腕よりもエンジン次第であり、より強力なエンジンを積んだWilliams-RunaultのProstを越えることが出来ず、2位であった。決勝でもSennaの腕の見せどころがなく結局2位に終わった。ホンダ撤退の影響を最も受けたのがSennaなのかも知れない。昨年は、雨の日のSennaと呼ばれるくらいコンディションの悪いときにはSennaが勝っていたようだ。
  日本からの出張者と共に、Sennaチームのピットに入り、発熱布使用タイヤウォーマーの性能調査を行った。初めて知ったことであるが、走ってきた後タイヤ表面温度を測ると87℃前後。しばらくして冷めてからタイヤ表面を手で触ると非常に粘着性がある。タイヤ表面にはミゾがなく、この粘着性で道との密着を得ている。もちろんタイヤウォーマーの温度も約87℃になっていること確認した。
  レースから戻ってきたSennaに対して、タイヤ交換の後の運転の状況はどうかと聞いたところ、問題ないとのことで安心した。この時点でも私の認識はただの一ドライバーであったので、日本からの出張者の希望でSennaと並んで写真をとる役を務めたにすぎなかった。その後、出張から帰宅し、娘にSennaと仕事してきたといったところ、なぜサインをもらわなかったかと強く言われた。
  そしてこの5月1日の夜、テレビをふとつけるとニュースが Senna の死を伝えていた。特に Euro-Sport 局では Senna の生い立ちから今日に至るまでの長時間特別番組を流しており、Senna のスポーツ界での偉大さを再度認識した。
  今年は、昨年勝てなかった Williams-Runault に移ってのレースであった。昨年 Senna にずっと付き添ってピット内にいた若い女性を思い出し、今彼女はどのような想いなのかと考える。どうみても恋人のように見えた。
  スポーツと危険はついてまわるもの。プロの Senna にとってレースで命を落とすこと自体は本望だったのかもしれない。チームを移籍してまで勝つことに執着していたにも拘わらず、今年も勝てない焦りがミスにつながったのか。それとも Williams チームからの勝てないことに対するプレッシャーがあったため・・・? 原因はなぞのまま残っている。F-1ブームの全盛を築いた人物だけに、F-1 ブームもここまでかという気もする。
  スポーツをプロとする場合には、ある程度の危険をおかすのはやむを得ないが、我々素人がスポーツを楽しむ場合には、ケガをしないことが第一と考えている。遊びでケガをして仕事が出来なくなることほど、プロ意識のない人はない。私が手掛けないスポーツのいくつかは、この理由によるものである。

1994年4月30日土曜日

マンテロ社

  Mantero社はミラノファッションを代表する絹織物、プリント会社で、特にプリントのデザイン、色はすばらしいものがある。さすが伝統ある会社で、会議室も昔の貴族の部屋を思わせる。

  このあいだMantero社での会議に出席することがあった。午前中の会議を終わり、会議を中断して昼食をとった。昼食と言っても、会議室の隣にダイニングキッチンがあり、その食卓で生ハム、パン、チーズを軽く食べる程度の食事である。このダイニングキッチンには社長が集めたという銅鍋類、相当古いものであるが新品同様に磨いてあるスライサーなど骨董価値のある物がズラリと置かれている。

  たまたま、社長が入ってきて、社長も自らスライサーでハムを切り、それをみなさんに配り雑談に花を咲かせていた。突然社長は、私の横にいたThiryさんに向かって、”メガネをかけ、白いワイシャツ、黒ぽい背広、まったく日本人に見える。”と言って、次に私に対して、”ゴルフはやりますか?”と聞いた。突然の事で、つい ”しません。”と答えた。社長の反応は”Wonderful”であった。

  私もThiryさんと同じ様にメガネをかけ、白いワイシャツ、黒っぽい背広を着ていた。日本人ビジネスマンの典型的姿であり、これにゴルフが加わるとまさしく日本のビジネスマンそのものとの理解であろう。

  社長はその後何も言わなかったが、後で色々考えさせられた。ある意味では日本人は画一的と馬鹿にしたという印象もうけ、また客観的に日本人を見て言ったとも思える。日ごろ主観的にしか見ない中で、客観的に見ればどうなのかと考えさせられる出来事である。西洋の個人主義、多様性を言いたかったのかも知れない。

  画一的行動という団体競技は生産向上、品質改良、応用研究には大きな力を発揮するが、創造は個人競技、と良く言われる。西洋の個人主義と創造性とは大いに関係しているということなのだろうか。

  私の日記を読み直してみたら、11年前の日記から次の文章を発見した。

 「1983,6,21,(土)、晴、6時ごろから目が覚めたが、まだ眠たいので6時40分に起床。食事後東那須カントリーへ。Bコースからスタート。前半56、後半46と念願の50を切った。良かったのはティーショット。反省点はアプローチでグリーンの状態を考えてどこへ落とすのが良いか考えるべき。結局、5位。腕時計と大波賞(サイフ)をもらった。帰りの電車では部長、商社の人から初めて50を切ったということで冷やかされた。家には8時ごろ着く。」

  その後まもなくはじめたのがトライアスロン。極限をためしてみようと思ってやり始めたが、やりはじめるとそのおもしろさが分かる。苦しい第一関門は、水泳なら約20分、ジョギングなら数kmの所にある。それを過ぎると楽になりまた続く。さらに、ジョギングなら10kmごとぐらいに苦しい時があるが乗り越えるとまた行ける。この世のいざこざが些細な事と思う境地になる。終わったあとの壮快さはなんともいえない。

  まったく私的な記録であるけれど、水泳3km+自転車140km+ジョギング30kmが私のレコード。かかった時間よりもどれだけ距離を伸ばせるか、これがとりこにしてしまった。今は駐在員という仕事がら時間がとれず、通勤の往復8kmのウォーキングとたまの休日に泳いだりして、そのはしくれをささやかながら続けている。ゴルフはすっかり忘れてしまった。

1994年3月30日水曜日

音楽三題

  今月は、近くの教会での宗教音楽、市の音楽ホールでのオーケストラ、それに昔の宮殿の広間での室内楽、3種類の音楽を聴くチャンスがあった。今住んでいる家の近くにある教会、St.Antoniuskircheにふと出かけレクエムを聴いた。300人ぐらいしか入れない教会であるが、パイプオルガンにオーケストラ、合唱団も入り、本格的な教会音楽の雰囲気であった。
  一曲目はパイプオルガンによるオルガン協奏曲。作曲者は知らないが(紹介によると、Rheinberger, 1839~1901)、教会の中でのオーケストラとオルガンのハーモニーがなす響きはすばらしかった。2曲目はFaure(フランス、1845~1924)のレクエム。モーツアルなどの有名なレクエムはたびたび聴いたことがあるが、この曲は初めてで、そして教会の中で聴く本格的なレクエムも初めてであった。
  本来レクエムは教会での演奏を頭に入れて作曲されたものと思われ、教会の中で聴くと、その荘厳さは言葉では言いようがない。もちろんパイプオルガンも入っていることから、このパイプオルガンの音と合唱の声が荘厳さを増長させているように感じた。私はクリスチャンではないが、宗教心とは関係なしに、この音には魅了されてしまう。
  次は、デュッセルドルフのトーンハーレでのロンドン交響楽団の演奏会。ハイドンの交響曲、シューマンのピアノ協奏曲(ピアノは内田光子)、そして最後はショスターコービッチの交響曲6番であった。ショスターコービッチといえば5番が特に有名であるが、生で聴くのは高校生の時聴いたオラトリオ”森の歌”以来であった。ソ連の社会主義リアリズムの代表的音楽であり、難解な現代音楽の中では比較的素直に聴き楽しめる音楽と私は思っている。今ではソ連は崩壊したが、音楽は今後も人々を楽しませ残って行くのであろう。
  3番目が、ザルツブルグのミラベル宮殿での室内楽。演奏はベルリンハーモニアンサンブル。ロッシーニ、シューベルト、チャイコフスキーなどの演奏もあったが、なんといても興味深いのがモーツアルト。まさしくこの宮殿の金ピカの広間でモーツアルト一家が貴族の前で何回も演奏をしたという。モーツアルトの曲はDivertimento KV136。モーツアルトの簡素な美しい響きは、広間の金ピカの美と大きなコントラストを示していた。私は、この金ピカの悪趣味を好まないが、モーツアルトの簡美な音は心地よい響きであった。貴族社会はすでに崩壊したが、音楽は永遠に人々に愛されるのだろう。
  キリスト教という異なった文化のなかで作られたもの、あるいは、社会主義・貴族社会というそれぞれの栄華を極めた時代に作られたものである。その時代の栄華は一時的なものであるが、芸術は永遠、人類共通のものとして残る。この世にはこのたぐいものは芸術以外にもたくさんある。その時代の栄華を極めるという価値観よりも、永遠・人類共通のもっと価値あるものを求めて生きたいと思ってやまない。
  今回教会のレクエムを聴きに、私以外にもう一人の日本人がいた。その人は、昨年ベートーベンの第九の合唱に参加したときの合唱の指導をしてくれたオペラ歌手であった。身近で聴くこのような演奏会の演奏者は世界的にはほとんど無名の人であるが、れっきとしたプロであり、その音楽もすばらしく、たいへん楽しめるといつも感じている。

1994年2月28日月曜日

イーパー

  レピア織機で有名なPicanol社はベルギーの西、北海に近いところIeperという町にある。ここはシートベルトで有名なイーパーバンド社の町でもある。
  今月、Picanol社訪問の際、野原に幾つのも墓、町中心部への入口の門の壁に無数の人名が記入されているのを見ることができた。Picanol社の人に聞いたところ、第一次世界大戦にドイツ軍がはじめて毒ガスを使用したのがこの場所で、英国、フランス、USAなどの連合軍の兵士が多数亡くなったことから、このようなものが残っているとの説明であった。兵隊のみならず一般の人も巻き添えにあったと思うが。毒ガスといえば、インペリット(CH2CH2Cl)2Sが良く知られているが、このインペリットという名前はこのIeperからとったものと説明していた。
  第一次世界大戦は、今問題になっているサラエボでの事件が発端となったが、もともとは世界的な領土の分捕り合戦のなかでのドイツと英国の対立が顕在化したもの。今から考えれば、新興資本主義国ドイツと先進資本主義国イギリスとの世界的領土分捕り合戦の対立であり、一般大衆にとっては何のための戦争であったか、私には無意味のものとしか思えない。
  領土分捕り合戦のなかでドイツが初めて毒ガスを使用したことは、ドイツに対する他のヨーロッパ人の見る目は決して良いものではないと思う。Ieperを訪れるたびに、この悪夢の想いは人々の気持ちの中によみがえるものと思う。
  以前にも述べたが、再発の防止はこの時の人間として感じた気持ちそのものが力になる。このような記念物は残すべきであり、もし残すのを避ける人がいるならその人は、その再来を夢見ている人と思わざるを得ない。この小さな町のまわりは平原でのどかな田園風景であるが、今はその昔の忌まわしい光景は想像すら出来ない。その平原の所々にあるお墓を見てはじめて昔の出来事があったと想像できる。

1994年1月30日日曜日

ノイエス・グーテス・ヤール

牛追い祭りで知られているスペインパンプローナ市庁舎
(年末年始の休みはドイツからスペインへドライブ)
  ドイツに赴任しまもなくソ連の崩壊に代表される東欧諸国の変革による新しい世界観がスタートした。そして今、その後の状況を見ると、旧体制の中で秩序が維持されていたが潜在的に存在していた複雑なヨーロッパの人種、宗教の入り組みによる紛争が出現している。
  しかしこれも、長い間の民族間の貧富の差が潜在的な偏見となり、それを鼓舞する人の力により解決が難しくなっているようである。人種、宗教、文化の関係なくすべての人がゆとりのある生活を維持出来ておれば避けられた混乱と思う。それにも増して東欧諸国の経済状態は決して上向きにはならず問題は深刻化している。冷戦終了後の混沌の中で、ようやく世紀末に向けて新たな課題が見えはじめた。
  それは旧体制への逆戻りではなく偏狭的民族主義の芽生えである。民族主義がいけないのではなく、普遍的ではなく狂信的、排他的、偏狭的なのが問題と思う。偏狭的民族主義は第二次世界大戦ですでに経験済み。第二次大戦の再来が起これば今回はどのような事態になるか想像可能である。
  ロシア民衆の不満が偏狭的民族主義に傾けばその再来が有り得る。西欧の様な民主主義が確立している国では世論を一つの方向に誘導するのは難しいが、ロシアでは自由主義的民主主義はスタートしたばかり、非常に弱いもの。悪知恵をきかせばこの弱い民主主義は簡単に利用され、気がついたときにはすでに民主主義はなく、人の理性が届かなくなる。こんな危険性を感じる。
  このロシアの危険性の可能性についていろいろの意見がある。ドイツのワイマール体制の経緯を、第1次世界大戦の巨額な賠償が経済混乱を起こし、大衆を民主主義よりもっと強力な指導者熱望へ導いたと見る。しかし、現在はロシアには経済混乱こそあれ、他の国はロシアを助けようとしている点ワイマールのドイツとは異なるとして楽観視することも出来る。
  私には2つの思いがある。一つは経済混乱を解消させるための経済援助。ここで言う経済援助は金銭物を与えることではなく、農業工業産業が成り立つように技術、人を援助することを意味している。自分でやって行けるようにその背景を援助すること。
  この点、日本は戦後自ら海外の技術を積極的に導入し成功した。この時、ただの金、物資だけの援助に頼っていたら今の発展はなかった。自分自身がやらなければならないと認識し、またそれに西欧諸国が答えてくれたことが大きかったと思う。日本の場合はその勤勉さから自ら西欧の技術導入の必要性を感じ自ら行動に移したことが大きい。西欧からのお仕着せの導入では魂が入らず今のような成功は無かったであろう。受け入れ側の積極的意志も大切である。
  2番目の思いは、人々の意識の問題として、強力な指導者による体制翼賛的動きを避けられる社会作りである。集団がある方向に進みかけたときNOと言える社会作りが必要と思う。社会集団は個人の集まりでありその集大成が社会であり国という考え方、それぞれの考え方を一つに纏めるのではなく、また人間の欲望で判断するのではなく、人間としての理性で人の気持ちから見てどうかとの判断が可能となるシステムが必要である。
  以前にも述べたけれど論理だけが判断基準になると非常に怖い。論理には詭弁がつきもの、物事を一つの方向に進めることを優先する場合はこれほど都合の良いものはない。
  現代は多様性の時代。いや今まではその多様性を無視して多数決の原理が巾をきかしてきたと言って良いが、これからはすべての理性的人格を認めるという前提に立った多様性を生かすことが人間社会に必要と思う。これが出来て初めて真の創造的社会・集団になるものと思う。
  なにも一つに結論づける必要はない。多数決、論理ではなく、それぞれの理性的判断から必要なものを認め包含できる社会体制が必要と思う。これはロシアのみならず日本でも必要と思うが。
  自然現象と違って人間の社会は人間の意志で動かせる。それは悪知恵によるものもあれば、人間の理性によるものもある。人間は動物であるけれど、理性と理性的感情を持っている。理性は決して悪知恵であってはならない。どんな集団でも悪知恵にたけた人間がいるもので、その刹那ではわが身を得たように見えても、長い目、さらに大きな枠組みでは人にとってなんら利益がないことが分かるものである。
  援助とは人に施しを与えることではなく、自活するのを助けること。英雄を求めるのではなく理性の伴なった多様な人格を認める社会作り。現実には難しいことばかりのように見える。どのような集団・社会でも同じようなことが言えるのであって、その中でそれぞれの人がこの2つの思いでもって行動することが必要なように感じる。その積み重ねにより初めて理性の伴った創造的な集団・社会が出来るのではないか。今年1994年が人の歴史の中で反対の思いにならないよう、良い年であるよう、自分も出来る範囲の領域で心がけたいと思っている。

1993年12月30日木曜日

グリューワイン

  11月の下旬、降誕祭の4週間前の週末から、町ではクリスマスのMarkt(市の立つ広場)が始まる。ドイツでは平日の店は午後6時30分まで、土曜日も午後2時まで、日曜日は休み。クリスマスの季節になるとこのMarktが開かれるため、子供も含めて日曜日も夜まで賑わう。
  ドイツではこのMarktで必ずGlueweinが飲める。これは文字通りの意味では白熱のワインであるが、赤ワインにシナモン、アニス、チョウジなどのエッセンス、それに砂糖も入れ甘く、さらにはホットにして飲むもの。寒い夜には体が温まる。さすがのドイツ人も、寒い外での飲物としてビールよりもGlueweinを好んで飲む。
  今年はデュッセルのMarktのほかに、アーヘンのMarktでも味わったが、熱いアルコールの湯気にいつも咳き込んでしまう。熱いのでどうしてもフーフーするためである。熱さがある程度おさまるまではすすりながら飲まざるを得ない。
  キリストの誕生を祝うこのクリスマスに、Glueweinを飲みつつ、自分の心の中のより所たるものに祈るのが良いと思った。神を信じなさい、信じるものは救われるではなく、人それぞれがそれぞれの生き方のなかにある心の源に祈るのが本当の宗教ではないかと思っている。この意味では、キリスト教も歴史的に見れば大変な間違いを犯した時もあったのではないか。
  しかし、アーヘンのRathhaus(市庁舎)、Dom(大聖堂)に囲まれた広場のMarktに集まったたくさんの人々が、Glueweinを飲みながら楽しんでいるのを見ると、気難しいことは別にして、この楽しみが人には必要なのだと感じた。

1993年11月30日火曜日

シュタムティッシュ

  "Die Aermel sind zu lang" Japanischer Stammtisch in Dueseldorf.(袖が長すぎる、デュッセルドルフの日本人のシュタムティッシュ)の見出しで、私たちが楽しんでいるシュタムティッシュがデュッセルドルフのコミュニティ新聞Rhein-Boteで紹介された。
  シュタムティッシュとはそのまま訳せば「幹の机」という意味であるが、本当の意味は常連客が同じ食卓で飲んだり食べたりしておしゃべりをする集まりのことである。私たちの集まりにはドイツ人夫婦、奥さんがドイツと日本のハーフの夫婦など含めて5組の夫婦の集まりである。たまには子供も含めて家族の夕食を兼ねることもある。みなさん忙しいところをとにかく一ケ月に一回週末に会うようにしている。私達夫婦を除く日本人の方々はドイツ生活10~20年の方ばかりなので、おしゃべりは当然ドイツ語となっている。私たち夫婦にとっては会話は非常に難しく英語、日本語でも良いことにしてもらっている。
  話すことは食事、子供、教育、文化、スポーツ、政治など多岐に渡り、気取りもなく自由なおしゃべりの会である。夜8時頃から始め、いつも夜中1時頃まで過ごす。ドイツ語は難しいけれど時にはドイツ人の議論好きなところも見られる。この間、わが社では毎月月報なるものを書いていると話したら、”そんなもの書くの”とたいへんびっくりされ、むしろこちらがびっくりした。
  見出しは、ドイツで服を買うと日本人にとっては常に袖が長くぴったりしないとの話しをとったもの。この集まりはドイツ人の生活を理解するとともに、会社生活をしている自分とは違う世界が見られることがおもしろくもあり楽しみである。今後も続けたいと思っている。