1994年12月30日金曜日

Weihnachten(クリスマス)

  「Die auf diesem Flug angebotenen Mahlzeiten enthalten kein Schweinefleisch.」(この飛行機で出される食事には豚肉は含まれていません。)ドイツからイスタンブールへ向かうルフトハンザ航空の機内食説明書のコメントである。

  今回はじめてトルコを訪問する機会があった。豚肉の好きなドイツ人も乗客には多いと思うが、イスラム教の人のためにルフトハンザは気を配っている。日本人のような雑食人種にとって、何故イスラム教では豚肉を食べてはいけないのか、こんなにおいしい物が食べられないのはかわいそうといいたくなる。特殊世界にだけ通用する戒律であり、その普遍性はないと感じる。

  宗教とは人の精神的支えになるものではあるけれど、逆に人の活動を規制する役目も持っているようだ。信じれば、自由の制限ではなく、それが自然のことと受けとめることになるのだろう。トルコはイスラム教の戒律から比較的自由な世界に見えたが、たまに、目以外は完全に黒装束の女性も見られ、初めて見るものにとっては異様な感じを受けた。もっといろんなおしゃれが楽しめるのにと思う。

  しかし、おせっかいというものなのだろう。人はそれで満足していれば他人はとやかく云うことはないというのも道理である。もし、助言を求めてきたときにはご意見を差し上げるのが良いと思いつつドイツへ戻った。

  先日、レンブラント派の絵画展がミュンスターで開催されているというので訪れた。デュッセルドルフから東北150kmの所にある古い町である。この町の中心にランベルティ教会がある。15世紀に完成したその聖堂には、90mの尖塔がそびえている。この塔の大時計の上の窓に鉄製の篭が三つぶら下がっているのが見られた。これは1534年~35年にこの町を支配した再洗礼派の首謀者3人が処刑され、見せしめのためにその死体を入れてぶら下げた鉄篭という。処刑は焼きゴテで突き刺す方法だったといい、キリスト教という宗教の世界での非人間性を示す例の一つであると感じた。

  再洗礼派は、乳児期に受けた洗礼は本当の洗礼ではなく、真のキリスト教者になるには、成人した後もう一度自覚的に洗礼を受けなければならないと主張する。宗教改革当時このミュンスターではルター主義にとどまらず、ラジカルな再洗礼派に支配された。この時、カトリックもルター派も弾圧する側となって攻め込み、まもなくこの一派を追放した。そして、その指導者3人が処刑されたという歴史である。

  宗教とは人間の内的精神的苦悩を助けるものとして存在価値があるが、それが権力化すると逆に人を苦しめるように働く。自我の確立以前に宗教を教え込まれるとそれを信じ、三つ子の魂百までと云うように、その価値観を変えることは非常に難しい。自分の信じることが絶対正しいと思いこみ、それがいろいろなトラブルのもととなる。

  この意味で、再洗礼派の主張する所はよく理解できる。乳児期に一方的に洗礼させ信じ込ませるのは盲信につながり結局は、再洗礼派の首謀者が受けたような非人間的な行為にまで至るのだろう。もちろん再洗礼派にも過激な行き過ぎがあったことも一因にあると言われているが。

  12月のヨーロッパは極端に日が短く暗い雰囲気になるが、その暗さをはねのけるように、街角、家にはクリスマスのイルミネーションが美しく映えている。クリスマスマルクトは毎日、子供も大人も沢山の人々で賑わっている。宗教というものが個人の自我を奪い去るものではなく、自由な雰囲気の中での自己の確立を助けるものであってほしいと思う。

1994年11月30日水曜日

豊かさ

  2年前ギリシャへ行ったおり、アテネの飛行場での出来事である。チェックインして搭乗まで待合い室に座っていた。ほぼ待合い室は満員。その一般通路に一番近いところに座っていた。まもなく、車椅子に乗った体の不自由な男の人が入ってきた。その車椅子には台がついており、その上にはピスタチオなどの乾燥豆のパックしたものがたくさん並べられていた。
  車椅子を自分で動かし、まずは最も近くに座っていた私の所へ来た。すでにおみやげに沢山すぎるくらいのピスタチオを買ってしまっていたので、いらないよとのしぐさで断った。すぐに横へ移動して行ったが、私以外の人はほとんどがその豆を買っていた。
  一巡したところで通路を通りかかった紳士がお金をさしだした。その紳士は品物はいらないとのしぐさをして、品物を受け取らずにお金だけを渡そうとしたところ、その瞬間不自由な言葉で一生懸命に何かを言い続けて、不自由な手でお金を払いのけてしまった。明らかにお金だけでは受け取れないとの意思表示であった。まもなくその紳士はお金を拾い上げてその場を去って行った。
  私は何の意識もなしにピスタチオを買うのを断ったが、すべての人が買い物をしたのを見て後悔の念が出てきた。が、不必要なものを買うのも彼の意に合わないとして思い直した。
  所かわって、ドイツでは体の不自由な人のための設備が至るところでみられ、街角ではよく車椅子の人、体の不自由な人が出かけているのを見かける。ドイツに初めて来た当時、日本に比べて体の不自由な人の多い国だなと勘違いしていた。実は、体の不自由な人の為の設備が行き届いているから、外出が可能なだけなのだ。
  地下駅、地下道には専用のエレベータがある。体の不自由な人もこの完備された設備のおかげで自立できている。それから感心するのは、電車を降りるとき、階段を使うときなど、その近くに通りかかった人、居合わせた人が必ずと言っていいほど、手伝いをしている。当然のことのように、自然になされている。
  先日、デュッセルドルフで日本人のための自動車事故救助講習会があった。口による人工呼吸のところで、”出血が見られ、エイズの不安がある時どうすればよいのか”との質問が出た。これに対してドイツ人講師は、ドイツ人には説明は簡単であるが、日本人の方に説明するのは非常に難しいとしてお茶を濁してしまった。私たち日本人からすれば全く的を得た質問であり、明確な回答を期待していた人が多かったと思う。しかし、キリスト教の有名な話、良きサマリア人の価値観からすれば質問自体が誠に次元の低いものであり、ドイツ人講師はそれを言いたかったのだろうと感じた。
  ドイツは経済的にも豊かな国の一つであるが、心の面でも豊かな国と思う。ドイツのみならずヨーロッパ全体に言えるようであるが。このような心の豊かさは宗教の影響が大きいのは確かである。しかし、それに加えて、子供時代の生活体験も重要な役割をはたしていると私は考えている。日本も外見的な生活は豊かになったが、心の豊かさでは後進国に甘んじているようだ。益々エスカレートする小学校からの塾通いでは、これからも知識だけが豊富な秀才タイプはどんどん生産されるけれど、心豊かなクリエイティブな人材は期待できそうにない。
  ポーランドに駐在していたある商社マンから最近聞いた話。昔どこかのワンマン社長夫人がポーランドを訪問したとき、その当時乳飲み子に与える牛乳でさえ不足している所で、牛乳を集めさせ牛乳風呂に入ったという。 また、日本の新聞に載っていた話。大学教授の職を捨て18年間、貧困のネパールの無医村で医療活動に従事していた岩村昇さんの体験談「巡回先の村で結核の重症患者を見つけ治療が出来ず困り果てていた時、患者を背負い三日三晩かけて診療所に運んでくれた行きずりの荷物運搬人の言葉が忘れられない。”生きるとは弱き者と分かちあうことだ。”男は謝礼を受け取ろうとはしなかった。」。
  論語読みの論語知らずが多いこの世の中で、市井にこそ論語知りがいるように思う。

1994年10月30日日曜日

礼状

  こちらから招待したわけではないけれど、この夏我が家は娘二人の友達が同時期に滞在し、てんやわんやで誠に忙しい日々を過ごした。4人家族が一時的に6人家族になり、その中で男性は私だけ。二人のお客様は誠に可愛らしく、滞在の間我が家は華やかで賑やかな毎日となった。

  しかし、華やかな日々を過ごした反面、毎日仕事が終わればすぐに帰宅し車で各所を案内、また土日も車でパリ、フォンテーヌブロー、ベルサイユなどフランス各所を案内、睡眠不足と気疲れ、とくに事故、トラブルがあってはならないと気を使うためたいへん疲れた。最終日、ご両親様宛、滞在中の様子を手紙に書きそれぞれに託した。

  デュッセルドルフのホテルニッコーからフランクフルト空港行きバスに乗せ見送り、何のトラブルもなく無事帰っていただいて安堵した。すぐに二人から、それぞれ自分自身で書いた礼状が届き、たいへん喜んでもらえたようでうれしく感じた。

  その後まもなく、一方のご両親からは丁重な礼状をいただきたいへん恐縮するとともに、私たちの心労が報われた。実は、心の中ではご両親からの返事を期待していたのであって、手紙を受け取ることによりすべてが完了したと思えた。しかし、もう一方のご両親からは二ヶ月たった今でも何の連絡もない。一件終了とは思えず、まだ何か続いているような感じである。

  ヨーロッパでの有名な話しではあるが、その昔フランスで子供がチョコレートをもらったとき子供はすぐにお礼を言ったが、側にいた親は何も言わなかったという。そこには子供も立派な人格として認め、子供がもらったのであって親がもらったのではないという、親子でも個人が優先するという考え方がある。個人主義の一つの例であり、なるほど一つの考え方でもある。ものごとは考え方一つで判断はかわるという例かもしれない。

  日本で生まれ育った私にとっては、子供はすべての面で親の保護にあるとの考えが身に滲みており、フランスでのこの話しは感覚的に馴染まない。しかし、自分の気持ちの整理には大いに使える考え方であり、返事はまだかと思いつつ、このお家はおそらく西欧風の考え方で生活しておられるのだろうと理解することで気持ちも落ちつく。もう手紙がくることはないと思う。

1994年9月30日金曜日

パヴァロッティ

  9月3日の日曜日のお昼間、テレビZDF(Zweites Deutsches Fernsehen、ドイツのNHKに相当するテレビ局の一つ)でDie drei Teneoneという番組が一時間半にわたって放映された。これは、この夏アメリカで開催されたワールドカップサッカーの催物の一つで、その時の録画放送であった。

  Die drei TeneoneとはCarreras, Domingo, Pavarottiをさす。いずれも今を代表するテノール歌手である。この三人が、ロスアンジェルスの野球場特設会場に集まり、テノールの美声を披露した。Carreras, Domingoはスペイン系の人、Pavarottiはイタリア人、いずれもラテン系の人々。テノールの音域はラテン系の人々に向いているのか。その響きは天にも届きそうな迫力である。

  Pavarottiは、10年程前CDを買って以来聴いて楽しんでいる。もともとイタリア民謡が好きで、自分でも真似ごとで歌ったりするので、CDが開発されたときぜひそのたぐいの曲の入ったCDを買いたいと思っていた。その時買ったのがPavarottiであった。それ以来、彼の声の美しい音色に魅せられてしまった。高音Cがピアニシモで響く。テクニックもさることながら、音色は、私には世界で最も美しい声ではないかと感じられる。今回、三人が並んで歌ってみて、この気持ちを確認することが出来た。ドイツに来て、Domingo, Carrerasの二人はよくテレビで見ているが、Pavarottiをテレビで見るのははじめてでもあった。

  イタリアの撚糸機メーカーにRattiという会社がある。この会社の技術責任者にGrazioliというおじさんがいる。背は私より低いが胸幅は大きくいかにも現場のおじさんという感じの人である。

  技術検討の後、私はカンツォーネが好きで、例えばといいながらTorna a Solentoを歌いだすと、この彼がすごいテノールで歌いだした。その歌声は完全にベルカント唱法のテノール。わたしは歌うの忘れて、聴きほれた。イタリアでは、彼のようなテノールは至るところにいると聞いている。ちょうど日本では演歌をプロ並みにうまく歌う人がたくさんいるように。イタリアではテノールが演歌歌手に相当しているようだ。その頂点に立つのがPavarottiであろう。

  しかし、彼と同じくらいのレベルの歌手はたくさんいるのであって、彼でないと歌が楽しめないということはない。なんでも、その道の知名度の高い人だけがその道の第一人者とは限らず、紙一重で有名になっていない人、あるいはむしろ知名度NO1よりも実力のある人はたくさんいるものである。

  スポーツのように勝負で決まる場合は順位ははっきりするが、人間の感覚で判断する世界、音楽、絵画などはあるレベル以上になると判断は出来ず、好みの世界になる。たとえその道の権威者が素晴らしいとほめたたえても、自分が気に入らなければ、その人にとってはなんの価値もない。まったく個人で判断すれば良いことである。有名だからという理由だけで、また権威者が推奨するからと好きでもないのに聴きに行くことほど意味のないものはない。音楽を楽しむのに知名度NO1の人でないと出来ないことはないのである。

  私がPavarottiのような歌を聴いていても、我が娘は全然無関心である。車で運転しながら聴いていると、後部席から自分の好みのテープを差し出してかえてくれという。私にとってはこの音楽を理解してくれないのが残念であるが、ある意味では自分で気に入ったものを楽しむ、他人がするから、他人が勧めるからではなく自分で判断していることにうれしくも思い、娘の要望に従ってテープをかえることになる。

  今月、Rattiを訪問したとき、すでにGrazioliさんは定年退職し、会社にはいなかった。もう一度彼のテノールを聴きたいと思っていたが残念である。が、それと同時にヨーロッパに滞在する間に、ぜひともPavarottiの生の歌声も聴きたいと思っていた。しかし、前もってミラノスカラ座のPavarottiの出演する日を調べ、切符を手に入れることはかなり難しいようである。それよりも、先日出張の飛行機の中で雑誌を読んでそんなことを考えるのはやめることにした。Pavarottiはすでにあの美声で何百億円の財産を築いているという。馬鹿らしくなった。これからも自分で歌って楽しむことにしようと思う。

1994年8月30日火曜日

グラーシュズッペ

  ハンガリーで連想するもの、リスト、ハンガリー動乱、それにグラーシュズッペ。オーストリア南東部グラーツに近い国境から車でハンガリーに入った。
  広大なハンガリー平野に、ひまわり畑と国道が続く。田舎の建物の様相がオーストリアのものと変わる。古びた家が多く、オーストリアの美しく飾られた建物とは趣が異なる。車も急に古びたものが多くなり、特にトラバンド、スコダ、ラーダなど旧東欧製が目につく。道路工事の所も多く、随分良くなったような印象。改修された所と、そうでない所との差が大きいので判断できる。無鉛ガソリンが無いのではないかと心配していたが、それは無用であった。国道沿いには立派なきれいな新しいガソリンスタンドが出来ており、いつでも入手可。以前、前任者から聞いていた話しとはまるで違う。これら新しい道、ガソリンスタンドとは対象的に、田舎の人々の生活は大変質素のように感じられた。リストのハンガリー狂詩曲を口ずさみなら、ハンガリーで一番大きなバラトン湖に沿ってドライブし、高速道路に入った。
  この高速道路は南の方から首都ブタペストにつながっている。ブタペストは田舎とは雰囲気を異にしている。ほとんど西欧の町と変わりはない。商品は結構そろっており、またファーストフード店がすごい。マグドナルドは云うに及ばず、ピザハット、ダンキンドーナツ、ケンタッキーフライドチキンなどずらり。これは日本とかわりないではないか。ドイツよりアメリカ化されている。マツダ、ベンツなどの自動車販売営業所も多く見られる。古い建物の内部では、至るところで内装工事中で、おそらく事務所、商店、ホテルなどになるのだろう。
  地下鉄の古い路線は、ヨーロッパではロンドンに次いで出来たという。ちょうど東京の銀座線のように、車体は古く、小さく、道路のすぐ下を走っている。しかし、新しい路線は大きな車体で美しい。値段はひと乗り25フォリント(約25円)と非常に安い。一方滞在したホテルはツインで270DMと結構高い。どうも物価はアンバランスになっているようである。若い女性はファショナブルで美しく華やかに町を闊歩しているが、一方では質素な出で立ちの人も大変多い。
  1989年の変革の後、右派政権による経済改革が進められ、その結果が新しいガソリンスタンドであり、ファーストフード店の林立であり、西側諸国の自動車販売営業所であろう。しかし、4年経過して、GDP成長率マイナス2~5%/年、失業率12%、財政・貿易収支大赤字との結果であった。表面的な華やかさと、大衆の生活実態の格差、都市、特にブタペストと農村との格差が大きくなりつつあるようだ。
  このためか、この度の総選挙では右派政権は過半数をとれず、旧社会主義労働者党の社会党が4年ぶりに政権に復帰することになった。新首相ジュラ・ホルン氏はハンガリー動乱当時、政府の治安部隊のメンバーであったという。しかし、今の資本自由化の流れは止めることは出来ないのではないか。資本主義と社会主義の融合したような新しい体制作りを模索せざるを得ないのではないかと思う。
  ブタペストでの楽しみは、オペラ、オーケストラ、それにグラーシュズッペであった。ドイツでは、グラーシュズッペといえば、煮込みシチューのようにドロドロしており結構辛い。本場では、少しあっさりとしておりむしろ甘味を感じるほどマイルドな味で、美味であった。ドイツではドイツ人好みに工夫されているようである。食べ物はやはり本場で食べるのが一番。スパゲッティはイタリア、パイリャはバレンシア、ピルスビールはピルゼン、そしてグラーシュズッペはハンガリーである。
  ウィーンに向かう帰りの高速道路は途中で終わり、後は普通の国道となる。国境近くで、厚化粧した女性がポツリ、ポツリと道端に立っているのを見た。グラーツから入った田舎の国境ではこのような光景は見られなかったが、ウィーンという観光大都市に近いこともあって仕事が成り立っているようだ。貧しいことが原因なのだろうか。

1994年7月30日土曜日

鯨とトナカイ

ヨーロッパ最北端ノルトカップの白夜
  ヨーロッパもこの夏は猛暑に見舞われ、少しでも涼しい所に行きたいと、早い目に夏休みをとりノールウエーを訪れた。最北端のNordkappでは白夜を体験、さすがコートを着ないと寒い。真夜中に太陽は真北に移動するが沈まず、北極海水平線の上の所でまた東に向かって上昇を開始する。
  Nordkappには観光バス、キャンピングカー、などで集まった人で賑やかであるが、真夜中だけを楽しむため、午前1時を過ぎると観光客は少なくなりはじめ、2時頃にはキャンプする人以外はいなくなる。午前3時ごろはもうすでにお昼の感じで、ドライブしている道の回りにはトナカイの群れが見られる。回りは苔の様な植物しかなく、トナカイはもくもくと食べている。
  この最北端の地に4日間滞在した。Skarsvagといい、Nordkappから10kmの所、80軒ほどの小さな魚村であった。産業はなく漁業が生業。世界で最も北にある漁港とのこと。主な漁獲は鱈で、これを加工する仕事もしている。むかしは鯨もとっていたという。食べ物は魚、トナカイ以外は何もない世界で人間が生きて行くにはたいへんなことと想像がつく。
  食物に関しては食物連鎖としての体系が存在してはじめて生物は生きて行ける。この北の果てでは、結局、人間の生きる手だては、魚、鯨、それにトナカイであったと容易に理解できた。北極圏の原住民ラップ人はトナカイと共に生活し、その肉を食べ、皮を衣・住に使い、角は道具にも使った。トナカイは厳しい自然のなかでも苔を食べて生きて行ける。もし、トナカイという動物がいなければラップ人もこの地には存在しなかっただろう。
  ノールウエー人にとって、特に北極圏の人にとっては、魚、トナカイは重要な生きる手だてであり、鯨もその一つ。世界で鯨を食べるのは日本とノールウエーだけと言われているが、捕獲禁止の世界的流れの中で、特にノールウエーが規制案を無視しても鯨を捕獲する理由が理解できるような気がする。
  今までどちらかというと、世界的流れに対して同意していた面があるが、今回実際に北極圏に滞在し考えが変わった。鯨自身の再生産の可能な範囲で捕獲は許可されるべきではないかと考えるようになった。何がなんでも禁止ではその地区の特異性を無視することになり、公正な判断ではないと思う。
  物事にはなんでもその反対の見方があり、自然科学の世界では実証という手段により何が真実か有無を言わさず決着がつけられる。しかし、それ以外の世界では実証は不可能に近い。それ故、人間の傲慢さから起こる悲劇、トラブルがあとを絶たない。この傲慢さをコントロール出来るものはないかと考える。
  その一つは聞く耳を持つということではないか。聞く耳を持つとは、相手の意見をネホリハホリ聞いて、その欠点を探す姿勢を意味しない。その人の意見をまずは肯定的に受けとめ、その立場にたって根底にあるものの理解、欠点よりむしろ利点を見きわめることである。そのあと、客観的にそれぞれの考えの利点欠点をならべて議論につなげることを意味する。
  今の世の中では、議論はよくなされるが、本当の聞く耳を持つというプロセスが確立されていないため、結局は詭弁というリスクを秘めた論理的という名のもとに、傲慢な人の考えで物事は進んで行く。活性化した、創造的な社会・集団を作るには、この聞く耳をもつというプロセスをシステムとして取り入れる必要があるのではないかと思う。
  今回、北極圏内のノールウエーに実際滞在し、鯨問題をノールウエー人の立場で見ることができ、自分の理解の足りなさを感じた。それにしても、トナカイの肉、オスロの日本レストランで食べた鯨の刺身はほんとうにおいしいものであった。鯨の肉を味わったのは、おおよそ25年ぶりではないかと思う。

1994年6月30日木曜日

Kaufen(買い物)

  ドイツに駐在して3年半、生活にはすっかり慣れたが、まだ馴染まないことがある。それは、ドイツ料理と買い物である。幸いデュセルドルフに住む限り、値段さえ気にしなければ日本食の材料はほとんど手にはいるので、家では毎日日本食で過ごしている。いつも出張の時に困るのであるが、中華料理にしたり、イタリア料理にしたりしてなんとかやっている。しかし、買い物は依然として大変である。特に、着るものの買い物は、サイズが合わずぴったりしたものを見つけるのは至難の技である。

  赴任してから新しく家を借りた。家具はゼロからのスタートであった。ドイツではお店は平日は6時半まで、土曜日は午後2時まで、もちろん日曜日は完全に休み。家族が来るまでの間は、プライベートの買い物は唯一土曜日だけであった。東京での買い物とは全く違うため、これほど不便を感じたことはない。また家具は注文生産がほとんどで、結局我が家に家具がそろったのはちょうど一年後であった。

  この夏一時帰国するつもりであったが、都合で延期した。このためちょっと困ったことがある。一時帰国時、日本で服をまとめ買いしてくるつもりであったので、最近は辛抱して古い服を着ていた。やむなく服を探しに歩いている。唯一の買い物の日は土曜日であるが、この土曜日も出張、出張者のフォローなどでつぶれることが多く、実際には月に一度くらいしかチャンスはない。

  また困るのは寸法が合わないこと。たまに23、44というサイズの服が見つかると少し柄などが気に入らなくても買わざるを得ない。最近うろうろしてようやく服を買いつつある。先日も、パリの大きな百貨店プランタンまで車で日帰りしたが、残念ながら私の寸法のものはなかった。しばらくは、フリーの土曜日は着るものの買い物に使わざるを得ないと思っている。

  ドイツの人も今の店のシステムには不便を感じているとは思うが、本来ヨーロッパでは日曜日は完全に休みなので、土曜日の午後2時閉店は、日本人が感じるほど異様とは映らないのかも知れない。パリは土曜日も午後7時~8時まで開店しており、ドイツに比べてまだ買い物はしやすい。

  お店の人も休みたいというのは当然のことで、それを法律できちっと守らせるという点、ドイツらしいと思う。自由主義のなかで、なんでも自由ではなく、自分の権利を主張したければ、他人の権利も尊重するという極当然のことを法律で規定していると理解は出来るが、やっぱり私にとっては買い物には不便な国と映る。

  日本の便利さを知っているから不便に感じる。もし知らなければこれが当然として受け入れるのかも知れない。日曜日も開いて欲しいという気持ちもあるが、さすがキリストの世界では気が引ける。

  生まれて育った環境は自然に身について体が覚えてしまっている。生まれ育った時の価値観を変えることは難しいとつくづく思う。論理的に考えれば当然なのだが。日本での便利さは、一部の人の犠牲のもとに成り立っているという事実もドイツに住んで初めて認識した。

1994年5月30日月曜日

アイルトン・セナ

セナと日本からの出張者(女性は恋人?)
  Ayrton Sennaという名前は、昨年の5月まで知らなかった。名前を知る機会を得たのが昨年のFormula One Spanish Grand Prix (Barcelona, 5/7~9/7)であった。三日間とも非常に天気が良く、暑く日焼けしたことを覚えている。
  二日間は予選でタイムを競い、その一番早いレーサーがポールポジッションをとり、ラストデーの決勝の先頭のスタート位置を得ることが出来る。Sennaのチーム、McLaren-FordはホンダがF-1から撤退するまではホンダのお化けエンジンにより何度も勝利していた。昨年からはホンダの撤退によりFordのエンジンを使用している。
  予選の場合それぞれバラバラに走り、タイムだけを測りその順位を決める。同時にスタートするのではないのでドライバーの腕よりもエンジン次第であり、より強力なエンジンを積んだWilliams-RunaultのProstを越えることが出来ず、2位であった。決勝でもSennaの腕の見せどころがなく結局2位に終わった。ホンダ撤退の影響を最も受けたのがSennaなのかも知れない。昨年は、雨の日のSennaと呼ばれるくらいコンディションの悪いときにはSennaが勝っていたようだ。
  日本からの出張者と共に、Sennaチームのピットに入り、発熱布使用タイヤウォーマーの性能調査を行った。初めて知ったことであるが、走ってきた後タイヤ表面温度を測ると87℃前後。しばらくして冷めてからタイヤ表面を手で触ると非常に粘着性がある。タイヤ表面にはミゾがなく、この粘着性で道との密着を得ている。もちろんタイヤウォーマーの温度も約87℃になっていること確認した。
  レースから戻ってきたSennaに対して、タイヤ交換の後の運転の状況はどうかと聞いたところ、問題ないとのことで安心した。この時点でも私の認識はただの一ドライバーであったので、日本からの出張者の希望でSennaと並んで写真をとる役を務めたにすぎなかった。その後、出張から帰宅し、娘にSennaと仕事してきたといったところ、なぜサインをもらわなかったかと強く言われた。
  そしてこの5月1日の夜、テレビをふとつけるとニュースが Senna の死を伝えていた。特に Euro-Sport 局では Senna の生い立ちから今日に至るまでの長時間特別番組を流しており、Senna のスポーツ界での偉大さを再度認識した。
  今年は、昨年勝てなかった Williams-Runault に移ってのレースであった。昨年 Senna にずっと付き添ってピット内にいた若い女性を思い出し、今彼女はどのような想いなのかと考える。どうみても恋人のように見えた。
  スポーツと危険はついてまわるもの。プロの Senna にとってレースで命を落とすこと自体は本望だったのかもしれない。チームを移籍してまで勝つことに執着していたにも拘わらず、今年も勝てない焦りがミスにつながったのか。それとも Williams チームからの勝てないことに対するプレッシャーがあったため・・・? 原因はなぞのまま残っている。F-1ブームの全盛を築いた人物だけに、F-1 ブームもここまでかという気もする。
  スポーツをプロとする場合には、ある程度の危険をおかすのはやむを得ないが、我々素人がスポーツを楽しむ場合には、ケガをしないことが第一と考えている。遊びでケガをして仕事が出来なくなることほど、プロ意識のない人はない。私が手掛けないスポーツのいくつかは、この理由によるものである。

1994年4月30日土曜日

マンテロ社

  Mantero社はミラノファッションを代表する絹織物、プリント会社で、特にプリントのデザイン、色はすばらしいものがある。さすが伝統ある会社で、会議室も昔の貴族の部屋を思わせる。

  このあいだMantero社での会議に出席することがあった。午前中の会議を終わり、会議を中断して昼食をとった。昼食と言っても、会議室の隣にダイニングキッチンがあり、その食卓で生ハム、パン、チーズを軽く食べる程度の食事である。このダイニングキッチンには社長が集めたという銅鍋類、相当古いものであるが新品同様に磨いてあるスライサーなど骨董価値のある物がズラリと置かれている。

  たまたま、社長が入ってきて、社長も自らスライサーでハムを切り、それをみなさんに配り雑談に花を咲かせていた。突然社長は、私の横にいたThiryさんに向かって、”メガネをかけ、白いワイシャツ、黒ぽい背広、まったく日本人に見える。”と言って、次に私に対して、”ゴルフはやりますか?”と聞いた。突然の事で、つい ”しません。”と答えた。社長の反応は”Wonderful”であった。

  私もThiryさんと同じ様にメガネをかけ、白いワイシャツ、黒っぽい背広を着ていた。日本人ビジネスマンの典型的姿であり、これにゴルフが加わるとまさしく日本のビジネスマンそのものとの理解であろう。

  社長はその後何も言わなかったが、後で色々考えさせられた。ある意味では日本人は画一的と馬鹿にしたという印象もうけ、また客観的に日本人を見て言ったとも思える。日ごろ主観的にしか見ない中で、客観的に見ればどうなのかと考えさせられる出来事である。西洋の個人主義、多様性を言いたかったのかも知れない。

  画一的行動という団体競技は生産向上、品質改良、応用研究には大きな力を発揮するが、創造は個人競技、と良く言われる。西洋の個人主義と創造性とは大いに関係しているということなのだろうか。

  私の日記を読み直してみたら、11年前の日記から次の文章を発見した。

 「1983,6,21,(土)、晴、6時ごろから目が覚めたが、まだ眠たいので6時40分に起床。食事後東那須カントリーへ。Bコースからスタート。前半56、後半46と念願の50を切った。良かったのはティーショット。反省点はアプローチでグリーンの状態を考えてどこへ落とすのが良いか考えるべき。結局、5位。腕時計と大波賞(サイフ)をもらった。帰りの電車では部長、商社の人から初めて50を切ったということで冷やかされた。家には8時ごろ着く。」

  その後まもなくはじめたのがトライアスロン。極限をためしてみようと思ってやり始めたが、やりはじめるとそのおもしろさが分かる。苦しい第一関門は、水泳なら約20分、ジョギングなら数kmの所にある。それを過ぎると楽になりまた続く。さらに、ジョギングなら10kmごとぐらいに苦しい時があるが乗り越えるとまた行ける。この世のいざこざが些細な事と思う境地になる。終わったあとの壮快さはなんともいえない。

  まったく私的な記録であるけれど、水泳3km+自転車140km+ジョギング30kmが私のレコード。かかった時間よりもどれだけ距離を伸ばせるか、これがとりこにしてしまった。今は駐在員という仕事がら時間がとれず、通勤の往復8kmのウォーキングとたまの休日に泳いだりして、そのはしくれをささやかながら続けている。ゴルフはすっかり忘れてしまった。

1994年3月30日水曜日

音楽三題

  今月は、近くの教会での宗教音楽、市の音楽ホールでのオーケストラ、それに昔の宮殿の広間での室内楽、3種類の音楽を聴くチャンスがあった。今住んでいる家の近くにある教会、St.Antoniuskircheにふと出かけレクエムを聴いた。300人ぐらいしか入れない教会であるが、パイプオルガンにオーケストラ、合唱団も入り、本格的な教会音楽の雰囲気であった。
  一曲目はパイプオルガンによるオルガン協奏曲。作曲者は知らないが(紹介によると、Rheinberger, 1839~1901)、教会の中でのオーケストラとオルガンのハーモニーがなす響きはすばらしかった。2曲目はFaure(フランス、1845~1924)のレクエム。モーツアルなどの有名なレクエムはたびたび聴いたことがあるが、この曲は初めてで、そして教会の中で聴く本格的なレクエムも初めてであった。
  本来レクエムは教会での演奏を頭に入れて作曲されたものと思われ、教会の中で聴くと、その荘厳さは言葉では言いようがない。もちろんパイプオルガンも入っていることから、このパイプオルガンの音と合唱の声が荘厳さを増長させているように感じた。私はクリスチャンではないが、宗教心とは関係なしに、この音には魅了されてしまう。
  次は、デュッセルドルフのトーンハーレでのロンドン交響楽団の演奏会。ハイドンの交響曲、シューマンのピアノ協奏曲(ピアノは内田光子)、そして最後はショスターコービッチの交響曲6番であった。ショスターコービッチといえば5番が特に有名であるが、生で聴くのは高校生の時聴いたオラトリオ”森の歌”以来であった。ソ連の社会主義リアリズムの代表的音楽であり、難解な現代音楽の中では比較的素直に聴き楽しめる音楽と私は思っている。今ではソ連は崩壊したが、音楽は今後も人々を楽しませ残って行くのであろう。
  3番目が、ザルツブルグのミラベル宮殿での室内楽。演奏はベルリンハーモニアンサンブル。ロッシーニ、シューベルト、チャイコフスキーなどの演奏もあったが、なんといても興味深いのがモーツアルト。まさしくこの宮殿の金ピカの広間でモーツアルト一家が貴族の前で何回も演奏をしたという。モーツアルトの曲はDivertimento KV136。モーツアルトの簡素な美しい響きは、広間の金ピカの美と大きなコントラストを示していた。私は、この金ピカの悪趣味を好まないが、モーツアルトの簡美な音は心地よい響きであった。貴族社会はすでに崩壊したが、音楽は永遠に人々に愛されるのだろう。
  キリスト教という異なった文化のなかで作られたもの、あるいは、社会主義・貴族社会というそれぞれの栄華を極めた時代に作られたものである。その時代の栄華は一時的なものであるが、芸術は永遠、人類共通のものとして残る。この世にはこのたぐいものは芸術以外にもたくさんある。その時代の栄華を極めるという価値観よりも、永遠・人類共通のもっと価値あるものを求めて生きたいと思ってやまない。
  今回教会のレクエムを聴きに、私以外にもう一人の日本人がいた。その人は、昨年ベートーベンの第九の合唱に参加したときの合唱の指導をしてくれたオペラ歌手であった。身近で聴くこのような演奏会の演奏者は世界的にはほとんど無名の人であるが、れっきとしたプロであり、その音楽もすばらしく、たいへん楽しめるといつも感じている。

1994年2月28日月曜日

イーパー

  レピア織機で有名なPicanol社はベルギーの西、北海に近いところIeperという町にある。ここはシートベルトで有名なイーパーバンド社の町でもある。
  今月、Picanol社訪問の際、野原に幾つのも墓、町中心部への入口の門の壁に無数の人名が記入されているのを見ることができた。Picanol社の人に聞いたところ、第一次世界大戦にドイツ軍がはじめて毒ガスを使用したのがこの場所で、英国、フランス、USAなどの連合軍の兵士が多数亡くなったことから、このようなものが残っているとの説明であった。兵隊のみならず一般の人も巻き添えにあったと思うが。毒ガスといえば、インペリット(CH2CH2Cl)2Sが良く知られているが、このインペリットという名前はこのIeperからとったものと説明していた。
  第一次世界大戦は、今問題になっているサラエボでの事件が発端となったが、もともとは世界的な領土の分捕り合戦のなかでのドイツと英国の対立が顕在化したもの。今から考えれば、新興資本主義国ドイツと先進資本主義国イギリスとの世界的領土分捕り合戦の対立であり、一般大衆にとっては何のための戦争であったか、私には無意味のものとしか思えない。
  領土分捕り合戦のなかでドイツが初めて毒ガスを使用したことは、ドイツに対する他のヨーロッパ人の見る目は決して良いものではないと思う。Ieperを訪れるたびに、この悪夢の想いは人々の気持ちの中によみがえるものと思う。
  以前にも述べたが、再発の防止はこの時の人間として感じた気持ちそのものが力になる。このような記念物は残すべきであり、もし残すのを避ける人がいるならその人は、その再来を夢見ている人と思わざるを得ない。この小さな町のまわりは平原でのどかな田園風景であるが、今はその昔の忌まわしい光景は想像すら出来ない。その平原の所々にあるお墓を見てはじめて昔の出来事があったと想像できる。

1994年1月30日日曜日

ノイエス・グーテス・ヤール

牛追い祭りで知られているスペインパンプローナ市庁舎
(年末年始の休みはドイツからスペインへドライブ)
  ドイツに赴任しまもなくソ連の崩壊に代表される東欧諸国の変革による新しい世界観がスタートした。そして今、その後の状況を見ると、旧体制の中で秩序が維持されていたが潜在的に存在していた複雑なヨーロッパの人種、宗教の入り組みによる紛争が出現している。
  しかしこれも、長い間の民族間の貧富の差が潜在的な偏見となり、それを鼓舞する人の力により解決が難しくなっているようである。人種、宗教、文化の関係なくすべての人がゆとりのある生活を維持出来ておれば避けられた混乱と思う。それにも増して東欧諸国の経済状態は決して上向きにはならず問題は深刻化している。冷戦終了後の混沌の中で、ようやく世紀末に向けて新たな課題が見えはじめた。
  それは旧体制への逆戻りではなく偏狭的民族主義の芽生えである。民族主義がいけないのではなく、普遍的ではなく狂信的、排他的、偏狭的なのが問題と思う。偏狭的民族主義は第二次世界大戦ですでに経験済み。第二次大戦の再来が起これば今回はどのような事態になるか想像可能である。
  ロシア民衆の不満が偏狭的民族主義に傾けばその再来が有り得る。西欧の様な民主主義が確立している国では世論を一つの方向に誘導するのは難しいが、ロシアでは自由主義的民主主義はスタートしたばかり、非常に弱いもの。悪知恵をきかせばこの弱い民主主義は簡単に利用され、気がついたときにはすでに民主主義はなく、人の理性が届かなくなる。こんな危険性を感じる。
  このロシアの危険性の可能性についていろいろの意見がある。ドイツのワイマール体制の経緯を、第1次世界大戦の巨額な賠償が経済混乱を起こし、大衆を民主主義よりもっと強力な指導者熱望へ導いたと見る。しかし、現在はロシアには経済混乱こそあれ、他の国はロシアを助けようとしている点ワイマールのドイツとは異なるとして楽観視することも出来る。
  私には2つの思いがある。一つは経済混乱を解消させるための経済援助。ここで言う経済援助は金銭物を与えることではなく、農業工業産業が成り立つように技術、人を援助することを意味している。自分でやって行けるようにその背景を援助すること。
  この点、日本は戦後自ら海外の技術を積極的に導入し成功した。この時、ただの金、物資だけの援助に頼っていたら今の発展はなかった。自分自身がやらなければならないと認識し、またそれに西欧諸国が答えてくれたことが大きかったと思う。日本の場合はその勤勉さから自ら西欧の技術導入の必要性を感じ自ら行動に移したことが大きい。西欧からのお仕着せの導入では魂が入らず今のような成功は無かったであろう。受け入れ側の積極的意志も大切である。
  2番目の思いは、人々の意識の問題として、強力な指導者による体制翼賛的動きを避けられる社会作りである。集団がある方向に進みかけたときNOと言える社会作りが必要と思う。社会集団は個人の集まりでありその集大成が社会であり国という考え方、それぞれの考え方を一つに纏めるのではなく、また人間の欲望で判断するのではなく、人間としての理性で人の気持ちから見てどうかとの判断が可能となるシステムが必要である。
  以前にも述べたけれど論理だけが判断基準になると非常に怖い。論理には詭弁がつきもの、物事を一つの方向に進めることを優先する場合はこれほど都合の良いものはない。
  現代は多様性の時代。いや今まではその多様性を無視して多数決の原理が巾をきかしてきたと言って良いが、これからはすべての理性的人格を認めるという前提に立った多様性を生かすことが人間社会に必要と思う。これが出来て初めて真の創造的社会・集団になるものと思う。
  なにも一つに結論づける必要はない。多数決、論理ではなく、それぞれの理性的判断から必要なものを認め包含できる社会体制が必要と思う。これはロシアのみならず日本でも必要と思うが。
  自然現象と違って人間の社会は人間の意志で動かせる。それは悪知恵によるものもあれば、人間の理性によるものもある。人間は動物であるけれど、理性と理性的感情を持っている。理性は決して悪知恵であってはならない。どんな集団でも悪知恵にたけた人間がいるもので、その刹那ではわが身を得たように見えても、長い目、さらに大きな枠組みでは人にとってなんら利益がないことが分かるものである。
  援助とは人に施しを与えることではなく、自活するのを助けること。英雄を求めるのではなく理性の伴なった多様な人格を認める社会作り。現実には難しいことばかりのように見える。どのような集団・社会でも同じようなことが言えるのであって、その中でそれぞれの人がこの2つの思いでもって行動することが必要なように感じる。その積み重ねにより初めて理性の伴った創造的な集団・社会が出来るのではないか。今年1994年が人の歴史の中で反対の思いにならないよう、良い年であるよう、自分も出来る範囲の領域で心がけたいと思っている。