2年前ギリシャへ行ったおり、アテネの飛行場での出来事である。チェックインして搭乗まで待合い室に座っていた。ほぼ待合い室は満員。その一般通路に一番近いところに座っていた。まもなく、車椅子に乗った体の不自由な男の人が入ってきた。その車椅子には台がついており、その上にはピスタチオなどの乾燥豆のパックしたものがたくさん並べられていた。
車椅子を自分で動かし、まずは最も近くに座っていた私の所へ来た。すでにおみやげに沢山すぎるくらいのピスタチオを買ってしまっていたので、いらないよとのしぐさで断った。すぐに横へ移動して行ったが、私以外の人はほとんどがその豆を買っていた。
一巡したところで通路を通りかかった紳士がお金をさしだした。その紳士は品物はいらないとのしぐさをして、品物を受け取らずにお金だけを渡そうとしたところ、その瞬間不自由な言葉で一生懸命に何かを言い続けて、不自由な手でお金を払いのけてしまった。明らかにお金だけでは受け取れないとの意思表示であった。まもなくその紳士はお金を拾い上げてその場を去って行った。
私は何の意識もなしにピスタチオを買うのを断ったが、すべての人が買い物をしたのを見て後悔の念が出てきた。が、不必要なものを買うのも彼の意に合わないとして思い直した。
所かわって、ドイツでは体の不自由な人のための設備が至るところでみられ、街角ではよく車椅子の人、体の不自由な人が出かけているのを見かける。ドイツに初めて来た当時、日本に比べて体の不自由な人の多い国だなと勘違いしていた。実は、体の不自由な人の為の設備が行き届いているから、外出が可能なだけなのだ。
地下駅、地下道には専用のエレベータがある。体の不自由な人もこの完備された設備のおかげで自立できている。それから感心するのは、電車を降りるとき、階段を使うときなど、その近くに通りかかった人、居合わせた人が必ずと言っていいほど、手伝いをしている。当然のことのように、自然になされている。
先日、デュッセルドルフで日本人のための自動車事故救助講習会があった。口による人工呼吸のところで、”出血が見られ、エイズの不安がある時どうすればよいのか”との質問が出た。これに対してドイツ人講師は、ドイツ人には説明は簡単であるが、日本人の方に説明するのは非常に難しいとしてお茶を濁してしまった。私たち日本人からすれば全く的を得た質問であり、明確な回答を期待していた人が多かったと思う。しかし、キリスト教の有名な話、良きサマリア人の価値観からすれば質問自体が誠に次元の低いものであり、ドイツ人講師はそれを言いたかったのだろうと感じた。
ドイツは経済的にも豊かな国の一つであるが、心の面でも豊かな国と思う。ドイツのみならずヨーロッパ全体に言えるようであるが。このような心の豊かさは宗教の影響が大きいのは確かである。しかし、それに加えて、子供時代の生活体験も重要な役割をはたしていると私は考えている。日本も外見的な生活は豊かになったが、心の豊かさでは後進国に甘んじているようだ。益々エスカレートする小学校からの塾通いでは、これからも知識だけが豊富な秀才タイプはどんどん生産されるけれど、心豊かなクリエイティブな人材は期待できそうにない。
ポーランドに駐在していたある商社マンから最近聞いた話。昔どこかのワンマン社長夫人がポーランドを訪問したとき、その当時乳飲み子に与える牛乳でさえ不足している所で、牛乳を集めさせ牛乳風呂に入ったという。
また、日本の新聞に載っていた話。大学教授の職を捨て18年間、貧困のネパールの無医村で医療活動に従事していた岩村昇さんの体験談「巡回先の村で結核の重症患者を見つけ治療が出来ず困り果てていた時、患者を背負い三日三晩かけて診療所に運んでくれた行きずりの荷物運搬人の言葉が忘れられない。”生きるとは弱き者と分かちあうことだ。”男は謝礼を受け取ろうとはしなかった。」。
論語読みの論語知らずが多いこの世の中で、市井にこそ論語知りがいるように思う。
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