仏教の世界で「十界」というものがある。その中の、「畜生」、「人間」、「如来」について、次のような表現がなされている。
畜生 互いに他を餌食として成長し、自分のことしか見えない状態。
人間 堕落することもできるし悟ることもできる。そういう間的存在。地獄と仏の間、人と人の間、生と死の間。
如来 自らも悟り、又他をも悟らせつつあるもの。 ⇒ 自他平等の状態。
人はなぜ生まれ、なぜ生きているのか。ヨーロッパの生活体験を通じたキリスト教的理解よりも、むしろアジアの思想であるこの仏教の世界観で回答が得られるように思う。
畜生 互いに他を餌食として成長し、自分のことしか見えない状態。
人間 堕落することもできるし悟ることもできる。そういう間的存在。地獄と仏の間、人と人の間、生と死の間。
如来 自らも悟り、又他をも悟らせつつあるもの。 ⇒ 自他平等の状態。
人はなぜ生まれ、なぜ生きているのか。ヨーロッパの生活体験を通じたキリスト教的理解よりも、むしろアジアの思想であるこの仏教の世界観で回答が得られるように思う。
「人の生き方」 | (畜生的生き方) | ||
なぜ生きるの、なぜ働くの | ⇒ | 人々の幸せに役立つ | (手段を選ばず利益名誉を追求する) |
その結果として利益名誉を得る | |||
どう活動する | ⇒ | 創造的に、やってみる | (模倣、何もしない) |
精神的には | ⇒ | 心豊かに、楽しく | (物質的に豊かでも心貧しい、脅し・恐怖) |
肉体的には | ⇒ | 健康的に | (不健康) |
人の歴史は他の動物とは違って、「畜生的生き方」に示したような人生観から生ずる負の歴史からの克服の歴史と言える。世の中の変化はまさしく負の歴史をいかに克服していくかという観点で正当化されると思う。また、「畜生的生き方」は、善を装うために詭弁を多用する。
詭弁とは、「兎が進む間に前を歩いている亀は少なくともわずか先に進み、さらに兎が進む間に亀はまたわずかでも進むので兎は永遠に追い抜くことが出来ない。」という例で代表されるように、論理的には正しく見えるが実際にはありえない論理をいう。速度という別の概念を認識していないことからこのような詭弁が生ずる。
自然科学の分野では論理・議論で決着をつけず実証主義によって決着をつけるので詭弁は退けられ理論が確立する。しかし、自然科学以外の分野では実証主義の実践が不可能で、論理による議論しか出来ない。このため詭弁が堂々と通る。どんな考え方にもまずは肯定的に議論する、いわゆる「聴く耳を持つ」という土壌があれば詭弁はかなり避けられると考える。
それとともに実証主義実践不可能な分野で詭弁を避けるための唯一の基準は「人を殺さない、自然を壊さない、人のためになる」主義ではないかと思う。これからも「人はなぜ生きるの」を自問自答しながら、世の中の動きを「人を殺さない、自然を壊さない、人のためになる」主義で理解し、行動していこうと考えている。
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