1995年8月30日水曜日

Hundstage(盛夏)

 ネス湖
 野生のアザミ(スコットランド・グレンコー近く)
ストーンヘンジ
  この夏ヨーロッパも昨年同様暑い晴天の日が続いた。8月のドイツの新聞Rheinische Postに、もうくたびれたというなさけなさそうな犬の顔面アップ写真がのった。その説明に、「Wenn moechlich, cool bleiben:Die Hundstage dauern noch bis 23, August.」(出来れば涼しくなって:暑い日はまだ8月23日まで続く。)と書かれていた。この暑い盛り、フェリーでドーバー海峡を渡り、イギリスはブリテン島を車で一周した。
  ブリテン島は大きく分けると南のイングランドと北のスコットランドからなる。その境に近いところNewcastleからCarlisleの海岸にいたる東西約120kmの地帯に、ローマ帝国皇帝Haidorianは万里の長城と同じような長い防壁を建設した。ここから北へ向かうとイングランドののどかな丘陵地帯の風景から一変し、ヒースの潅木しか見られない山々の風景になっていく。この北はスコットランド、風景とともに民族も文化もイングランドとは異なる。
  その昔、シーザーがイングランドに侵攻、この地点まではたどり着いたが、その後さらなる北上は出来なかった。むしろスコットランド人の攻撃から守ることの必要性からこの大きな防壁が作られたという。まわりは延々とした丘陵が続き、その丘陵の尾根のところどころに、高さ5m、巾約3mの石で積まれた防壁が残っている。その近くの丘陵地には羊が群れをなして草を食べている。
  この防壁には数kmごとに監視用砦があり、それに多くの要塞があったという。その一つであるChester Fortに立ち寄った。昔、ここにはローマ時代の建物があった。ローマ風呂などの遺跡が残っており当時の様子がうかがえた。当時イングランドはローマ化されたが、スコットランドはもちこたえた。ローマ人との戦いはその後も続いたと思われるが、その戦いについての足跡には出会うことは出来なかった。
  ローマ人はローマ文化を持ち込みイングランドはその影響を受けたが、スコットランドはその影響を受けず、独特の文化を守ったのではないかと思う。スコットランドの独立心はこの時からはぐくまれ、イングランドへの併合の際の抵抗も、民族の違いのほかにこのローマ時代からの伝統があったからかも知れない。
  さらに北上し、スコットランドの首都Edinburgh、ネス湖の町Innverness、イギリスの最高峰Ben Nevisをドライブすると、風景はちょうど雪のないスイスの山々のよう。イングランドの自然とは全く異なり、別の国であるとの印象を受けた。
 スコッチウイスキー、タータンチェック、バグパイプ、これらはすべてこの自然があってはじめて育ったに違いない。それに、ローマ帝国の影響を受けず独自の文化を育てたとも思われる。いまイギリスといえばイングランドを指すことが多いが、文化に関してはこのスコットランドが巾を利かす。しかし、他の国の人々がイングランドの文化と認識してしまう所にスコットランドの人々の腹立たちさがあるように感じる。バーバリーチェックも本来はスコットランドの製品と云いたいのだろう。
  スコットランドの工業都市Glasgowでは、古い煉瓦の建物が壊され新しい建物が建ちつつあり、造船工業などの衰退からようやく立ち直りつつあるように思われた。新しい産業は重化学工業ではなくコンピューターを中心とした産業それにサービス業のようである。イギリスの凋落を挽回する旗手となったサッチャー前首相のスローガン、「自分の働きで身を支えていくことのできる人間は1ペンスといえども国家の福祉を期待すべきではない」は、この近くの炭鉱ストライキに対する彼女の強硬な政策の背景にあった。現在のGlasgowを見るとその効果が出て来つつあるようである。
  しかし、イギリスの一人当たりのGDPはドイツの55%、依然としてその差は大きい。ドイツとの比較でまだ大きな問題があるように思う。人間生まれてすべての人が同じ条件でスタート出来ればサッチャー前首相のスローガンも理性にかなったものとなる。現実はそうではない。生まれながらにして大きな差がある現実のもとでは人々のやる気はなくなる。外国企業の誘致もいいけれど、イギリスのさらなる活性化には、サッチャー前首相のスローガン通りやろうとしている庶民がやる気を起こさせるような社会作りにあるように思う。ドイツとの対比でイギリスの内在する問題点を感じざるを得ない。

1995年7月30日日曜日

ジベルニー

  30才代はタイヤコードの仕事に没頭していた。その最大の客先はブリヂストン。この日本のタイヤ業界でのガリバー会社が、文化面での活動にも力を入れているのは有名である。その一つが東京にあるブリヂストン美術館。世界的に有名な絵画を集め展示している。しかし、庶民が有名な絵画を買い家庭で楽しむことは不可能である。それで考案されたのは再生画の技術。この技術は原画と同じような油絵の凹凸があるというものである。ブリヂストンが豪華な額の技術と共に開発し販売をしていた。現在はこの技術を小さな別会社が引き受け製造販売している。

  当時、新築祝い、餞別などの贈り物として重宝させてもらっていたが、10年程前プライベートにも2つ買い求めた。一つはルノワールの「コンサートにて」、そしてもう一つはモネの「睡蓮」である。日本の家には大きすぎる額の大きさであったが、ドイツにきて大きな白い壁にかけるとちょうどバランスがとれ、部屋の雰囲気作りに一役かっている。もちろん毎日見ていても飽きることはない。

  この土日の休み、車でパリへ買い物に行ったついでにGivernyという小さな村を訪れた。この村はパリより北西約70km、セーヌ川をルーエンに向かったちょうど中程にある。セーヌ川を渡って田舎道を走るとこの小さな村に入り、まもなく道の両側が塀で囲まれた所に達する。この塀の両側がモネが晩年過ごした自宅であり、庭園である。

  道をはさんで北側にアトリエ兼住居跡があり、今はモネ博物館になっている。その建物の前は花盛りの庭園である。いろんな花が鮮やかに咲いている。道をはさんだ南側に池があり、この池には睡蓮、柳、日本風太鼓橋、小舟などが見られる。まさしくモネの絵画の題材が目の前に広がる。しかし、池そのものはそれほど大きなものではなく数分も歩けば一周できる。案外小さいのには驚いた。また色も絵は青色系統が主体であるが実際には緑が主体であった。構図とこの色の選択により絵の世界では大きな広がりを感じさせるのだろう。

  そしてモネが住んでいたという博物館に入ると浮世絵がいっぱい。浮世絵美術館と勘違いさせられる。葛飾北斉、安藤広重などがヅラリ。モネは浮世絵を見て、その構図と色の素晴らしさに感嘆し、睡蓮の絵のヒントにしたというのは間違いないと思われた。実際の絵としては浮世絵と印象派の絵では大きな違いがあるが、世界的に知られていなかった浮世絵の素晴らしい所に感動し取り入れる度量はやはり西欧の特徴ではないかと思う。浮世絵が西欧の絵画に大きな影響を与えたことはよく知られているが、日本画が西欧で絶賛されたという話はあまり聞かない。当時浮世絵は庶民の文化、それに対し日本画は文化人といわれた人々のための文化、この辺に芸術の真の醍醐味があるように思う。

  さて、池に浮かぶ実際の睡蓮を見て、背景の緑に映えるその色の美しさにしばし時の流れが止まるように吸い込まれて行く。しかし、絵画を見る方がより永遠の広がりがあるように感じた。現実の風景は限られた空間にすぎないがモネの力により絵には無限の空間を感じさせられる。今回実際の風景を見て、はっきりと認識された。実際の風景を見るよりも絵を見る方が想像の世界が広がる。有名なオランジュリ美術館の睡蓮の大作を思い浮かべると、この思いはさらに強くなる。この雰囲気は本物のモネの絵画でなくても自宅の再生画でも味わえることが今回確認できた。本物の方が迫力あるのはもちろんであるが。

  音楽の世界と同じように自分の聞きたい見たい時にいつでも見聞きできることが芸術を楽しむ基本と思っている。この意味で、この再生画は私にとってはありがたい存在である。どんなところに引っ越しても、これからもいつも見られるよう私の手元に飾っておきたいと思う。それから、もう一つの再生画、ルノワールの「コンサートにて」の本物(アメリカにあるという)にもぜひ出会って、再生画との比較をしてみたいと思っている。

1995年6月30日金曜日

バルトブルグ城

  DresdenからAuto-Bahn4号線を一路Kasselに向かってドライブすると、Weimarを過ぎてまもなく旧東西ドイツ国境に近づき、前方左小高い山の上にお城が見えてくる。Wartburg城という。このあたりはThuringenの森の北端、Eisenachという町である。この町はバッハが生まれた町として有名で、またこのお城はその昔宗教界のお尋ねものであったマルチン・ルターがかくまわれ、聖書のドイツ語訳を完成させたところとしても有名である。
  この4年間いろいろなプロジェクトが目白押しで出張続きが多かった。しかし、今年に入ってそれらプロジェクトも一部一段落し、出張が少なくなり、そのおかげで前もってプライベートの予定を入れることが可能になった。その一つがオペラ鑑賞である。今回初めて、一か月前から予約を取ってオペラを楽しむことが出来た。曲は「タンホイザー」。このような有名な曲の場合、ある日急に時間がとれて見に行ってもいつも売り切れである。一ケ月前の発売日に即刻売り切れてしまうので今まで見ることが出来なかった。
  舞台はこのWartburg城。話はこのお城に伝わる宮廷歌手の歌合戦伝説とその昔その宮廷歌手の一人タンホイザーの禁断の恋と純愛との葛藤物語。話の内容はありふれたどこにでもある話ではあるが、音楽の力で見事昇華され、人々を圧倒させる。
  ワーグナーは歌劇に新しい試みをしている。一つは、ドイツの昔からある伝説に基づいたドイツ独自の歌劇の創出。それから本来伴奏に過ぎないオーケストラを全面に出しオーケストラが劇の流れを導き、流れを止める独立したアリアを避け、途切れなく歌い語りの旋律が続く点。彼の後半の作品は歌劇とは云わずに楽劇と云われている理由はここにある。オーケストラが全面に出てくる場面が多く、もちろんそれに加えて合唱、重唱、独唱も入り、旋律は官能をゆさぶる。ヨーロッパでオペラが娯楽の一つとして繁栄を続けているのは、劇場で官能を揺さぶるような感動を与えてくれるからであろう。
  ものの本によると、ワーグナーは36才の時Sachsen王国の首都であったDresdenに住んでいた。この時、Dresdenの市民革命に出くわし、市民派につき市民派として活動している。結局市民派は破れ革命は失敗に終わった。その結果ワーグナーには逮捕状が出され、彼は一時スイスで亡命生活を送らざるを得なかった。しかし、49才の時に逮捕状は撤回され、その後バイエルン王ルードビッヒ2世の絶大なる援助を受け彼の音楽を成就させたという。
  若きワーグナーは市民革命に賛同し、晩年は国王の援助を受けた。ナチスがワーグナーの曲を好んで使用した理由は、曲にドイツというものを官能的に意識させる力がある点である。ヒットラーはそれを利用したと思える。もし、ワーグナーが生きていれば、自分の音楽がナチスの道具に使われたことに憤慨したのであろうか。興味あるところである。
  この半年比較的出張が少なかったが、一時停滞中であったプロジェクトの再開、新しいプロジェクトなど出てきており、これからまた忙しくなりそうである。残念ながら今回のようなオペラ鑑賞はもう出来そうになく、従来の突然時間が出来たときに聞きに行くというスタイルで楽しむことになりそうだ。

1995年5月30日火曜日

ベーリングさん

 ポーランド国境で待つ
 
 建設中の孤児院(イエデバブノ)
旧ナチス参謀本部を案内するベーリングさん
(ギルロッツ)
  ドイツとポーランドとの国境の町Frankfurt(Oder)に近づくと長いトラックの列に出くわす。およそ20kmの列であったように思う。国境手前数キロの所には税関用の巨大な駐車場があり、ここでさらにチェックのため無数のトラックが連なって待っている。聞くところによると国境を通り過ぎるのに寝泊まりが必要なこともあるという。
  乗用車も結構長い行列であったが、約2時間ぐらいで無事国境を通ることが出来た。この春からEU内はパスポートのチェックをしなくなったが、EU以外の行き来はむしろ従来よりチェックが厳しくなり、国境での待ち時間が大幅に増えているという。 
  車はトヨタワゴン車。後ろの荷台には日用品・学用品など、わずかの隙間もなく積めるだけ詰め込んでいるため、車は後ろに傾いた状態で走る。目的地はロシア国境に近いポーランド東北のMasuren地方。ポーランドでも特に貧しい地方と言われている。
  しかし、田舎道は完全整備とは云えないまでも舗装はされていた。数年前はまだ砂ぼこりであったという。道なりには、古い工場も見られたがほとんどは平原の続く農地、農村が続き、たまに大きな巣にこうのとりも見ることが出来た。森と湖の自然に恵まれた村に今回の目的場所Jedwabnno孤児院はあった。片道1300kmのドライブであった。
  Dueseldorf の下町にHumanet-Shopというお店がある。開店して4年になる。この店は日本企業駐在員の主婦達がボランティアで始めたリサイクルショップである。駐在員は定期的に交替することから引っ越しが頻繁にあり、その時いろいろな不要品が出る。それを集めて回り、この店で売り再利用をはかろうというもの。しかし、この活動の主目的はリサイクルにあるのではなくその収益金を東欧や第三世界の人々を援助する事にある。もちろん収益金のみならず、再利用できる日用品自体も援助品となる。もう一つ最も重要な特徴は、その援助品を他人に託すのではなく、自分達の手で援助の必要な人に直接手渡すところまですること。ボランティアで自主的に集まった主婦たちは、自分の出来る範囲で交替で店頭に立つなどして参加している。
  一番の問題は、援助物資をどう運ぶかということ。主婦のボランティア活動であるため困難なことが予想された。運搬の協力者を探したところ、運よくドイツ人のWellingさんが協力を申し出た。彼はすでに年金生活の身で現在66才、この店のスタート以来4年間運搬の仕事をボランティアで引き受けている。いつもは彼が一人で車を運転し、ポーランド、ロシア、ルーマニア、ドイツ国内(Friedensdorfという施設、アフリカなどの戦禍により傷ついた子供達を自らの手でドイツへ運び治療しているボランティア活動)などへ援助物資を運搬している。今回は私もボランティアで参加、Wellingさんと交替で車を運転することになった。
  今回訪問した孤児院は建物が劣悪のため、新しく立てる計画を持っているとのことでその建築資金の一部を手渡すことが目的。ポーランドでは金利が30~40%でこのような個人の善意でまかなっている孤児院ではお金を借りることが出来ないため困っていた。寄付を目的に訪問したが、貸してもらえるだけで充分とのこと。それも金利は8%でとの申し出。とりあえずはこれで了解し援助金と日用品などの援助物資を手渡した。
  下は5才から18才まで13人の子供たちが生活しているが、それぞれ事情があって孤児となっている。持参したおもちゃをすぐにあけて遊ぶ子供を見て、この子達が立派に成長することを願い、少しでも役に立てたらと思う。子供達からの「ジンクイエ(ありがとう)」の言葉に見送られて、帰路についた。
  帰り、ロシアとの国境30kmのところにあるGierlozをWellingさんが案内してくれた。ここはナチス時代、Hitlerの参謀本部のあったところ。ここでHitler暗殺未遂事件も起こっている。森の中におおきな防空豪のような、映画館、プール、生活に必要な設備がそろっていたという。地図を見ると、ロシアを含めた全ヨーロッパの中心がちょうどこの辺りであることに気づく。ロシアを含めた全ヨーロッパを征服することを考えて場所を選んだようである。今では爆破された無惨な残骸が残っているだけであった。
  見学しながら、Wellingさんの話を聞いた。「16才の時までHitlerに熱狂した。みんなが熱狂した。ナチスの本質も知らずに。でも、当時知ったとしても何もできなかったかも知れない。」この思いが、現在のWellingさんのボランティア活動の原点になっているように私には思われた。
  日本のゴールデンウィークの合間で、ちょうど仕事も少なかったこともあり、3日間の休暇がとれたのはラッキーであった。今までこのようなボランティア活動をしたいと思いながらなかなか出来なかった。一時帰国休暇もとれないまま本帰国になりそうであるが、日本での休暇より有意義で貴重な体験であったと思っている。

1995年4月30日日曜日

ノルマンディー

  Buchenwald、Normandy、Dresdenといえば第二次世界大戦に関するヨーロッパでの歴史に残る地名である。これら地名がこの大戦で名を残すことになった時間的順序は、Buchenwald ⇒ Normandy ⇒ Dresdenの順である。2年前、Buchenwald、Dresdenを訪問、戦争の生々しい傷跡が残され強い衝撃を受けた。このイースター休みに今回は、Normandyをドライブすることが出来た。
  北フランスNormandy地方は、東はRouenから西Cherbourgの地区をさす。Rouenはジャンヌダルクの裁判が行われ処刑された所、Cherbourgは映画の題名にもなったが今は核燃料処理品の出発港として有名になった。この一帯は美しい砂浜の海岸が続き、50年前の上陸大作戦は想像することは出来ない。唯一アメリカ軍が上陸したOmaha海岸に、碑と小さな展望台、それに墓地が、その昔の出来事を思い浮かべさせるに過ぎない。
  Omaha海岸近くのBayeuxには戦争博物館があり、そこにはNormandy作戦の当時の新聞、写真、武器、戦車、軍服など展示されている。ドイツ軍の抵抗も大きかったことから、この上陸作戦により、近くのBayeuxとCaenの町は焼け野原になった。その当時の写真も見ることができた。戦争は勝った方も負けた方も共に大変な痛手を被ることを認識させさせる。
  アウシュビッツのような強制収容所はナチス時代無数にあったが、その一つであるBuchenwald(ちなみにこの収容所はアメリカ軍が解放した。)を訪れたとき見たような残虐な写真はなく、このNormandy大作戦は正義の戦いであるとの意図のもとに展示されているとの印象を受けた。
  この世には悪はないと信じたいが、Wuchenwaldを訪問した時そうも云えないと感じた。「悪は悪そのもので常に存在する力を持つ。善なるものは人々が努力したときのみ現れる。」という誰かの言葉は、真実のように思えてくる。Buchenwaldは悪であり、それをなくそうと努力することにより善と言うものが認識されるのか。そう考えるとNormandy大作戦・Dresdenの大空襲も善なのか。また、南京大虐殺は悪で広島の原爆は善なのか。現在の日本を騒がせている宗教団体も悪であり、捜査することは善なのか。悪の存在しない社会は出来ないのだろうかとつくづく思う。
  ヨーロッパでも有名になってしまった話題の新興宗教の上層部は有名私立中学高校を出た超有名大学・大学院出身者が多いのを見ると、論語読みの論語知らずと感じざるを得ない。自我の確立以前の幼い時の歪んだ生活、その中で無意識のうちに形成される価値観と悪とは結びついているような気がする。
  頭脳が優秀、知識が豊富であること自体は何の価値もなく、その頭脳なり知識が世界の人々の幸せのために役だってこそ価値があるのである。このような価値観がより多くの人々に認識されなければ悪は常に存在する力を持つように思う。
  それから、今回Normandyを見て回って感じたのは、Normandy、Dresdenがあって, Buchenwaldがあったのではなく、BuchenwaldがあってNormandy、Dresdenがあったということである。これは誰も否定出来ない事実である。この事実をきちっと認識することも、悪のない社会を作るためのもう一つの考え方ではないかと思う。

1995年3月30日木曜日

トゥルク

  フィンランド南西部のTurkuでは、昨年冬場-30℃、夏場+30℃を経験したと言う。なんと一年の気温の差60℃。冬場は池ではスケートができ、わかさぎ釣りも楽しめる。今年はそれほど寒くないとはいいながら、最も寒い日で-20℃であったと言う。3月も終わりに近いけれどまだ所々雪が残り、気温は-5℃ぐらい、今回仕事で訪れてこの冬久しぶりに寒さを感じた。この1月にはノールウエーのベルゲン研究所も訪問したが案外寒さは厳しくなかったのを思い浮かべると、海流の影響を受けるところとそうではないところとの差ではないかと感じた。
  フィンランドは地理的にスウェーデンとロシアに挟まれ、むしろエストニア、ラトビアなど旧ソ連の国の方が近くに感じられる。歴史的にもスウェーデン、ロシアの支配下におかれ、ロシア革命後に最終的にソ連から独立した。よく知られた話として、この独立運動の際、フィンランドの人々を勇気づけるために作曲されたのがシベリウスの交響詩フィンランディアである。
  しかし、その後一部領土がソ連にとられたことから、ナチスドイツのソ連への侵攻に乗じて領土の回復をねらった。しかし失敗し、このため戦後ソ連に対する多額の補償を余儀なくされた。戦後、林業が主であった産業を工業中心の産業に転換をはかることに成功しこの苦境を乗り越えた。結果、北欧の福祉国家の一つとして豊かな生活の国となった。など今回はじめて知るところとなった。
  しかし、森林以外天然資源はなく、結局はソ連との貿易が大きなウエイトを占めざるを得なく、極端にいえばソ連とのつながりの中で繁栄をしてきた。政治的にも社会民主党を中心とした左派連立政権が続いていた。ソ連の崩壊と同時に初めて保守連立政権に移行したが、旧ソ連との貿易がとまり、その影響で不況のどん底の状況となり、失業率は年々増加、現在18%に達していると言う。このためか、この3月の総選挙では保守連立政権は勢力を落とし、再び社会民主党がトップとなり、社会民主党指導による連立政権に向けて動いている。
  EUの仲間入りをはたしたにもかからわず経済状況は厳しく、今後の課題は、工業の立て直しである。そのためには天然資源の確保、西欧との貿易の拡大が重要で、エネルギー源としては原子力発電の検討もなされているという。それぞれの国にはそれぞれの地理的、歴史的背景があり、他の国の方法が必ずしも適切とは限らず、フィンランドもこらから独自の方策を模索していくものと思う。
  フィンランドには、首都Helsinki、Tampere、Turkuの3大都市がトライアングルの地理的関係で位置しており、それぞれに工業が発達している。それを支えるようにそれぞれの都市に大学が存在している。今回Turkuの企業とTampere工科大学を訪問したが、共同で研究開発を進めているという。このような大学と企業が共同して新しい領域を開発する姿勢はすでに確立されており、戦後の急速な工業化を支えたのはこの連携作業ではないかと容易に察することが出来た。これからも、この体制の強化と、厳しい自然環境の中でも耐え抜く忍耐力で難局を切り開いて行くのではないかと思う。
  帰りの飛行機の上から見ると湖はほとんど氷でおおわれ春はまだ遠いとの印象を受けたが、同時に経済の春ももうしばらくは来ないのかも知れない。

1995年2月27日月曜日

グラナダ・ダカールラリー

 フィギュアスケート欧州選手権
(優勝したボナリの演技)
グラナダ・ダカールラリーのスタート

  この2月5日の日曜日、Dueseldorfから東北60kmの所にある、DortmundのWestfalenhallenで開催されたヨーロッパフィギュアスケート選手権を見に行った。フィギュアスケートの競技を見るのは初めての機会であった。なんといってもハイライトは女子のソロ。優勝は有名なフランスの黒人選手Bonalyであった。ヨーロッパ選手権であるのでスポンサーには日本の企業は入っていないであろうと思っていたが、なんとスポンサー8社の中に、富士フィルムとシチズンが含まれていた。写真を撮るたびにリンクのボードに描かれた会社のロゴマークが入る。グローバルなビジネス活動には世界的な宣伝活動も重要なようである。
  この冬休みポルトガル、南スペインをドライブした。大晦日はアルハンブラ宮殿で有名なグラナダに滞在した。ちょうど元旦の朝、グラナダの中心通りから、Granada-Dakarラリーのスタートがきられた。数分ごとに一台ずづスタートするのであるが、1mぐらいの高さの台に自動車ごとのり、そのチームの紹介をする。スペイン語と英語であるが、目立ったのは ”ミツビシ”と ”シトロエン”のアナウスであった。三菱の自動車が紹介されるたびに大きな歓声があがり、このラリーでの知名度は世界的なものであることを知った。結果は、1位シトロエン、2位、3位、4位を三菱が占めた。
  周知のごとく、三菱は早くからこのラリー(昨年まではParis-Dakarラリーであった。)に参加、この数年の自動車不況にもかからわず三菱だけが好調なのは、RV車の代名詞までなったパジェロのおかげと云われる。今やシェアーをじりじり増やし日産に迫っている。これは宣伝効果のみならず、このラリーから技術的な改良を繰り返し、それがパジェロに生かされたことも大きい。F-1に参戦したホンダと同じような考えと思う。
  その昔、RV車が売れるとはだれも予想していなかったと思う。このラリーが注目されるにつれてブームを起こした。技術的に見れば砂漠を走るニーズはなくRV車が売れるはずはないのであるが、結局は何か違う物・新しい物が欲しい消費者ニーズにあったようだ。むしろこのラリーが消費者に火を焚きつけたということである。
  もちろん、日産車もトヨタ車もスタートをきっていたが観衆の反応はほとんどなく、このラリーに関する限りは三菱が王様のような印象を受けた。ここまで来るにはこのラリーに莫大な経費と労力を費やしていると思う。その効果はすぐに計算出来るものではなく、長い年月をかけてようやく効果が見え出したもので、三菱の忍耐力には感嘆する。
  もしRVブームが来なければ、三菱のこのラリーにかけた経費と労力は無駄になると思われがちである。しかし、技術屋から見れば頑丈な車を作る技術の向上には大いに役立ち、RV以外の車にも応用出来るということで、無駄ではないと考える。この考え方がどこまで通用するかでこのたぐいの活動が企業内で認められるかどうかのポイントになるように思う。遊び心にお金を使うことも発展のためには必要な場合もある。もちろん表面的には失敗との結果になることもあるが、それは考えようで数値にあらわれないメリットが必ず残るもので、次の大きな飛躍に逆に利用出来ることが多い。少なくとも技術部門ではその蓄積が技術の財産となり、これがまさしく技術力となる。
  ドイツに来てスノータイヤを購入したとき、一番安いタイヤをつけて欲しいとタイヤショップに頼んだら、なんとMade in Japanのブリヂストンがついていた。Auto-Bahnを走るので、もちろんレーヨン使用タイヤである。レーヨンをわざわざAKZOから輸入し、タイヤを日本で作りヨーロッパに輸出している。コストは高くついている。しかし、ヨーロッパでの一般消費者の評判はピレリー以下であり、いかにブリヂストンのブランドがヨーロッパでは通用しないかを示すものである。
  日本での王者であり、しかもファイヤーストンを買収してその業界ではすでに世界的に知名度が上がっているが、一般消費者にはまだまだ浸透していない。商品の力とは、技術力とブランド力の両輪がうまくかみ合ってはじめて発揮出来るようである。
  フィギュアスケートを見てDortmundから家に戻りテレビを見ていたら、トーレパンパシフィックオープンテニスで伊達公子が優勝したと報じていた。テレビを通じてたくさんのヨーロッパの人々が”トーレ”という名前を聞いたことと思う。東レのグローバリゼイション戦略の中で、このパンパシフィックテニス大会がどう位置づけられているのかたいへん興味のあるところである。