1991年1月30日水曜日

ドイツの生活

ライン河川敷に放牧される羊
  ドイツへ来て早や1ヶ月。初めての海外経験のため慣れないことが多い毎日。少々無駄になっても何でもトライし、まずは経験しようとの気持ちで何とか生活がスタートした。
  ここデュッセルドルフは天候的にはちょうど北陸に似ており、毎日がドンヨリした感じ。気温は0℃ぐらいが多いが、一時-10℃まで下がった。デュッセルドルフ近くのお城の池は完全に氷で、子供たちはスケートやアイスホッケーに興じている。ちょうどこの時シュツッツガルトへ出張したが、シュッツガルトでは-15℃、外で数分も歩けば耳が痛くなった。
  住む家はドイツ風2階建ての2階で、150㎡くらいの広さ。1つの部屋が東京の自宅全部のような感じ。まだ家具もなく、マットひとつの所で寝泊りしている。家族は4月に来るのでそれまでに家具を揃える必要がある。とにかくドイツ語しか話せない店員が多い中で、片言でも英語の話せる人を探して注文するといった具合。ドイツでは家具は注文生産が多く、納期も早くて2~3ヶ月、遅くなると半年になるそうである。何とか必要な家具の注文は済んだが、納入が何時になるやら。ヘ゛ットだけは絶対に4月には必要なのだけれど!とにかく悲観的になるとやりきれないので、楽観的に何とかなるだろうと自分に言い聞かせる。生活が軌道に乗るにはまだ1年ぐらいは掛かりそうである。
 家の場所はライン川のすぐそば。休日には多くの人々が散歩に来る。ライン川沿いには並木道、牧場、畑などがあり、自然が豊かである。家の場所は市街だけれど、ちょっと離れるとこのような田園風景が見られる。これがドイツの雰囲気というものなのだろう。近くに室内プールもあることがわかり、休日には泳いだり、ジョギングしたり、ストレス解消に励んでいる。

1990年12月22日土曜日

生きるということ

  仏教の世界で「十界」というものがある。その中の、「畜生」、「人間」、「如来」について、次のような表現がなされている。

畜生  互いに他を餌食として成長し、自分のことしか見えない状態。
人間  堕落することもできるし悟ることもできる。そういう間的存在。地獄と仏の間、人と人の間、生と死の間。
如来  自らも悟り、又他をも悟らせつつあるもの。 ⇒ 自他平等の状態。

 人はなぜ生まれ、なぜ生きているのか。ヨーロッパの生活体験を通じたキリスト教的理解よりも、むしろアジアの思想であるこの仏教の世界観で回答が得られるように思う。

「人の生き方」 (畜生的生き方)
なぜ生きるの、なぜ働くの ⇒ 人々の幸せに役立つ (手段を選ばず利益名誉を追求する)
その結果として利益名誉を得る
どう活動する ⇒ 創造的に、やってみる (模倣、何もしない)
精神的には ⇒ 心豊かに、楽しく (物質的に豊かでも心貧しい、脅し・恐怖)
肉体的には ⇒ 健康的に (不健康)

 人の歴史は他の動物とは違って、「畜生的生き方」に示したような人生観から生ずる負の歴史からの克服の歴史と言える。世の中の変化はまさしく負の歴史をいかに克服していくかという観点で正当化されると思う。また、「畜生的生き方」は、善を装うために詭弁を多用する。

 詭弁とは、「兎が進む間に前を歩いている亀は少なくともわずか先に進み、さらに兎が進む間に亀はまたわずかでも進むので兎は永遠に追い抜くことが出来ない。」という例で代表されるように、論理的には正しく見えるが実際にはありえない論理をいう。速度という別の概念を認識していないことからこのような詭弁が生ずる。

  自然科学の分野では論理・議論で決着をつけず実証主義によって決着をつけるので詭弁は退けられ理論が確立する。しかし、自然科学以外の分野では実証主義の実践が不可能で、論理による議論しか出来ない。このため詭弁が堂々と通る。どんな考え方にもまずは肯定的に議論する、いわゆる「聴く耳を持つ」という土壌があれば詭弁はかなり避けられると考える。

 それとともに実証主義実践不可能な分野で詭弁を避けるための唯一の基準は「人を殺さない、自然を壊さない、人のためになる」主義ではないかと思う。これからも「人はなぜ生きるの」を自問自答しながら、世の中の動きを「人を殺さない、自然を壊さない、人のためになる」主義で理解し、行動していこうと考えている。