この数年前から、修理した歯のクラウンが外れ時には歯医者へ行って、外れたクラウンをそのままはめ込んでもらうように頼んでその場しのぎをしてきた。まもなく帰国するのだからそれまで我慢しようと決めていた。それに治療をしなかった最も大きな理由は、日本の歯医者ならわずかでも歯根が残っておればそこへ支柱を立ててでも正規の歯と同じように機能できるクラウンを作って修理してくれるが、ドイツの歯医者へ行けばすぐに抜いてしまうとの話、またその際の麻酔でのトラブルで入院したなどいろんな話を聞いていためである。
しかし、この3月、友達の送別会の時にはなにも食べられなくなり、とうとう歯医者に行かざるを得なくなった。猫が年をとって歯がなくなり食べられなくなると静かにいなくなってそのまま死の床につくとの話を聞いたことがあるが、食べられないというのがこれほど辛いことかと初めて体験した。
歯医者に行くと、案の定もう抜くしか手はありませんとの診断。しかも歯槽膿漏、歯周病というのか歯茎が腐っているため6本抜く必要があるという。聞いたとたんびっくりした。クラウンが外れ歯茎の痛む1本は抜かざるを得ないと覚悟していたが、クラウウンだけが外れた2本は修理可能と思っていた。ましてや現在正常と思われる歯まで抜くという。
歯槽膿漏の治療としては歯根近くの腐った部分を歯茎の横から手術し取り出す方法があるというが、私の場合奥歯の歯茎のほとんどにわたってこのような手術が必要で、たとえ歯茎が治療されても歯自体が弱いので結局は抜くことになるとの説明。やむなく初日は痛む1本のみ抜くことで同意した。歯医者は一度に右上の2本、左上2本を抜くと言ったが、なんとか断った。
結局心配した麻酔のトラブルもなく簡単に抜かれた。しかし、一部歯茎の切除のため、歯茎には大きな傷が出来た。帰りくれたのは痛み止めの処方箋のみ。薬局へ行きその薬を買い求めたが、抗生物質はくれなかった。ドイツではなかなか抗生物質をくれないというがその通りであった。それでも化膿することはなく、人体は自然治癒の力を持っていると実感した。
その後も何回ともなく通っていると、まもなく正常と思われていた奥歯も痛みだし、結局当初歯医者が言った通り6本抜いて、右下以外の本来の奥歯はすべてなくなってしまった。しかし幸いなことに前歯はすべて健康でしかもそれに加えてヴァイスハイツツァーン(親知らず)が健康であった。このため、前歯と親不知でブリッジが出来き、入れ歯は免れることになった。
いつだったか忘れてしまったが、親知らずが生えだしたとき歯医者に相談したら、親知らずはむしろ抜いた方が良いとの説明。正常な歯になりにくく、奥にあるため歯磨きが難しく虫歯になりやすいとのこと。しかし、せっかく生えてきた正常な歯を抜くことへの抵抗とまた役に立つこともあるのではと思い、痛さを我慢した。いつの間にか痛さも消え、そのままほっておいたが、結局きちっとした奥歯に成長していたようだ。
ブリッジは歯科技工のマイスターが作り、装着の時にはそのマイスターが立ち会った。若干かみ合わせが高いとの指摘に対して再度持ち帰り手直しをするという丁寧さであった。ドイツのマイスター制度の一端を見た。親知らずと前歯との間に長いブリッジがはめられ、正常にものが食べられるようになった。この時ほど食べられるということがうれしく感じたことはない。すでにそのとき季節は8月になっていた。
とにかく、歯医者の助言に従わなくて良かったと今思う。確かに将来何もなければ親知らずは無用の存在であり、合理的に判断すれば歯医者の言うとおりである。しかし、将来についてはいろんな見方が出来るのであって、なにを重きにおくかでそれぞれの人の行動が異なってくる。今の判断では無用でも、確率は少ないと思われていた事態の出現によって大変有用になる、大げさに言えば命さえ救うかもしれないということもある。たかが親知らずであるが、親知らずに感謝である。
だけど、親知らずをすべて抜いてしまっていても、それはそれで入れ歯をすることで済んでしまい、親知らずを抜いたことに対する後悔の念を抱くこともなく過ぎ去るのだろう。親知らずが残っていたからこそ、そのありがたみを感じたのではないかと思う。
お節介は避けたいが、もし若い人から親知らずはどうしたらよいかと尋ねられたら、我慢できるのならそのままにしておいたらと助言したい。今回私が経験した効用以上のものが発見される可能性もあるから。
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