1995年11月30日木曜日

Weisheitszahn(親知らず)

  この数年前から、修理した歯のクラウンが外れ時には歯医者へ行って、外れたクラウンをそのままはめ込んでもらうように頼んでその場しのぎをしてきた。まもなく帰国するのだからそれまで我慢しようと決めていた。それに治療をしなかった最も大きな理由は、日本の歯医者ならわずかでも歯根が残っておればそこへ支柱を立ててでも正規の歯と同じように機能できるクラウンを作って修理してくれるが、ドイツの歯医者へ行けばすぐに抜いてしまうとの話、またその際の麻酔でのトラブルで入院したなどいろんな話を聞いていためである。
  しかし、この3月、友達の送別会の時にはなにも食べられなくなり、とうとう歯医者に行かざるを得なくなった。猫が年をとって歯がなくなり食べられなくなると静かにいなくなってそのまま死の床につくとの話を聞いたことがあるが、食べられないというのがこれほど辛いことかと初めて体験した。
  歯医者に行くと、案の定もう抜くしか手はありませんとの診断。しかも歯槽膿漏、歯周病というのか歯茎が腐っているため6本抜く必要があるという。聞いたとたんびっくりした。クラウンが外れ歯茎の痛む1本は抜かざるを得ないと覚悟していたが、クラウウンだけが外れた2本は修理可能と思っていた。ましてや現在正常と思われる歯まで抜くという。
  歯槽膿漏の治療としては歯根近くの腐った部分を歯茎の横から手術し取り出す方法があるというが、私の場合奥歯の歯茎のほとんどにわたってこのような手術が必要で、たとえ歯茎が治療されても歯自体が弱いので結局は抜くことになるとの説明。やむなく初日は痛む1本のみ抜くことで同意した。歯医者は一度に右上の2本、左上2本を抜くと言ったが、なんとか断った。
  結局心配した麻酔のトラブルもなく簡単に抜かれた。しかし、一部歯茎の切除のため、歯茎には大きな傷が出来た。帰りくれたのは痛み止めの処方箋のみ。薬局へ行きその薬を買い求めたが、抗生物質はくれなかった。ドイツではなかなか抗生物質をくれないというがその通りであった。それでも化膿することはなく、人体は自然治癒の力を持っていると実感した。
  その後も何回ともなく通っていると、まもなく正常と思われていた奥歯も痛みだし、結局当初歯医者が言った通り6本抜いて、右下以外の本来の奥歯はすべてなくなってしまった。しかし幸いなことに前歯はすべて健康でしかもそれに加えてヴァイスハイツツァーン(親知らず)が健康であった。このため、前歯と親不知でブリッジが出来き、入れ歯は免れることになった。
  いつだったか忘れてしまったが、親知らずが生えだしたとき歯医者に相談したら、親知らずはむしろ抜いた方が良いとの説明。正常な歯になりにくく、奥にあるため歯磨きが難しく虫歯になりやすいとのこと。しかし、せっかく生えてきた正常な歯を抜くことへの抵抗とまた役に立つこともあるのではと思い、痛さを我慢した。いつの間にか痛さも消え、そのままほっておいたが、結局きちっとした奥歯に成長していたようだ。
  ブリッジは歯科技工のマイスターが作り、装着の時にはそのマイスターが立ち会った。若干かみ合わせが高いとの指摘に対して再度持ち帰り手直しをするという丁寧さであった。ドイツのマイスター制度の一端を見た。親知らずと前歯との間に長いブリッジがはめられ、正常にものが食べられるようになった。この時ほど食べられるということがうれしく感じたことはない。すでにそのとき季節は8月になっていた。
  とにかく、歯医者の助言に従わなくて良かったと今思う。確かに将来何もなければ親知らずは無用の存在であり、合理的に判断すれば歯医者の言うとおりである。しかし、将来についてはいろんな見方が出来るのであって、なにを重きにおくかでそれぞれの人の行動が異なってくる。今の判断では無用でも、確率は少ないと思われていた事態の出現によって大変有用になる、大げさに言えば命さえ救うかもしれないということもある。たかが親知らずであるが、親知らずに感謝である。
  だけど、親知らずをすべて抜いてしまっていても、それはそれで入れ歯をすることで済んでしまい、親知らずを抜いたことに対する後悔の念を抱くこともなく過ぎ去るのだろう。親知らずが残っていたからこそ、そのありがたみを感じたのではないかと思う。
  お節介は避けたいが、もし若い人から親知らずはどうしたらよいかと尋ねられたら、我慢できるのならそのままにしておいたらと助言したい。今回私が経験した効用以上のものが発見される可能性もあるから。

1995年10月30日月曜日

ヴェッツラール

  昨年の12月21日、妻がある機会に知り合いになったドイツラインオペラのコロラチューラソプラノ歌手の番場ちひろさんから、ご自分が出演するオペラの招待券をいただきそのオペラを観ることがあった。この時の出し物はMassenet作曲"Werther"。有名なGoetheの若き時代の自分自身の体験に基づいた小説"Die Leiden der jungen Werthers(若きヴェルテルの悩み)"のオペラ版である。番場ちひろさんは1993年にDortmundで開催された広島被爆者援助チャリティコンサート"HIROSHIMA' 93"のソリストの一人として出演、その演奏会録画が日本のテレビでも放映され見られた方も多いと思う。

 この10月、社長、専務、常務など日本から多数の来欧者があった。専務一行の会社訪問が早く終わり、Frankfurt20:00発の飛行機まで時間があったことから、私の車で近くのどこかへ案内することになった。以前Dueseldorfに駐在経験のある常務の提案からWetzlarへ行こうということになった。初めて聞く町の名前のため地図を調べた。場所はFrankfurtから北へ約40kmにある、小さな町であった。
  町の中心部近くにはその昔世界に名を知られたカメラLeicaの本社があった。それよりもこの町は1771年頃のまさしく"若きヴェルテルの悩み"の舞台で有名であるということを知った。若きGoetheが何度となく訪れた恋人Charlotteの家があった。その家は石畳の町の中心、昔のドイツ騎士団建物の一角にそのまま残され、今は博物館としてピアノ、手紙などその当時の様子をそのまま保存していた。
  ドイツ騎士団領地の法官を父にもつ娘Charlotteは母親が亡くなるとき婚約者を決められる。次女にもかからわず家事、10人の弟妹の世話をする明るくてやさしくしっかりした女性であった。まもなく法律官吏としてWetzlarに赴任してきたWertherと出合う。Wertherはたちまち彼女のとりこになるが、彼女は婚約者と結婚してしまう。その後も手紙などで連絡を取るが、ある日出会った時、彼が絶望的な愛の告白をする。この時歌うアリアがこのオペラで最も有名な"Warum weckst du mich auf, du Fruehlingshauch(なにゆえにわれを目ざますや、春の精よ)"である。しかし、彼女は町を出て欲しいと嘆願し結局Wertherは去る。自殺の心配をした彼女は彼を追うが、彼の家に入った時にはすでにピストルで致命傷を負っていた。この時初めてCharlotteは彼に愛を告白するがまもなく息絶える。Goetheは実際には自殺はしていないが、Goetheの友達の自殺事件をからめてこの話は出来ている。
  現存する道徳、論理的合理主義に対立し、あくまで自分の感情を第一に行動する若きGoetheの生き方がありありと感じられるお話である。人生にとって論理的合理主義一点張りでよいのか。この主義が行きすぎると、人間の最も人間らしい感情というものが無視されることがおうおうにして起こる。また、すくなくとも若い世代は論理的合理主義よりも気持ちの高ぶりを大いに優先させる生き方が必要と思うし、それが若者の特権のように思う。現在我々の回りの若い世代を見ているとむしろ若くして老成してしまっている人が多いと感じるのは私だけなのか。若きGoetheは人間の感情こそすべての創造の源であると云いたかったのではと思う。

 このオペラのクライマックスは何といっても有名なアリア "Warum weckst du ・・・!(なにゆえに・・・)”である。気持ちの高まりを作曲者 Massnet は見事に表現し、聴くものに感情移入させる。今までもCDで Pavarotti や Domingo の歌で何回も聴いているが、生で聴くのは初めてであった。

 歌手はドイツ人テノール Fink。声の音色・ハリの点でラテン系の人々と比べて不利なように感じた。ドイツ人はむしろバリトンで素晴らしい力を発揮するように思う。そうはいっても、肉声で聴く歌声はやはり素晴らしくすっかり堪能したことを覚えている。

 このオペラで番場ちひろさんは Charlotte の妹 Sophie 役で、Werther との間を取り持つ役目の場面に何回も出てきて、コロラチューラソプラノ独特の華麗な歌声を聴かせてくれた。

1995年9月30日土曜日

オクトーバーフェスト

 オクトーバーフェスト(ビアホールテントの中)
1リットルジョッキーと白いソーセージ
  ドイツの秋祭といえばMuenchenのOktober-Fest。世界的にあまりにも有名なビール祭であるが、規模の差こそあれ、これと同じ様な祭はドイツのいたるところで催されている。祭の名前はいろいろ、Schuezen-Fest(射撃競技会、流鏑馬に似ている)、Kirmes(もともとはKirchmesse、教会縁日の催し物)、Hanse-Fest(ハンザ同盟市民の祭)、Pfarr-Fest(教会の祭)・・・などなど。Dueseldorfの有名なGrosse Kirmes、町内の至るところで見られるSchuezen-FestもOktober-Festに比べて規模も小さく目的も異なっていているが、その様相は全く同じである。その特徴は移動娯楽施設とビアーホール。我が家の町内会Alt-niederkasselのSchuezen-Festにも小さな観覧車、電気自動車などの遊び道具がやってくる。その一角には必ずテントばりの大きなビアーホールが出来る。その中では飲めや歌えやの大騒ぎ。もちろんビールで乾杯。このような祭の一番大がかりなものがこのOktober-Festということになる。
  Oktober-Festと云うからには10月のお祭と思われるけれど実際はほとんど9月に行われる。今年も9月16日(土)に始まり、16日間開催される。かろうじて最終日が10月1日にかかりOktober-Festの名前を残させている。
  夜遅くなって、Muenchen市内の森、Englisher Gartenにあるホテルに戻ってみると、その周辺は静寂の世界。近くを流れる小川の音だけが聞こえる。翌朝その森の中を散歩すると市内とは思えないほどの静かさのなかに森が広がっている。池には水鳥が遊び、散歩しているすぐそばの木々にひょっこり栗鼠が現れすぐに木の上に登っていく。夫婦で散歩する人、犬と散歩する人、自転車で子供と遊んでいる人。ここは大都会の中心ではないのではと勘違いする。Oktober-Festはどこで開催されているの分からなくなる。
  そしてDueseldorfへの帰り、Muenchenの隣町Dachauに立ち寄った。ナチス時代無数にあった強制収容所跡の一つが残されている。お祭の歓楽を責めるように暗いドイツの一面を見せつけられる。動と静、明と暗。動と静のコントラストは素晴らしく、とくにドイツ風、静の雰囲気は気に入るところである。しかし、明と暗のコントラストの中で、暗の部分は非常に残念に思う。ドイツを考えるときどうしてもこの暗の部分を常に認識させられる。しかし、この認識が前提にあるからこそ、気がね無くお祭も大いに楽しめるのではないかと感じられた。
  Oktober-Festに続いて、一週間遅れでStuttgartでもお祭が始まった。ドイツ以外ではあまり知られていないが、その地区の名前をとってCannstatter-Festという。ドイツではOktober-Festについで二番目に大きいお祭と云われている。これも歴史は古く1818年以来開催されており、やはり主人公はビールである。こちらの方は10月8日まで開催される。現在ではむしろ時期的に、このお祭の方がOktober-Festと呼ぶにふさわしいような気がする。

1995年8月30日水曜日

Hundstage(盛夏)

 ネス湖
 野生のアザミ(スコットランド・グレンコー近く)
ストーンヘンジ
  この夏ヨーロッパも昨年同様暑い晴天の日が続いた。8月のドイツの新聞Rheinische Postに、もうくたびれたというなさけなさそうな犬の顔面アップ写真がのった。その説明に、「Wenn moechlich, cool bleiben:Die Hundstage dauern noch bis 23, August.」(出来れば涼しくなって:暑い日はまだ8月23日まで続く。)と書かれていた。この暑い盛り、フェリーでドーバー海峡を渡り、イギリスはブリテン島を車で一周した。
  ブリテン島は大きく分けると南のイングランドと北のスコットランドからなる。その境に近いところNewcastleからCarlisleの海岸にいたる東西約120kmの地帯に、ローマ帝国皇帝Haidorianは万里の長城と同じような長い防壁を建設した。ここから北へ向かうとイングランドののどかな丘陵地帯の風景から一変し、ヒースの潅木しか見られない山々の風景になっていく。この北はスコットランド、風景とともに民族も文化もイングランドとは異なる。
  その昔、シーザーがイングランドに侵攻、この地点まではたどり着いたが、その後さらなる北上は出来なかった。むしろスコットランド人の攻撃から守ることの必要性からこの大きな防壁が作られたという。まわりは延々とした丘陵が続き、その丘陵の尾根のところどころに、高さ5m、巾約3mの石で積まれた防壁が残っている。その近くの丘陵地には羊が群れをなして草を食べている。
  この防壁には数kmごとに監視用砦があり、それに多くの要塞があったという。その一つであるChester Fortに立ち寄った。昔、ここにはローマ時代の建物があった。ローマ風呂などの遺跡が残っており当時の様子がうかがえた。当時イングランドはローマ化されたが、スコットランドはもちこたえた。ローマ人との戦いはその後も続いたと思われるが、その戦いについての足跡には出会うことは出来なかった。
  ローマ人はローマ文化を持ち込みイングランドはその影響を受けたが、スコットランドはその影響を受けず、独特の文化を守ったのではないかと思う。スコットランドの独立心はこの時からはぐくまれ、イングランドへの併合の際の抵抗も、民族の違いのほかにこのローマ時代からの伝統があったからかも知れない。
  さらに北上し、スコットランドの首都Edinburgh、ネス湖の町Innverness、イギリスの最高峰Ben Nevisをドライブすると、風景はちょうど雪のないスイスの山々のよう。イングランドの自然とは全く異なり、別の国であるとの印象を受けた。
 スコッチウイスキー、タータンチェック、バグパイプ、これらはすべてこの自然があってはじめて育ったに違いない。それに、ローマ帝国の影響を受けず独自の文化を育てたとも思われる。いまイギリスといえばイングランドを指すことが多いが、文化に関してはこのスコットランドが巾を利かす。しかし、他の国の人々がイングランドの文化と認識してしまう所にスコットランドの人々の腹立たちさがあるように感じる。バーバリーチェックも本来はスコットランドの製品と云いたいのだろう。
  スコットランドの工業都市Glasgowでは、古い煉瓦の建物が壊され新しい建物が建ちつつあり、造船工業などの衰退からようやく立ち直りつつあるように思われた。新しい産業は重化学工業ではなくコンピューターを中心とした産業それにサービス業のようである。イギリスの凋落を挽回する旗手となったサッチャー前首相のスローガン、「自分の働きで身を支えていくことのできる人間は1ペンスといえども国家の福祉を期待すべきではない」は、この近くの炭鉱ストライキに対する彼女の強硬な政策の背景にあった。現在のGlasgowを見るとその効果が出て来つつあるようである。
  しかし、イギリスの一人当たりのGDPはドイツの55%、依然としてその差は大きい。ドイツとの比較でまだ大きな問題があるように思う。人間生まれてすべての人が同じ条件でスタート出来ればサッチャー前首相のスローガンも理性にかなったものとなる。現実はそうではない。生まれながらにして大きな差がある現実のもとでは人々のやる気はなくなる。外国企業の誘致もいいけれど、イギリスのさらなる活性化には、サッチャー前首相のスローガン通りやろうとしている庶民がやる気を起こさせるような社会作りにあるように思う。ドイツとの対比でイギリスの内在する問題点を感じざるを得ない。

1995年7月30日日曜日

ジベルニー

  30才代はタイヤコードの仕事に没頭していた。その最大の客先はブリヂストン。この日本のタイヤ業界でのガリバー会社が、文化面での活動にも力を入れているのは有名である。その一つが東京にあるブリヂストン美術館。世界的に有名な絵画を集め展示している。しかし、庶民が有名な絵画を買い家庭で楽しむことは不可能である。それで考案されたのは再生画の技術。この技術は原画と同じような油絵の凹凸があるというものである。ブリヂストンが豪華な額の技術と共に開発し販売をしていた。現在はこの技術を小さな別会社が引き受け製造販売している。

  当時、新築祝い、餞別などの贈り物として重宝させてもらっていたが、10年程前プライベートにも2つ買い求めた。一つはルノワールの「コンサートにて」、そしてもう一つはモネの「睡蓮」である。日本の家には大きすぎる額の大きさであったが、ドイツにきて大きな白い壁にかけるとちょうどバランスがとれ、部屋の雰囲気作りに一役かっている。もちろん毎日見ていても飽きることはない。

  この土日の休み、車でパリへ買い物に行ったついでにGivernyという小さな村を訪れた。この村はパリより北西約70km、セーヌ川をルーエンに向かったちょうど中程にある。セーヌ川を渡って田舎道を走るとこの小さな村に入り、まもなく道の両側が塀で囲まれた所に達する。この塀の両側がモネが晩年過ごした自宅であり、庭園である。

  道をはさんで北側にアトリエ兼住居跡があり、今はモネ博物館になっている。その建物の前は花盛りの庭園である。いろんな花が鮮やかに咲いている。道をはさんだ南側に池があり、この池には睡蓮、柳、日本風太鼓橋、小舟などが見られる。まさしくモネの絵画の題材が目の前に広がる。しかし、池そのものはそれほど大きなものではなく数分も歩けば一周できる。案外小さいのには驚いた。また色も絵は青色系統が主体であるが実際には緑が主体であった。構図とこの色の選択により絵の世界では大きな広がりを感じさせるのだろう。

  そしてモネが住んでいたという博物館に入ると浮世絵がいっぱい。浮世絵美術館と勘違いさせられる。葛飾北斉、安藤広重などがヅラリ。モネは浮世絵を見て、その構図と色の素晴らしさに感嘆し、睡蓮の絵のヒントにしたというのは間違いないと思われた。実際の絵としては浮世絵と印象派の絵では大きな違いがあるが、世界的に知られていなかった浮世絵の素晴らしい所に感動し取り入れる度量はやはり西欧の特徴ではないかと思う。浮世絵が西欧の絵画に大きな影響を与えたことはよく知られているが、日本画が西欧で絶賛されたという話はあまり聞かない。当時浮世絵は庶民の文化、それに対し日本画は文化人といわれた人々のための文化、この辺に芸術の真の醍醐味があるように思う。

  さて、池に浮かぶ実際の睡蓮を見て、背景の緑に映えるその色の美しさにしばし時の流れが止まるように吸い込まれて行く。しかし、絵画を見る方がより永遠の広がりがあるように感じた。現実の風景は限られた空間にすぎないがモネの力により絵には無限の空間を感じさせられる。今回実際の風景を見て、はっきりと認識された。実際の風景を見るよりも絵を見る方が想像の世界が広がる。有名なオランジュリ美術館の睡蓮の大作を思い浮かべると、この思いはさらに強くなる。この雰囲気は本物のモネの絵画でなくても自宅の再生画でも味わえることが今回確認できた。本物の方が迫力あるのはもちろんであるが。

  音楽の世界と同じように自分の聞きたい見たい時にいつでも見聞きできることが芸術を楽しむ基本と思っている。この意味で、この再生画は私にとってはありがたい存在である。どんなところに引っ越しても、これからもいつも見られるよう私の手元に飾っておきたいと思う。それから、もう一つの再生画、ルノワールの「コンサートにて」の本物(アメリカにあるという)にもぜひ出会って、再生画との比較をしてみたいと思っている。

1995年6月30日金曜日

バルトブルグ城

  DresdenからAuto-Bahn4号線を一路Kasselに向かってドライブすると、Weimarを過ぎてまもなく旧東西ドイツ国境に近づき、前方左小高い山の上にお城が見えてくる。Wartburg城という。このあたりはThuringenの森の北端、Eisenachという町である。この町はバッハが生まれた町として有名で、またこのお城はその昔宗教界のお尋ねものであったマルチン・ルターがかくまわれ、聖書のドイツ語訳を完成させたところとしても有名である。
  この4年間いろいろなプロジェクトが目白押しで出張続きが多かった。しかし、今年に入ってそれらプロジェクトも一部一段落し、出張が少なくなり、そのおかげで前もってプライベートの予定を入れることが可能になった。その一つがオペラ鑑賞である。今回初めて、一か月前から予約を取ってオペラを楽しむことが出来た。曲は「タンホイザー」。このような有名な曲の場合、ある日急に時間がとれて見に行ってもいつも売り切れである。一ケ月前の発売日に即刻売り切れてしまうので今まで見ることが出来なかった。
  舞台はこのWartburg城。話はこのお城に伝わる宮廷歌手の歌合戦伝説とその昔その宮廷歌手の一人タンホイザーの禁断の恋と純愛との葛藤物語。話の内容はありふれたどこにでもある話ではあるが、音楽の力で見事昇華され、人々を圧倒させる。
  ワーグナーは歌劇に新しい試みをしている。一つは、ドイツの昔からある伝説に基づいたドイツ独自の歌劇の創出。それから本来伴奏に過ぎないオーケストラを全面に出しオーケストラが劇の流れを導き、流れを止める独立したアリアを避け、途切れなく歌い語りの旋律が続く点。彼の後半の作品は歌劇とは云わずに楽劇と云われている理由はここにある。オーケストラが全面に出てくる場面が多く、もちろんそれに加えて合唱、重唱、独唱も入り、旋律は官能をゆさぶる。ヨーロッパでオペラが娯楽の一つとして繁栄を続けているのは、劇場で官能を揺さぶるような感動を与えてくれるからであろう。
  ものの本によると、ワーグナーは36才の時Sachsen王国の首都であったDresdenに住んでいた。この時、Dresdenの市民革命に出くわし、市民派につき市民派として活動している。結局市民派は破れ革命は失敗に終わった。その結果ワーグナーには逮捕状が出され、彼は一時スイスで亡命生活を送らざるを得なかった。しかし、49才の時に逮捕状は撤回され、その後バイエルン王ルードビッヒ2世の絶大なる援助を受け彼の音楽を成就させたという。
  若きワーグナーは市民革命に賛同し、晩年は国王の援助を受けた。ナチスがワーグナーの曲を好んで使用した理由は、曲にドイツというものを官能的に意識させる力がある点である。ヒットラーはそれを利用したと思える。もし、ワーグナーが生きていれば、自分の音楽がナチスの道具に使われたことに憤慨したのであろうか。興味あるところである。
  この半年比較的出張が少なかったが、一時停滞中であったプロジェクトの再開、新しいプロジェクトなど出てきており、これからまた忙しくなりそうである。残念ながら今回のようなオペラ鑑賞はもう出来そうになく、従来の突然時間が出来たときに聞きに行くというスタイルで楽しむことになりそうだ。

1995年5月30日火曜日

ベーリングさん

 ポーランド国境で待つ
 
 建設中の孤児院(イエデバブノ)
旧ナチス参謀本部を案内するベーリングさん
(ギルロッツ)
  ドイツとポーランドとの国境の町Frankfurt(Oder)に近づくと長いトラックの列に出くわす。およそ20kmの列であったように思う。国境手前数キロの所には税関用の巨大な駐車場があり、ここでさらにチェックのため無数のトラックが連なって待っている。聞くところによると国境を通り過ぎるのに寝泊まりが必要なこともあるという。
  乗用車も結構長い行列であったが、約2時間ぐらいで無事国境を通ることが出来た。この春からEU内はパスポートのチェックをしなくなったが、EU以外の行き来はむしろ従来よりチェックが厳しくなり、国境での待ち時間が大幅に増えているという。 
  車はトヨタワゴン車。後ろの荷台には日用品・学用品など、わずかの隙間もなく積めるだけ詰め込んでいるため、車は後ろに傾いた状態で走る。目的地はロシア国境に近いポーランド東北のMasuren地方。ポーランドでも特に貧しい地方と言われている。
  しかし、田舎道は完全整備とは云えないまでも舗装はされていた。数年前はまだ砂ぼこりであったという。道なりには、古い工場も見られたがほとんどは平原の続く農地、農村が続き、たまに大きな巣にこうのとりも見ることが出来た。森と湖の自然に恵まれた村に今回の目的場所Jedwabnno孤児院はあった。片道1300kmのドライブであった。
  Dueseldorf の下町にHumanet-Shopというお店がある。開店して4年になる。この店は日本企業駐在員の主婦達がボランティアで始めたリサイクルショップである。駐在員は定期的に交替することから引っ越しが頻繁にあり、その時いろいろな不要品が出る。それを集めて回り、この店で売り再利用をはかろうというもの。しかし、この活動の主目的はリサイクルにあるのではなくその収益金を東欧や第三世界の人々を援助する事にある。もちろん収益金のみならず、再利用できる日用品自体も援助品となる。もう一つ最も重要な特徴は、その援助品を他人に託すのではなく、自分達の手で援助の必要な人に直接手渡すところまですること。ボランティアで自主的に集まった主婦たちは、自分の出来る範囲で交替で店頭に立つなどして参加している。
  一番の問題は、援助物資をどう運ぶかということ。主婦のボランティア活動であるため困難なことが予想された。運搬の協力者を探したところ、運よくドイツ人のWellingさんが協力を申し出た。彼はすでに年金生活の身で現在66才、この店のスタート以来4年間運搬の仕事をボランティアで引き受けている。いつもは彼が一人で車を運転し、ポーランド、ロシア、ルーマニア、ドイツ国内(Friedensdorfという施設、アフリカなどの戦禍により傷ついた子供達を自らの手でドイツへ運び治療しているボランティア活動)などへ援助物資を運搬している。今回は私もボランティアで参加、Wellingさんと交替で車を運転することになった。
  今回訪問した孤児院は建物が劣悪のため、新しく立てる計画を持っているとのことでその建築資金の一部を手渡すことが目的。ポーランドでは金利が30~40%でこのような個人の善意でまかなっている孤児院ではお金を借りることが出来ないため困っていた。寄付を目的に訪問したが、貸してもらえるだけで充分とのこと。それも金利は8%でとの申し出。とりあえずはこれで了解し援助金と日用品などの援助物資を手渡した。
  下は5才から18才まで13人の子供たちが生活しているが、それぞれ事情があって孤児となっている。持参したおもちゃをすぐにあけて遊ぶ子供を見て、この子達が立派に成長することを願い、少しでも役に立てたらと思う。子供達からの「ジンクイエ(ありがとう)」の言葉に見送られて、帰路についた。
  帰り、ロシアとの国境30kmのところにあるGierlozをWellingさんが案内してくれた。ここはナチス時代、Hitlerの参謀本部のあったところ。ここでHitler暗殺未遂事件も起こっている。森の中におおきな防空豪のような、映画館、プール、生活に必要な設備がそろっていたという。地図を見ると、ロシアを含めた全ヨーロッパの中心がちょうどこの辺りであることに気づく。ロシアを含めた全ヨーロッパを征服することを考えて場所を選んだようである。今では爆破された無惨な残骸が残っているだけであった。
  見学しながら、Wellingさんの話を聞いた。「16才の時までHitlerに熱狂した。みんなが熱狂した。ナチスの本質も知らずに。でも、当時知ったとしても何もできなかったかも知れない。」この思いが、現在のWellingさんのボランティア活動の原点になっているように私には思われた。
  日本のゴールデンウィークの合間で、ちょうど仕事も少なかったこともあり、3日間の休暇がとれたのはラッキーであった。今までこのようなボランティア活動をしたいと思いながらなかなか出来なかった。一時帰国休暇もとれないまま本帰国になりそうであるが、日本での休暇より有意義で貴重な体験であったと思っている。