1995年3月30日木曜日

トゥルク

  フィンランド南西部のTurkuでは、昨年冬場-30℃、夏場+30℃を経験したと言う。なんと一年の気温の差60℃。冬場は池ではスケートができ、わかさぎ釣りも楽しめる。今年はそれほど寒くないとはいいながら、最も寒い日で-20℃であったと言う。3月も終わりに近いけれどまだ所々雪が残り、気温は-5℃ぐらい、今回仕事で訪れてこの冬久しぶりに寒さを感じた。この1月にはノールウエーのベルゲン研究所も訪問したが案外寒さは厳しくなかったのを思い浮かべると、海流の影響を受けるところとそうではないところとの差ではないかと感じた。
  フィンランドは地理的にスウェーデンとロシアに挟まれ、むしろエストニア、ラトビアなど旧ソ連の国の方が近くに感じられる。歴史的にもスウェーデン、ロシアの支配下におかれ、ロシア革命後に最終的にソ連から独立した。よく知られた話として、この独立運動の際、フィンランドの人々を勇気づけるために作曲されたのがシベリウスの交響詩フィンランディアである。
  しかし、その後一部領土がソ連にとられたことから、ナチスドイツのソ連への侵攻に乗じて領土の回復をねらった。しかし失敗し、このため戦後ソ連に対する多額の補償を余儀なくされた。戦後、林業が主であった産業を工業中心の産業に転換をはかることに成功しこの苦境を乗り越えた。結果、北欧の福祉国家の一つとして豊かな生活の国となった。など今回はじめて知るところとなった。
  しかし、森林以外天然資源はなく、結局はソ連との貿易が大きなウエイトを占めざるを得なく、極端にいえばソ連とのつながりの中で繁栄をしてきた。政治的にも社会民主党を中心とした左派連立政権が続いていた。ソ連の崩壊と同時に初めて保守連立政権に移行したが、旧ソ連との貿易がとまり、その影響で不況のどん底の状況となり、失業率は年々増加、現在18%に達していると言う。このためか、この3月の総選挙では保守連立政権は勢力を落とし、再び社会民主党がトップとなり、社会民主党指導による連立政権に向けて動いている。
  EUの仲間入りをはたしたにもかからわず経済状況は厳しく、今後の課題は、工業の立て直しである。そのためには天然資源の確保、西欧との貿易の拡大が重要で、エネルギー源としては原子力発電の検討もなされているという。それぞれの国にはそれぞれの地理的、歴史的背景があり、他の国の方法が必ずしも適切とは限らず、フィンランドもこらから独自の方策を模索していくものと思う。
  フィンランドには、首都Helsinki、Tampere、Turkuの3大都市がトライアングルの地理的関係で位置しており、それぞれに工業が発達している。それを支えるようにそれぞれの都市に大学が存在している。今回Turkuの企業とTampere工科大学を訪問したが、共同で研究開発を進めているという。このような大学と企業が共同して新しい領域を開発する姿勢はすでに確立されており、戦後の急速な工業化を支えたのはこの連携作業ではないかと容易に察することが出来た。これからも、この体制の強化と、厳しい自然環境の中でも耐え抜く忍耐力で難局を切り開いて行くのではないかと思う。
  帰りの飛行機の上から見ると湖はほとんど氷でおおわれ春はまだ遠いとの印象を受けたが、同時に経済の春ももうしばらくは来ないのかも知れない。

1995年2月27日月曜日

グラナダ・ダカールラリー

 フィギュアスケート欧州選手権
(優勝したボナリの演技)
グラナダ・ダカールラリーのスタート

  この2月5日の日曜日、Dueseldorfから東北60kmの所にある、DortmundのWestfalenhallenで開催されたヨーロッパフィギュアスケート選手権を見に行った。フィギュアスケートの競技を見るのは初めての機会であった。なんといってもハイライトは女子のソロ。優勝は有名なフランスの黒人選手Bonalyであった。ヨーロッパ選手権であるのでスポンサーには日本の企業は入っていないであろうと思っていたが、なんとスポンサー8社の中に、富士フィルムとシチズンが含まれていた。写真を撮るたびにリンクのボードに描かれた会社のロゴマークが入る。グローバルなビジネス活動には世界的な宣伝活動も重要なようである。
  この冬休みポルトガル、南スペインをドライブした。大晦日はアルハンブラ宮殿で有名なグラナダに滞在した。ちょうど元旦の朝、グラナダの中心通りから、Granada-Dakarラリーのスタートがきられた。数分ごとに一台ずづスタートするのであるが、1mぐらいの高さの台に自動車ごとのり、そのチームの紹介をする。スペイン語と英語であるが、目立ったのは ”ミツビシ”と ”シトロエン”のアナウスであった。三菱の自動車が紹介されるたびに大きな歓声があがり、このラリーでの知名度は世界的なものであることを知った。結果は、1位シトロエン、2位、3位、4位を三菱が占めた。
  周知のごとく、三菱は早くからこのラリー(昨年まではParis-Dakarラリーであった。)に参加、この数年の自動車不況にもかからわず三菱だけが好調なのは、RV車の代名詞までなったパジェロのおかげと云われる。今やシェアーをじりじり増やし日産に迫っている。これは宣伝効果のみならず、このラリーから技術的な改良を繰り返し、それがパジェロに生かされたことも大きい。F-1に参戦したホンダと同じような考えと思う。
  その昔、RV車が売れるとはだれも予想していなかったと思う。このラリーが注目されるにつれてブームを起こした。技術的に見れば砂漠を走るニーズはなくRV車が売れるはずはないのであるが、結局は何か違う物・新しい物が欲しい消費者ニーズにあったようだ。むしろこのラリーが消費者に火を焚きつけたということである。
  もちろん、日産車もトヨタ車もスタートをきっていたが観衆の反応はほとんどなく、このラリーに関する限りは三菱が王様のような印象を受けた。ここまで来るにはこのラリーに莫大な経費と労力を費やしていると思う。その効果はすぐに計算出来るものではなく、長い年月をかけてようやく効果が見え出したもので、三菱の忍耐力には感嘆する。
  もしRVブームが来なければ、三菱のこのラリーにかけた経費と労力は無駄になると思われがちである。しかし、技術屋から見れば頑丈な車を作る技術の向上には大いに役立ち、RV以外の車にも応用出来るということで、無駄ではないと考える。この考え方がどこまで通用するかでこのたぐいの活動が企業内で認められるかどうかのポイントになるように思う。遊び心にお金を使うことも発展のためには必要な場合もある。もちろん表面的には失敗との結果になることもあるが、それは考えようで数値にあらわれないメリットが必ず残るもので、次の大きな飛躍に逆に利用出来ることが多い。少なくとも技術部門ではその蓄積が技術の財産となり、これがまさしく技術力となる。
  ドイツに来てスノータイヤを購入したとき、一番安いタイヤをつけて欲しいとタイヤショップに頼んだら、なんとMade in Japanのブリヂストンがついていた。Auto-Bahnを走るので、もちろんレーヨン使用タイヤである。レーヨンをわざわざAKZOから輸入し、タイヤを日本で作りヨーロッパに輸出している。コストは高くついている。しかし、ヨーロッパでの一般消費者の評判はピレリー以下であり、いかにブリヂストンのブランドがヨーロッパでは通用しないかを示すものである。
  日本での王者であり、しかもファイヤーストンを買収してその業界ではすでに世界的に知名度が上がっているが、一般消費者にはまだまだ浸透していない。商品の力とは、技術力とブランド力の両輪がうまくかみ合ってはじめて発揮出来るようである。
  フィギュアスケートを見てDortmundから家に戻りテレビを見ていたら、トーレパンパシフィックオープンテニスで伊達公子が優勝したと報じていた。テレビを通じてたくさんのヨーロッパの人々が”トーレ”という名前を聞いたことと思う。東レのグローバリゼイション戦略の中で、このパンパシフィックテニス大会がどう位置づけられているのかたいへん興味のあるところである。

1995年1月30日月曜日

Hochwasser(洪水)

1年前のライン川洪水
  神戸の大地震はヨーロッパでも約一週間にわたって各テレビ局のトップニュースとして報道され、そのすさまじさは戦争の空襲後の様相と重なるものとの印象を与えた。燃え続ける神戸市内、崩壊した家屋、傾いたビル、倒れた阪神高速道路、阪急伊丹駅の電車の惨状、下敷きになった人を捜索する住民などなど。
  この惨状のなかで少なくとも18日のニュースまでは救助隊の活動、消火作業の画面は見られず、ようやく19日になって、水がチョロチョロの中での消防隊の活動、わずかな自衛隊の動きなどが映し出された。その後日本の新聞を見て出動が遅れたり、他府県からの救援も遅れたことを知り、即刻充分な救助活動がなされておれば、犠牲者をもっと少なく出来たのではないかと考えないわけにはいかなかった。
  神戸地区に震度7クラスの地震が発生するとの想定をしていなかったと云われている。想定を越える災害発生のため、全国から救援を求める敏速な手続きが出来ず、その決定が遅れてしまった。また、道路渋滞のため救援隊が現地に到達出来ない、消防活動の訓練も現実にはあわず、震度7での予知管理訓練が欠けていた。神戸地区の地震は震度5までと決めつけていたことが大きな原因と云われている。
  確かに過去の実績からすれば充分との判断であるが、自然はそう簡単ではない。自然科学の世界は現象を単純化、平均化して、現象を理解するのに成功しているが、実際はもっと複雑で変化に富む。バラツキを考慮した理解方法はスタートしてまだそれほど年月は経っていない。工学設計の世界ではそのバラツキの部分を安全率との概念で逃げている。神戸地区も震度7を想定した防災対策が事前に実施されておれば災害はもっと小さく押さえられたのではないか。
  新聞に出ていた話に、ある地震学者が神戸地区でも震度7は有り得ると主張していたとのこと。結局は少数意見で発生の確率は小さいとの判断で、震度5という想定になったのではないかと思う。最も研究されなければならないのは、たとえ1%の確率でも起こり得る時、どう判断するかという点である。神戸での震度5と決定に至ったプロセスを徹底的分析して、誤った決定に至ったのはなぜか研究する事も重要ではないか。それをふまえて、関東地区で想定されている震度6は適切なのか再検討し、建物、道、救助体制、避難方法などの見直しをすべきと思う。
  しかし、現在の東京地区の混雑状況ではおそらく今回と同じ震度7になれば大きな災害は避けられないのではないかと心配する。結局は都市の分散化が課題となり、ドイツのような機能分散の国作りを進めることが究極の対策のような気がする。
  今、我が家のそばを流れるライン川は外側堤防下2mの所まで増水している。フランス、ベルギー、ドイツにかけて、この1月下旬から大雨の日が続き河川が増水、ドイツではワインで有名なモーゼル川、ライン川が氾濫し、コブレンツ、ケルンでは床上まで浸水している。また先日訪問したルクセンブルグにあるタイヤメーカー技術センターのそばの川も氾濫していた。我が家近くのライン川はいつもは内側堤防の範囲内で川幅約350mであるが、増水により川幅は1000mに達した。内側と外側の堤防の間にあるテニスクラブ、レストラン、屋外プール、畑はすべて水の中、家庭菜園用小屋は水に浮かんで流れている。

1994年12月30日金曜日

Weihnachten(クリスマス)

  「Die auf diesem Flug angebotenen Mahlzeiten enthalten kein Schweinefleisch.」(この飛行機で出される食事には豚肉は含まれていません。)ドイツからイスタンブールへ向かうルフトハンザ航空の機内食説明書のコメントである。

  今回はじめてトルコを訪問する機会があった。豚肉の好きなドイツ人も乗客には多いと思うが、イスラム教の人のためにルフトハンザは気を配っている。日本人のような雑食人種にとって、何故イスラム教では豚肉を食べてはいけないのか、こんなにおいしい物が食べられないのはかわいそうといいたくなる。特殊世界にだけ通用する戒律であり、その普遍性はないと感じる。

  宗教とは人の精神的支えになるものではあるけれど、逆に人の活動を規制する役目も持っているようだ。信じれば、自由の制限ではなく、それが自然のことと受けとめることになるのだろう。トルコはイスラム教の戒律から比較的自由な世界に見えたが、たまに、目以外は完全に黒装束の女性も見られ、初めて見るものにとっては異様な感じを受けた。もっといろんなおしゃれが楽しめるのにと思う。

  しかし、おせっかいというものなのだろう。人はそれで満足していれば他人はとやかく云うことはないというのも道理である。もし、助言を求めてきたときにはご意見を差し上げるのが良いと思いつつドイツへ戻った。

  先日、レンブラント派の絵画展がミュンスターで開催されているというので訪れた。デュッセルドルフから東北150kmの所にある古い町である。この町の中心にランベルティ教会がある。15世紀に完成したその聖堂には、90mの尖塔がそびえている。この塔の大時計の上の窓に鉄製の篭が三つぶら下がっているのが見られた。これは1534年~35年にこの町を支配した再洗礼派の首謀者3人が処刑され、見せしめのためにその死体を入れてぶら下げた鉄篭という。処刑は焼きゴテで突き刺す方法だったといい、キリスト教という宗教の世界での非人間性を示す例の一つであると感じた。

  再洗礼派は、乳児期に受けた洗礼は本当の洗礼ではなく、真のキリスト教者になるには、成人した後もう一度自覚的に洗礼を受けなければならないと主張する。宗教改革当時このミュンスターではルター主義にとどまらず、ラジカルな再洗礼派に支配された。この時、カトリックもルター派も弾圧する側となって攻め込み、まもなくこの一派を追放した。そして、その指導者3人が処刑されたという歴史である。

  宗教とは人間の内的精神的苦悩を助けるものとして存在価値があるが、それが権力化すると逆に人を苦しめるように働く。自我の確立以前に宗教を教え込まれるとそれを信じ、三つ子の魂百までと云うように、その価値観を変えることは非常に難しい。自分の信じることが絶対正しいと思いこみ、それがいろいろなトラブルのもととなる。

  この意味で、再洗礼派の主張する所はよく理解できる。乳児期に一方的に洗礼させ信じ込ませるのは盲信につながり結局は、再洗礼派の首謀者が受けたような非人間的な行為にまで至るのだろう。もちろん再洗礼派にも過激な行き過ぎがあったことも一因にあると言われているが。

  12月のヨーロッパは極端に日が短く暗い雰囲気になるが、その暗さをはねのけるように、街角、家にはクリスマスのイルミネーションが美しく映えている。クリスマスマルクトは毎日、子供も大人も沢山の人々で賑わっている。宗教というものが個人の自我を奪い去るものではなく、自由な雰囲気の中での自己の確立を助けるものであってほしいと思う。

1994年11月30日水曜日

豊かさ

  2年前ギリシャへ行ったおり、アテネの飛行場での出来事である。チェックインして搭乗まで待合い室に座っていた。ほぼ待合い室は満員。その一般通路に一番近いところに座っていた。まもなく、車椅子に乗った体の不自由な男の人が入ってきた。その車椅子には台がついており、その上にはピスタチオなどの乾燥豆のパックしたものがたくさん並べられていた。
  車椅子を自分で動かし、まずは最も近くに座っていた私の所へ来た。すでにおみやげに沢山すぎるくらいのピスタチオを買ってしまっていたので、いらないよとのしぐさで断った。すぐに横へ移動して行ったが、私以外の人はほとんどがその豆を買っていた。
  一巡したところで通路を通りかかった紳士がお金をさしだした。その紳士は品物はいらないとのしぐさをして、品物を受け取らずにお金だけを渡そうとしたところ、その瞬間不自由な言葉で一生懸命に何かを言い続けて、不自由な手でお金を払いのけてしまった。明らかにお金だけでは受け取れないとの意思表示であった。まもなくその紳士はお金を拾い上げてその場を去って行った。
  私は何の意識もなしにピスタチオを買うのを断ったが、すべての人が買い物をしたのを見て後悔の念が出てきた。が、不必要なものを買うのも彼の意に合わないとして思い直した。
  所かわって、ドイツでは体の不自由な人のための設備が至るところでみられ、街角ではよく車椅子の人、体の不自由な人が出かけているのを見かける。ドイツに初めて来た当時、日本に比べて体の不自由な人の多い国だなと勘違いしていた。実は、体の不自由な人の為の設備が行き届いているから、外出が可能なだけなのだ。
  地下駅、地下道には専用のエレベータがある。体の不自由な人もこの完備された設備のおかげで自立できている。それから感心するのは、電車を降りるとき、階段を使うときなど、その近くに通りかかった人、居合わせた人が必ずと言っていいほど、手伝いをしている。当然のことのように、自然になされている。
  先日、デュッセルドルフで日本人のための自動車事故救助講習会があった。口による人工呼吸のところで、”出血が見られ、エイズの不安がある時どうすればよいのか”との質問が出た。これに対してドイツ人講師は、ドイツ人には説明は簡単であるが、日本人の方に説明するのは非常に難しいとしてお茶を濁してしまった。私たち日本人からすれば全く的を得た質問であり、明確な回答を期待していた人が多かったと思う。しかし、キリスト教の有名な話、良きサマリア人の価値観からすれば質問自体が誠に次元の低いものであり、ドイツ人講師はそれを言いたかったのだろうと感じた。
  ドイツは経済的にも豊かな国の一つであるが、心の面でも豊かな国と思う。ドイツのみならずヨーロッパ全体に言えるようであるが。このような心の豊かさは宗教の影響が大きいのは確かである。しかし、それに加えて、子供時代の生活体験も重要な役割をはたしていると私は考えている。日本も外見的な生活は豊かになったが、心の豊かさでは後進国に甘んじているようだ。益々エスカレートする小学校からの塾通いでは、これからも知識だけが豊富な秀才タイプはどんどん生産されるけれど、心豊かなクリエイティブな人材は期待できそうにない。
  ポーランドに駐在していたある商社マンから最近聞いた話。昔どこかのワンマン社長夫人がポーランドを訪問したとき、その当時乳飲み子に与える牛乳でさえ不足している所で、牛乳を集めさせ牛乳風呂に入ったという。 また、日本の新聞に載っていた話。大学教授の職を捨て18年間、貧困のネパールの無医村で医療活動に従事していた岩村昇さんの体験談「巡回先の村で結核の重症患者を見つけ治療が出来ず困り果てていた時、患者を背負い三日三晩かけて診療所に運んでくれた行きずりの荷物運搬人の言葉が忘れられない。”生きるとは弱き者と分かちあうことだ。”男は謝礼を受け取ろうとはしなかった。」。
  論語読みの論語知らずが多いこの世の中で、市井にこそ論語知りがいるように思う。

1994年10月30日日曜日

礼状

  こちらから招待したわけではないけれど、この夏我が家は娘二人の友達が同時期に滞在し、てんやわんやで誠に忙しい日々を過ごした。4人家族が一時的に6人家族になり、その中で男性は私だけ。二人のお客様は誠に可愛らしく、滞在の間我が家は華やかで賑やかな毎日となった。

  しかし、華やかな日々を過ごした反面、毎日仕事が終わればすぐに帰宅し車で各所を案内、また土日も車でパリ、フォンテーヌブロー、ベルサイユなどフランス各所を案内、睡眠不足と気疲れ、とくに事故、トラブルがあってはならないと気を使うためたいへん疲れた。最終日、ご両親様宛、滞在中の様子を手紙に書きそれぞれに託した。

  デュッセルドルフのホテルニッコーからフランクフルト空港行きバスに乗せ見送り、何のトラブルもなく無事帰っていただいて安堵した。すぐに二人から、それぞれ自分自身で書いた礼状が届き、たいへん喜んでもらえたようでうれしく感じた。

  その後まもなく、一方のご両親からは丁重な礼状をいただきたいへん恐縮するとともに、私たちの心労が報われた。実は、心の中ではご両親からの返事を期待していたのであって、手紙を受け取ることによりすべてが完了したと思えた。しかし、もう一方のご両親からは二ヶ月たった今でも何の連絡もない。一件終了とは思えず、まだ何か続いているような感じである。

  ヨーロッパでの有名な話しではあるが、その昔フランスで子供がチョコレートをもらったとき子供はすぐにお礼を言ったが、側にいた親は何も言わなかったという。そこには子供も立派な人格として認め、子供がもらったのであって親がもらったのではないという、親子でも個人が優先するという考え方がある。個人主義の一つの例であり、なるほど一つの考え方でもある。ものごとは考え方一つで判断はかわるという例かもしれない。

  日本で生まれ育った私にとっては、子供はすべての面で親の保護にあるとの考えが身に滲みており、フランスでのこの話しは感覚的に馴染まない。しかし、自分の気持ちの整理には大いに使える考え方であり、返事はまだかと思いつつ、このお家はおそらく西欧風の考え方で生活しておられるのだろうと理解することで気持ちも落ちつく。もう手紙がくることはないと思う。

1994年9月30日金曜日

パヴァロッティ

  9月3日の日曜日のお昼間、テレビZDF(Zweites Deutsches Fernsehen、ドイツのNHKに相当するテレビ局の一つ)でDie drei Teneoneという番組が一時間半にわたって放映された。これは、この夏アメリカで開催されたワールドカップサッカーの催物の一つで、その時の録画放送であった。

  Die drei TeneoneとはCarreras, Domingo, Pavarottiをさす。いずれも今を代表するテノール歌手である。この三人が、ロスアンジェルスの野球場特設会場に集まり、テノールの美声を披露した。Carreras, Domingoはスペイン系の人、Pavarottiはイタリア人、いずれもラテン系の人々。テノールの音域はラテン系の人々に向いているのか。その響きは天にも届きそうな迫力である。

  Pavarottiは、10年程前CDを買って以来聴いて楽しんでいる。もともとイタリア民謡が好きで、自分でも真似ごとで歌ったりするので、CDが開発されたときぜひそのたぐいの曲の入ったCDを買いたいと思っていた。その時買ったのがPavarottiであった。それ以来、彼の声の美しい音色に魅せられてしまった。高音Cがピアニシモで響く。テクニックもさることながら、音色は、私には世界で最も美しい声ではないかと感じられる。今回、三人が並んで歌ってみて、この気持ちを確認することが出来た。ドイツに来て、Domingo, Carrerasの二人はよくテレビで見ているが、Pavarottiをテレビで見るのははじめてでもあった。

  イタリアの撚糸機メーカーにRattiという会社がある。この会社の技術責任者にGrazioliというおじさんがいる。背は私より低いが胸幅は大きくいかにも現場のおじさんという感じの人である。

  技術検討の後、私はカンツォーネが好きで、例えばといいながらTorna a Solentoを歌いだすと、この彼がすごいテノールで歌いだした。その歌声は完全にベルカント唱法のテノール。わたしは歌うの忘れて、聴きほれた。イタリアでは、彼のようなテノールは至るところにいると聞いている。ちょうど日本では演歌をプロ並みにうまく歌う人がたくさんいるように。イタリアではテノールが演歌歌手に相当しているようだ。その頂点に立つのがPavarottiであろう。

  しかし、彼と同じくらいのレベルの歌手はたくさんいるのであって、彼でないと歌が楽しめないということはない。なんでも、その道の知名度の高い人だけがその道の第一人者とは限らず、紙一重で有名になっていない人、あるいはむしろ知名度NO1よりも実力のある人はたくさんいるものである。

  スポーツのように勝負で決まる場合は順位ははっきりするが、人間の感覚で判断する世界、音楽、絵画などはあるレベル以上になると判断は出来ず、好みの世界になる。たとえその道の権威者が素晴らしいとほめたたえても、自分が気に入らなければ、その人にとってはなんの価値もない。まったく個人で判断すれば良いことである。有名だからという理由だけで、また権威者が推奨するからと好きでもないのに聴きに行くことほど意味のないものはない。音楽を楽しむのに知名度NO1の人でないと出来ないことはないのである。

  私がPavarottiのような歌を聴いていても、我が娘は全然無関心である。車で運転しながら聴いていると、後部席から自分の好みのテープを差し出してかえてくれという。私にとってはこの音楽を理解してくれないのが残念であるが、ある意味では自分で気に入ったものを楽しむ、他人がするから、他人が勧めるからではなく自分で判断していることにうれしくも思い、娘の要望に従ってテープをかえることになる。

  今月、Rattiを訪問したとき、すでにGrazioliさんは定年退職し、会社にはいなかった。もう一度彼のテノールを聴きたいと思っていたが残念である。が、それと同時にヨーロッパに滞在する間に、ぜひともPavarottiの生の歌声も聴きたいと思っていた。しかし、前もってミラノスカラ座のPavarottiの出演する日を調べ、切符を手に入れることはかなり難しいようである。それよりも、先日出張の飛行機の中で雑誌を読んでそんなことを考えるのはやめることにした。Pavarottiはすでにあの美声で何百億円の財産を築いているという。馬鹿らしくなった。これからも自分で歌って楽しむことにしようと思う。