1995年5月30日火曜日

ベーリングさん

 ポーランド国境で待つ
 
 建設中の孤児院(イエデバブノ)
旧ナチス参謀本部を案内するベーリングさん
(ギルロッツ)
  ドイツとポーランドとの国境の町Frankfurt(Oder)に近づくと長いトラックの列に出くわす。およそ20kmの列であったように思う。国境手前数キロの所には税関用の巨大な駐車場があり、ここでさらにチェックのため無数のトラックが連なって待っている。聞くところによると国境を通り過ぎるのに寝泊まりが必要なこともあるという。
  乗用車も結構長い行列であったが、約2時間ぐらいで無事国境を通ることが出来た。この春からEU内はパスポートのチェックをしなくなったが、EU以外の行き来はむしろ従来よりチェックが厳しくなり、国境での待ち時間が大幅に増えているという。 
  車はトヨタワゴン車。後ろの荷台には日用品・学用品など、わずかの隙間もなく積めるだけ詰め込んでいるため、車は後ろに傾いた状態で走る。目的地はロシア国境に近いポーランド東北のMasuren地方。ポーランドでも特に貧しい地方と言われている。
  しかし、田舎道は完全整備とは云えないまでも舗装はされていた。数年前はまだ砂ぼこりであったという。道なりには、古い工場も見られたがほとんどは平原の続く農地、農村が続き、たまに大きな巣にこうのとりも見ることが出来た。森と湖の自然に恵まれた村に今回の目的場所Jedwabnno孤児院はあった。片道1300kmのドライブであった。
  Dueseldorf の下町にHumanet-Shopというお店がある。開店して4年になる。この店は日本企業駐在員の主婦達がボランティアで始めたリサイクルショップである。駐在員は定期的に交替することから引っ越しが頻繁にあり、その時いろいろな不要品が出る。それを集めて回り、この店で売り再利用をはかろうというもの。しかし、この活動の主目的はリサイクルにあるのではなくその収益金を東欧や第三世界の人々を援助する事にある。もちろん収益金のみならず、再利用できる日用品自体も援助品となる。もう一つ最も重要な特徴は、その援助品を他人に託すのではなく、自分達の手で援助の必要な人に直接手渡すところまですること。ボランティアで自主的に集まった主婦たちは、自分の出来る範囲で交替で店頭に立つなどして参加している。
  一番の問題は、援助物資をどう運ぶかということ。主婦のボランティア活動であるため困難なことが予想された。運搬の協力者を探したところ、運よくドイツ人のWellingさんが協力を申し出た。彼はすでに年金生活の身で現在66才、この店のスタート以来4年間運搬の仕事をボランティアで引き受けている。いつもは彼が一人で車を運転し、ポーランド、ロシア、ルーマニア、ドイツ国内(Friedensdorfという施設、アフリカなどの戦禍により傷ついた子供達を自らの手でドイツへ運び治療しているボランティア活動)などへ援助物資を運搬している。今回は私もボランティアで参加、Wellingさんと交替で車を運転することになった。
  今回訪問した孤児院は建物が劣悪のため、新しく立てる計画を持っているとのことでその建築資金の一部を手渡すことが目的。ポーランドでは金利が30~40%でこのような個人の善意でまかなっている孤児院ではお金を借りることが出来ないため困っていた。寄付を目的に訪問したが、貸してもらえるだけで充分とのこと。それも金利は8%でとの申し出。とりあえずはこれで了解し援助金と日用品などの援助物資を手渡した。
  下は5才から18才まで13人の子供たちが生活しているが、それぞれ事情があって孤児となっている。持参したおもちゃをすぐにあけて遊ぶ子供を見て、この子達が立派に成長することを願い、少しでも役に立てたらと思う。子供達からの「ジンクイエ(ありがとう)」の言葉に見送られて、帰路についた。
  帰り、ロシアとの国境30kmのところにあるGierlozをWellingさんが案内してくれた。ここはナチス時代、Hitlerの参謀本部のあったところ。ここでHitler暗殺未遂事件も起こっている。森の中におおきな防空豪のような、映画館、プール、生活に必要な設備がそろっていたという。地図を見ると、ロシアを含めた全ヨーロッパの中心がちょうどこの辺りであることに気づく。ロシアを含めた全ヨーロッパを征服することを考えて場所を選んだようである。今では爆破された無惨な残骸が残っているだけであった。
  見学しながら、Wellingさんの話を聞いた。「16才の時までHitlerに熱狂した。みんなが熱狂した。ナチスの本質も知らずに。でも、当時知ったとしても何もできなかったかも知れない。」この思いが、現在のWellingさんのボランティア活動の原点になっているように私には思われた。
  日本のゴールデンウィークの合間で、ちょうど仕事も少なかったこともあり、3日間の休暇がとれたのはラッキーであった。今までこのようなボランティア活動をしたいと思いながらなかなか出来なかった。一時帰国休暇もとれないまま本帰国になりそうであるが、日本での休暇より有意義で貴重な体験であったと思っている。

1995年4月30日日曜日

ノルマンディー

  Buchenwald、Normandy、Dresdenといえば第二次世界大戦に関するヨーロッパでの歴史に残る地名である。これら地名がこの大戦で名を残すことになった時間的順序は、Buchenwald ⇒ Normandy ⇒ Dresdenの順である。2年前、Buchenwald、Dresdenを訪問、戦争の生々しい傷跡が残され強い衝撃を受けた。このイースター休みに今回は、Normandyをドライブすることが出来た。
  北フランスNormandy地方は、東はRouenから西Cherbourgの地区をさす。Rouenはジャンヌダルクの裁判が行われ処刑された所、Cherbourgは映画の題名にもなったが今は核燃料処理品の出発港として有名になった。この一帯は美しい砂浜の海岸が続き、50年前の上陸大作戦は想像することは出来ない。唯一アメリカ軍が上陸したOmaha海岸に、碑と小さな展望台、それに墓地が、その昔の出来事を思い浮かべさせるに過ぎない。
  Omaha海岸近くのBayeuxには戦争博物館があり、そこにはNormandy作戦の当時の新聞、写真、武器、戦車、軍服など展示されている。ドイツ軍の抵抗も大きかったことから、この上陸作戦により、近くのBayeuxとCaenの町は焼け野原になった。その当時の写真も見ることができた。戦争は勝った方も負けた方も共に大変な痛手を被ることを認識させさせる。
  アウシュビッツのような強制収容所はナチス時代無数にあったが、その一つであるBuchenwald(ちなみにこの収容所はアメリカ軍が解放した。)を訪れたとき見たような残虐な写真はなく、このNormandy大作戦は正義の戦いであるとの意図のもとに展示されているとの印象を受けた。
  この世には悪はないと信じたいが、Wuchenwaldを訪問した時そうも云えないと感じた。「悪は悪そのもので常に存在する力を持つ。善なるものは人々が努力したときのみ現れる。」という誰かの言葉は、真実のように思えてくる。Buchenwaldは悪であり、それをなくそうと努力することにより善と言うものが認識されるのか。そう考えるとNormandy大作戦・Dresdenの大空襲も善なのか。また、南京大虐殺は悪で広島の原爆は善なのか。現在の日本を騒がせている宗教団体も悪であり、捜査することは善なのか。悪の存在しない社会は出来ないのだろうかとつくづく思う。
  ヨーロッパでも有名になってしまった話題の新興宗教の上層部は有名私立中学高校を出た超有名大学・大学院出身者が多いのを見ると、論語読みの論語知らずと感じざるを得ない。自我の確立以前の幼い時の歪んだ生活、その中で無意識のうちに形成される価値観と悪とは結びついているような気がする。
  頭脳が優秀、知識が豊富であること自体は何の価値もなく、その頭脳なり知識が世界の人々の幸せのために役だってこそ価値があるのである。このような価値観がより多くの人々に認識されなければ悪は常に存在する力を持つように思う。
  それから、今回Normandyを見て回って感じたのは、Normandy、Dresdenがあって, Buchenwaldがあったのではなく、BuchenwaldがあってNormandy、Dresdenがあったということである。これは誰も否定出来ない事実である。この事実をきちっと認識することも、悪のない社会を作るためのもう一つの考え方ではないかと思う。

1995年3月30日木曜日

トゥルク

  フィンランド南西部のTurkuでは、昨年冬場-30℃、夏場+30℃を経験したと言う。なんと一年の気温の差60℃。冬場は池ではスケートができ、わかさぎ釣りも楽しめる。今年はそれほど寒くないとはいいながら、最も寒い日で-20℃であったと言う。3月も終わりに近いけれどまだ所々雪が残り、気温は-5℃ぐらい、今回仕事で訪れてこの冬久しぶりに寒さを感じた。この1月にはノールウエーのベルゲン研究所も訪問したが案外寒さは厳しくなかったのを思い浮かべると、海流の影響を受けるところとそうではないところとの差ではないかと感じた。
  フィンランドは地理的にスウェーデンとロシアに挟まれ、むしろエストニア、ラトビアなど旧ソ連の国の方が近くに感じられる。歴史的にもスウェーデン、ロシアの支配下におかれ、ロシア革命後に最終的にソ連から独立した。よく知られた話として、この独立運動の際、フィンランドの人々を勇気づけるために作曲されたのがシベリウスの交響詩フィンランディアである。
  しかし、その後一部領土がソ連にとられたことから、ナチスドイツのソ連への侵攻に乗じて領土の回復をねらった。しかし失敗し、このため戦後ソ連に対する多額の補償を余儀なくされた。戦後、林業が主であった産業を工業中心の産業に転換をはかることに成功しこの苦境を乗り越えた。結果、北欧の福祉国家の一つとして豊かな生活の国となった。など今回はじめて知るところとなった。
  しかし、森林以外天然資源はなく、結局はソ連との貿易が大きなウエイトを占めざるを得なく、極端にいえばソ連とのつながりの中で繁栄をしてきた。政治的にも社会民主党を中心とした左派連立政権が続いていた。ソ連の崩壊と同時に初めて保守連立政権に移行したが、旧ソ連との貿易がとまり、その影響で不況のどん底の状況となり、失業率は年々増加、現在18%に達していると言う。このためか、この3月の総選挙では保守連立政権は勢力を落とし、再び社会民主党がトップとなり、社会民主党指導による連立政権に向けて動いている。
  EUの仲間入りをはたしたにもかからわず経済状況は厳しく、今後の課題は、工業の立て直しである。そのためには天然資源の確保、西欧との貿易の拡大が重要で、エネルギー源としては原子力発電の検討もなされているという。それぞれの国にはそれぞれの地理的、歴史的背景があり、他の国の方法が必ずしも適切とは限らず、フィンランドもこらから独自の方策を模索していくものと思う。
  フィンランドには、首都Helsinki、Tampere、Turkuの3大都市がトライアングルの地理的関係で位置しており、それぞれに工業が発達している。それを支えるようにそれぞれの都市に大学が存在している。今回Turkuの企業とTampere工科大学を訪問したが、共同で研究開発を進めているという。このような大学と企業が共同して新しい領域を開発する姿勢はすでに確立されており、戦後の急速な工業化を支えたのはこの連携作業ではないかと容易に察することが出来た。これからも、この体制の強化と、厳しい自然環境の中でも耐え抜く忍耐力で難局を切り開いて行くのではないかと思う。
  帰りの飛行機の上から見ると湖はほとんど氷でおおわれ春はまだ遠いとの印象を受けたが、同時に経済の春ももうしばらくは来ないのかも知れない。

1995年2月27日月曜日

グラナダ・ダカールラリー

 フィギュアスケート欧州選手権
(優勝したボナリの演技)
グラナダ・ダカールラリーのスタート

  この2月5日の日曜日、Dueseldorfから東北60kmの所にある、DortmundのWestfalenhallenで開催されたヨーロッパフィギュアスケート選手権を見に行った。フィギュアスケートの競技を見るのは初めての機会であった。なんといってもハイライトは女子のソロ。優勝は有名なフランスの黒人選手Bonalyであった。ヨーロッパ選手権であるのでスポンサーには日本の企業は入っていないであろうと思っていたが、なんとスポンサー8社の中に、富士フィルムとシチズンが含まれていた。写真を撮るたびにリンクのボードに描かれた会社のロゴマークが入る。グローバルなビジネス活動には世界的な宣伝活動も重要なようである。
  この冬休みポルトガル、南スペインをドライブした。大晦日はアルハンブラ宮殿で有名なグラナダに滞在した。ちょうど元旦の朝、グラナダの中心通りから、Granada-Dakarラリーのスタートがきられた。数分ごとに一台ずづスタートするのであるが、1mぐらいの高さの台に自動車ごとのり、そのチームの紹介をする。スペイン語と英語であるが、目立ったのは ”ミツビシ”と ”シトロエン”のアナウスであった。三菱の自動車が紹介されるたびに大きな歓声があがり、このラリーでの知名度は世界的なものであることを知った。結果は、1位シトロエン、2位、3位、4位を三菱が占めた。
  周知のごとく、三菱は早くからこのラリー(昨年まではParis-Dakarラリーであった。)に参加、この数年の自動車不況にもかからわず三菱だけが好調なのは、RV車の代名詞までなったパジェロのおかげと云われる。今やシェアーをじりじり増やし日産に迫っている。これは宣伝効果のみならず、このラリーから技術的な改良を繰り返し、それがパジェロに生かされたことも大きい。F-1に参戦したホンダと同じような考えと思う。
  その昔、RV車が売れるとはだれも予想していなかったと思う。このラリーが注目されるにつれてブームを起こした。技術的に見れば砂漠を走るニーズはなくRV車が売れるはずはないのであるが、結局は何か違う物・新しい物が欲しい消費者ニーズにあったようだ。むしろこのラリーが消費者に火を焚きつけたということである。
  もちろん、日産車もトヨタ車もスタートをきっていたが観衆の反応はほとんどなく、このラリーに関する限りは三菱が王様のような印象を受けた。ここまで来るにはこのラリーに莫大な経費と労力を費やしていると思う。その効果はすぐに計算出来るものではなく、長い年月をかけてようやく効果が見え出したもので、三菱の忍耐力には感嘆する。
  もしRVブームが来なければ、三菱のこのラリーにかけた経費と労力は無駄になると思われがちである。しかし、技術屋から見れば頑丈な車を作る技術の向上には大いに役立ち、RV以外の車にも応用出来るということで、無駄ではないと考える。この考え方がどこまで通用するかでこのたぐいの活動が企業内で認められるかどうかのポイントになるように思う。遊び心にお金を使うことも発展のためには必要な場合もある。もちろん表面的には失敗との結果になることもあるが、それは考えようで数値にあらわれないメリットが必ず残るもので、次の大きな飛躍に逆に利用出来ることが多い。少なくとも技術部門ではその蓄積が技術の財産となり、これがまさしく技術力となる。
  ドイツに来てスノータイヤを購入したとき、一番安いタイヤをつけて欲しいとタイヤショップに頼んだら、なんとMade in Japanのブリヂストンがついていた。Auto-Bahnを走るので、もちろんレーヨン使用タイヤである。レーヨンをわざわざAKZOから輸入し、タイヤを日本で作りヨーロッパに輸出している。コストは高くついている。しかし、ヨーロッパでの一般消費者の評判はピレリー以下であり、いかにブリヂストンのブランドがヨーロッパでは通用しないかを示すものである。
  日本での王者であり、しかもファイヤーストンを買収してその業界ではすでに世界的に知名度が上がっているが、一般消費者にはまだまだ浸透していない。商品の力とは、技術力とブランド力の両輪がうまくかみ合ってはじめて発揮出来るようである。
  フィギュアスケートを見てDortmundから家に戻りテレビを見ていたら、トーレパンパシフィックオープンテニスで伊達公子が優勝したと報じていた。テレビを通じてたくさんのヨーロッパの人々が”トーレ”という名前を聞いたことと思う。東レのグローバリゼイション戦略の中で、このパンパシフィックテニス大会がどう位置づけられているのかたいへん興味のあるところである。

1995年1月30日月曜日

Hochwasser(洪水)

1年前のライン川洪水
  神戸の大地震はヨーロッパでも約一週間にわたって各テレビ局のトップニュースとして報道され、そのすさまじさは戦争の空襲後の様相と重なるものとの印象を与えた。燃え続ける神戸市内、崩壊した家屋、傾いたビル、倒れた阪神高速道路、阪急伊丹駅の電車の惨状、下敷きになった人を捜索する住民などなど。
  この惨状のなかで少なくとも18日のニュースまでは救助隊の活動、消火作業の画面は見られず、ようやく19日になって、水がチョロチョロの中での消防隊の活動、わずかな自衛隊の動きなどが映し出された。その後日本の新聞を見て出動が遅れたり、他府県からの救援も遅れたことを知り、即刻充分な救助活動がなされておれば、犠牲者をもっと少なく出来たのではないかと考えないわけにはいかなかった。
  神戸地区に震度7クラスの地震が発生するとの想定をしていなかったと云われている。想定を越える災害発生のため、全国から救援を求める敏速な手続きが出来ず、その決定が遅れてしまった。また、道路渋滞のため救援隊が現地に到達出来ない、消防活動の訓練も現実にはあわず、震度7での予知管理訓練が欠けていた。神戸地区の地震は震度5までと決めつけていたことが大きな原因と云われている。
  確かに過去の実績からすれば充分との判断であるが、自然はそう簡単ではない。自然科学の世界は現象を単純化、平均化して、現象を理解するのに成功しているが、実際はもっと複雑で変化に富む。バラツキを考慮した理解方法はスタートしてまだそれほど年月は経っていない。工学設計の世界ではそのバラツキの部分を安全率との概念で逃げている。神戸地区も震度7を想定した防災対策が事前に実施されておれば災害はもっと小さく押さえられたのではないか。
  新聞に出ていた話に、ある地震学者が神戸地区でも震度7は有り得ると主張していたとのこと。結局は少数意見で発生の確率は小さいとの判断で、震度5という想定になったのではないかと思う。最も研究されなければならないのは、たとえ1%の確率でも起こり得る時、どう判断するかという点である。神戸での震度5と決定に至ったプロセスを徹底的分析して、誤った決定に至ったのはなぜか研究する事も重要ではないか。それをふまえて、関東地区で想定されている震度6は適切なのか再検討し、建物、道、救助体制、避難方法などの見直しをすべきと思う。
  しかし、現在の東京地区の混雑状況ではおそらく今回と同じ震度7になれば大きな災害は避けられないのではないかと心配する。結局は都市の分散化が課題となり、ドイツのような機能分散の国作りを進めることが究極の対策のような気がする。
  今、我が家のそばを流れるライン川は外側堤防下2mの所まで増水している。フランス、ベルギー、ドイツにかけて、この1月下旬から大雨の日が続き河川が増水、ドイツではワインで有名なモーゼル川、ライン川が氾濫し、コブレンツ、ケルンでは床上まで浸水している。また先日訪問したルクセンブルグにあるタイヤメーカー技術センターのそばの川も氾濫していた。我が家近くのライン川はいつもは内側堤防の範囲内で川幅約350mであるが、増水により川幅は1000mに達した。内側と外側の堤防の間にあるテニスクラブ、レストラン、屋外プール、畑はすべて水の中、家庭菜園用小屋は水に浮かんで流れている。

1994年12月30日金曜日

Weihnachten(クリスマス)

  「Die auf diesem Flug angebotenen Mahlzeiten enthalten kein Schweinefleisch.」(この飛行機で出される食事には豚肉は含まれていません。)ドイツからイスタンブールへ向かうルフトハンザ航空の機内食説明書のコメントである。

  今回はじめてトルコを訪問する機会があった。豚肉の好きなドイツ人も乗客には多いと思うが、イスラム教の人のためにルフトハンザは気を配っている。日本人のような雑食人種にとって、何故イスラム教では豚肉を食べてはいけないのか、こんなにおいしい物が食べられないのはかわいそうといいたくなる。特殊世界にだけ通用する戒律であり、その普遍性はないと感じる。

  宗教とは人の精神的支えになるものではあるけれど、逆に人の活動を規制する役目も持っているようだ。信じれば、自由の制限ではなく、それが自然のことと受けとめることになるのだろう。トルコはイスラム教の戒律から比較的自由な世界に見えたが、たまに、目以外は完全に黒装束の女性も見られ、初めて見るものにとっては異様な感じを受けた。もっといろんなおしゃれが楽しめるのにと思う。

  しかし、おせっかいというものなのだろう。人はそれで満足していれば他人はとやかく云うことはないというのも道理である。もし、助言を求めてきたときにはご意見を差し上げるのが良いと思いつつドイツへ戻った。

  先日、レンブラント派の絵画展がミュンスターで開催されているというので訪れた。デュッセルドルフから東北150kmの所にある古い町である。この町の中心にランベルティ教会がある。15世紀に完成したその聖堂には、90mの尖塔がそびえている。この塔の大時計の上の窓に鉄製の篭が三つぶら下がっているのが見られた。これは1534年~35年にこの町を支配した再洗礼派の首謀者3人が処刑され、見せしめのためにその死体を入れてぶら下げた鉄篭という。処刑は焼きゴテで突き刺す方法だったといい、キリスト教という宗教の世界での非人間性を示す例の一つであると感じた。

  再洗礼派は、乳児期に受けた洗礼は本当の洗礼ではなく、真のキリスト教者になるには、成人した後もう一度自覚的に洗礼を受けなければならないと主張する。宗教改革当時このミュンスターではルター主義にとどまらず、ラジカルな再洗礼派に支配された。この時、カトリックもルター派も弾圧する側となって攻め込み、まもなくこの一派を追放した。そして、その指導者3人が処刑されたという歴史である。

  宗教とは人間の内的精神的苦悩を助けるものとして存在価値があるが、それが権力化すると逆に人を苦しめるように働く。自我の確立以前に宗教を教え込まれるとそれを信じ、三つ子の魂百までと云うように、その価値観を変えることは非常に難しい。自分の信じることが絶対正しいと思いこみ、それがいろいろなトラブルのもととなる。

  この意味で、再洗礼派の主張する所はよく理解できる。乳児期に一方的に洗礼させ信じ込ませるのは盲信につながり結局は、再洗礼派の首謀者が受けたような非人間的な行為にまで至るのだろう。もちろん再洗礼派にも過激な行き過ぎがあったことも一因にあると言われているが。

  12月のヨーロッパは極端に日が短く暗い雰囲気になるが、その暗さをはねのけるように、街角、家にはクリスマスのイルミネーションが美しく映えている。クリスマスマルクトは毎日、子供も大人も沢山の人々で賑わっている。宗教というものが個人の自我を奪い去るものではなく、自由な雰囲気の中での自己の確立を助けるものであってほしいと思う。

1994年11月30日水曜日

豊かさ

  2年前ギリシャへ行ったおり、アテネの飛行場での出来事である。チェックインして搭乗まで待合い室に座っていた。ほぼ待合い室は満員。その一般通路に一番近いところに座っていた。まもなく、車椅子に乗った体の不自由な男の人が入ってきた。その車椅子には台がついており、その上にはピスタチオなどの乾燥豆のパックしたものがたくさん並べられていた。
  車椅子を自分で動かし、まずは最も近くに座っていた私の所へ来た。すでにおみやげに沢山すぎるくらいのピスタチオを買ってしまっていたので、いらないよとのしぐさで断った。すぐに横へ移動して行ったが、私以外の人はほとんどがその豆を買っていた。
  一巡したところで通路を通りかかった紳士がお金をさしだした。その紳士は品物はいらないとのしぐさをして、品物を受け取らずにお金だけを渡そうとしたところ、その瞬間不自由な言葉で一生懸命に何かを言い続けて、不自由な手でお金を払いのけてしまった。明らかにお金だけでは受け取れないとの意思表示であった。まもなくその紳士はお金を拾い上げてその場を去って行った。
  私は何の意識もなしにピスタチオを買うのを断ったが、すべての人が買い物をしたのを見て後悔の念が出てきた。が、不必要なものを買うのも彼の意に合わないとして思い直した。
  所かわって、ドイツでは体の不自由な人のための設備が至るところでみられ、街角ではよく車椅子の人、体の不自由な人が出かけているのを見かける。ドイツに初めて来た当時、日本に比べて体の不自由な人の多い国だなと勘違いしていた。実は、体の不自由な人の為の設備が行き届いているから、外出が可能なだけなのだ。
  地下駅、地下道には専用のエレベータがある。体の不自由な人もこの完備された設備のおかげで自立できている。それから感心するのは、電車を降りるとき、階段を使うときなど、その近くに通りかかった人、居合わせた人が必ずと言っていいほど、手伝いをしている。当然のことのように、自然になされている。
  先日、デュッセルドルフで日本人のための自動車事故救助講習会があった。口による人工呼吸のところで、”出血が見られ、エイズの不安がある時どうすればよいのか”との質問が出た。これに対してドイツ人講師は、ドイツ人には説明は簡単であるが、日本人の方に説明するのは非常に難しいとしてお茶を濁してしまった。私たち日本人からすれば全く的を得た質問であり、明確な回答を期待していた人が多かったと思う。しかし、キリスト教の有名な話、良きサマリア人の価値観からすれば質問自体が誠に次元の低いものであり、ドイツ人講師はそれを言いたかったのだろうと感じた。
  ドイツは経済的にも豊かな国の一つであるが、心の面でも豊かな国と思う。ドイツのみならずヨーロッパ全体に言えるようであるが。このような心の豊かさは宗教の影響が大きいのは確かである。しかし、それに加えて、子供時代の生活体験も重要な役割をはたしていると私は考えている。日本も外見的な生活は豊かになったが、心の豊かさでは後進国に甘んじているようだ。益々エスカレートする小学校からの塾通いでは、これからも知識だけが豊富な秀才タイプはどんどん生産されるけれど、心豊かなクリエイティブな人材は期待できそうにない。
  ポーランドに駐在していたある商社マンから最近聞いた話。昔どこかのワンマン社長夫人がポーランドを訪問したとき、その当時乳飲み子に与える牛乳でさえ不足している所で、牛乳を集めさせ牛乳風呂に入ったという。 また、日本の新聞に載っていた話。大学教授の職を捨て18年間、貧困のネパールの無医村で医療活動に従事していた岩村昇さんの体験談「巡回先の村で結核の重症患者を見つけ治療が出来ず困り果てていた時、患者を背負い三日三晩かけて診療所に運んでくれた行きずりの荷物運搬人の言葉が忘れられない。”生きるとは弱き者と分かちあうことだ。”男は謝礼を受け取ろうとはしなかった。」。
  論語読みの論語知らずが多いこの世の中で、市井にこそ論語知りがいるように思う。