1996年6月30日日曜日

バルベック

  この6月のはじめ日本からたくさんの方が来欧された。我社の専務がデュッセルドルフに立ち寄ることになった。昼前に予定通りミラノからの飛行機でデュッセルドルフに着いたが、ちょうど昼食前で、食事をどこでとるかということになった。結局私の提案でバルベックに行くことになった。

  バルベックはデュッセルドルフから北西約70kmにある小さな村である。この村の端にはヨットセールで有名なアメリカのディメンションポリアント社の親会社ベルサイダッハの一工場がある。きれいな町並みに調和するように白いコンクリートでできた広い平屋の工場が見られる。ドイツへ来てすぐのころ何回か訪問したことがある。当時、ドイツならどこにでもあるような村で、仕事でもなければもう訪問することはないと思っていた。

  しかし実際はこの町を毎年、何回も訪れることになったのである。それは、まもなくこの町がアスパラガスの里であると知ったからである。この町はカトリックの巡礼地で有名な町ケベラルとその南シュトレーレンを結ぶシュパーゲル(Spargel、アスパラガス)街道のちょうど真ん中に位置している。アスパラガスのシーズンは4月から6月の間わずかな期間だけ。毎年このシーズンに旬のアスパラガスを味わってきた。5年半ドイツで生活してみてドイツで唯一の美味である。
  
  ドイツビールは逸品であるけれど、食べ物はもう一つというのがドイツ料理。フランクフルトのまさしく有名なフランクフルトソーセージ、ミュンヘンの白いソーセージ、そしてニュールンベルグの小さなニュールベルガーソーセージ、初めて食べると美味しく感じるけれど、そのうち飽きてしまってもう敢えて食べようとはしない。この頃では日本からの出張者とのおつきあい以外はほとんど食べることはなくなった。

  塩辛いのと脂っこいのは私にはどう見ても食欲が進まない。これらソーセージにはまた有名な突き合わせザワークラウトがある。キャベツの塩漬けで少し酸味がある。脂っこいソーセージにはちょうどすっきりして組み合わせは良いのだが、なぜか味は私にはなじまない。これら庶民的な大味な料理の他にもう少し繊細なドイツの肉料理にシュモールブラーテン、ザワーブラーテンもある。たまに家で食べ、確かに美味しいとは感じるけれど毎日は食べられない。結局は魚主体の日本食がベストとの結論となってしまった。

  しかし、このアスパラガスだけは別である。日本ではアスパラガスといえば緑が主体で、白いアスパラは缶詰がほとんど。新鮮なとれたての白いアスパラガスを食べるチャンスはほとんどなく、缶詰の味しか知らないのでなんと味ないものだと思っていた。ドイツへ来て初めて白アスパラガスの本当の味を知ることになった。ゆがいた後、溶かしたバターをつけて、あるいはホーランディシュソースで、そして日本人にとっては鰹節と醤油で食べると最高である。ドイツレストランではこの醤油味は味わえないが、バターでも美味しくツルンと喉元を通る。

  このアスパラガス、一年中いつでも食べられるとなるとまた飽きるのだろうか。春だけ食べられるため余計に美味しく感じるのだろうか。ソーセージはいつでも食べられるので敢えて食べないのかもしれない。しかし、ビールはうまいので毎日飲んでいることからすると、やはり美味しいものは美味しいのであって、限られているからというのが理由ではなさそうである。

  このたび専務は初めて、とれたての白いアスパラガスを食べることになった。さすがに美味しかったとのことで、さっそくおみやげに2kgを購入し持って帰ることになった。調理の仕方を書いた小冊と皮むき器もつけることにした。皮をむかずにゆがいて、堅くて食べられなかったと言った人がいるからである。おそらく日本では味わえない食べ物であるので、おみやげをもらった人はさぞ美味しさに驚かれたことだろう。

  この時期、シュパーゲル街道起点の町ケベラルには巡礼客がたくさん訪れ、有名な「聖母の恵みの聖画」に祈る人が見られる。この10㎝四方くらにの小さな銅板に刻された聖母様に祈ると幸せになるという。内部が鮮やかに彩色されたバチカンを小さくしたようなバジリカ聖堂では日を決めて教会音楽が演奏されている。

  少年合唱隊、オルガンコンサートなど。 この日曜日の夜この聖堂で、ボーイソプラノの美しい音色、パイプオルガンの荘厳な響きを堪能した。いつものことながら、ヨーロッパ人の生活の中に身近に音楽が入り込んでいるのを感じる。その帰り、夕食は当然のことながらバルベック。今シーズン最後のアスパラガスを味わった。来シーズンも出来れば旬のアスパラガスを食べたいと思っているけれどどうなるであろうか。

1996年5月30日木曜日

カルカール

  ライン川の下流、デュッセルドルフから北西100km、クサンテンとクレーフェをつなぐローマ街道のちょうど中間に、15世紀に栄えた町、カルカールがある。人口一万ばかり、その町の中心、中世の町並みの中にラートハウス(市庁舎)とニコライ教会がある。このラートハウスは1445年に完成した煉瓦ゴシック建築で、第二次世界大戦で破壊され、戦後復元されたもの。またニコライ教会は1450年に完成した後期ゴシック建築で、ライン川下流の中で最も美しい教会といわれている。この教会は祭壇画やきめの細かい木彫があり、特に「キリストとサマリアの女」、「ラザロの復活」の宗教画は有名である。この町のまわりはのどかな田園風景で、たくさんの馬、羊、豚、牛が草原の中で自由に遊んでいる。
  この町から東北数キロの所、のどかな田園の中、ライン川沿いに大きなコンクリートの蒸気塔と大きな四角い建物が見える。この建物の数100mの所にはヘンネンペルという小さな村があり、その農家の家々の壁にはいろいろなスローガンが書かれている。「Baustop(建設ストップ)、Narrensicher?(馬鹿でも安全に運転できる?)、Stralen in die Zukunft(将来は放射能)、Wir wollen leben(私たちは生きたい)」 この大きな建物はドイツで唯一のプルトニウム高速増殖炉である。
  しかし、この建物は色鮮やかな万国旗と大きな看板(Kernwasser Wunderland Kalkarと書いてある)があり、どう見ても稼働している原子力発電所には見えない。実は1973年着工され、1985年には発電開始予定であった。しかし、付近住民をはじめ広範な市民の反対運動と、膨大な経費、それに大きな技術的困難に直面し、社会的大論争になった。1985には完成したが、ついに原子力エネルギー政策の転換を迫られ、1991年運転することなく閉鎖することになったものである。そのまま放置されていたが、最近民間に払い下げられ、余暇休養施設(増殖炉の見学、その他娯楽など)として解放されることになったもの。
  アメリカその他での原子力発電所の小さな事故や、それに決定的なチェリノブイリ原発の爆発事故で、世の中は原子力発電所をこれ以上増やさない機運になってきた。そんな中でこのカルカールのプルトニウム高速増殖炉は建設され、結局安全性の問題からドイツはプルトニウム利用から撤退したのである。世界的にもプルトニウム利用は危険との判断から各国とも撤退したが、日本のみが開発を続けている。世界の人々が心配していたとおり、高速増殖炉「もんじゅ」は運転まもなくナトリウム漏れを起こし、再検討を余儀なくされている。
  科学技術の発展にはある程度の危険を覚悟せざるを得ない場合もあるが、原子力と遺伝子操作はこの範疇には入らない。一度扱いを誤れば人類存続にとって取り返しのつかないことになるからである。チェルノブイリの事故後すでに十年が経過したけれど、放射線によるガンをはじめとする遺伝子病はますます増加し、もう取り返しのつかない状態になっている。何十年、何百年の人体実験が着々と進行している。遺伝子操作も同じような心配がある。
  高速増殖炉はプルトニウムを燃焼させそのときに出る中性子により、豊富に存在する核分裂しないウラン238をプルトニウムに変換する。このように、運転するだけでみずからプルトニウムを生産する高速増殖炉がなければ日本のような資源のない国では将来の電力需要をまかなえないと言いきり、その他の意見に耳を貸さず秘密のうちにことが進められることほど恐ろしくて危険なことはない。
  何でも強引に前に進めないと幸せはないとの論理が、結局はばい煙公害、水俣病、いろいろな薬害など大変な犠牲者を生み出した原因のようである。その推進者は、たとえ犠牲者が出ても認めようとせず、また認めたとしても全体の中では少数と無視し、その責任すら感じていない。これが現在の日本の行政と言える。この体質は旧ソ連の官僚体制と同じように思える。
  原子力のトラブルが起これば、犠牲者が少数では終わらないこと、その影響が子孫にまで続いていくことを認識する必要がある。トラブルがあれば人類の存続に大きな影響を与える技術開発は、慎重過ぎても慎重すぎることはない。情報をすべて公開し、自由な雰囲気の中で十分な議論をしたうえで理解が得られなければこのような開発は進められないようにするシステムが必要のように思う。
  ドイツのこのカルカールの高速増殖炉が余暇休養施設に変わったのは、良かったことか、悪かったことか。それは将来しか分からない。増殖炉がないために電力が不足し豊かな電化生活が出来ず不自由な生活をしているかもしれない。それでは、増殖炉が稼働していたらどうだろうか。今以上の便利な電化生活を楽しめる可能性はある。しかし、それと同時に、チェルノブイリ以上の大事故により多くの人々の命がなくなり、生存しても後遺症に苦しむ可能性もある。確率的にこのような事態がゼロとは言い切れない。
  いろいろ可能性はあるけれど、とにかく今はっきりと言えることは、増殖炉の断念により、このカルカールの古い町並みと、美しいラートハウス、ニコライ教会、それにまわりののどかな田園風景は将来とも維持され、まわりの自然の中で人々の生活が脈々と続くことは間違いない。人々が生き続け、生活し続けられるという保証の方が、生活の不自由さより優先されなければならないと私は思う。
  電力の心配があるなら、もっと安全な方法、たとえば太陽エネルギー、風力、海流などを利用した方法など開発すべき技術はたくさんある。これら安全な方法の開発に集中すれば必ずや代替えエネルギーが得られるものと思う。

1996年4月30日火曜日

ベリチェリ

  このイースター休み、北イタリア、南フランスをドライブ、その初日、デュッセルドルフから約900km、ミラノから西80kmの所、アルプスの南に広がるピエモンテの平野にあるベリチェリに立ち寄った。スイスに入りアルプスの下を通る17kmのトンネルに入るまで、イースター休みのラッシュのため3時間もの大渋滞、このためベリチェリに着いたのは日暮れであった。

  まわりの畑の一部は水が引き込まれ水田の準備中の所も見られた。ここは、イタリアリゾットの産地、お米の栽培で有名なところである。最近は日本のもみを持ち込んでイタヒカリなる米も作られているという。天気が良ければ遥か北にはアルプス、モンテローザの白い山並みが望めるが、日暮れのせいと、春霞のせいで残念ながら見ることは出来なかった。ちょうど北陸は小松付近の水田から見える白山と同じような光景で、合繊織物の産地、北陸の自然を見ているようで、なにか親しみを感じる。

  翌日、建設中の新合繊織物会社を訪問した。イースター休みにもかからわず社長が工場を案内してくれた。工場内の機械はすべて準備完了、事務所もようやく完成して建設事務所から移ったところ。しかし、建物の回りの整備はこれからとのこと。試作生産も開始しており、6月の操業式までには回りの整備も完了しいよいよ本格的な工場のスタートとなるという。

世界的に見れば繊維産業は成長産業である。しかし、従来の素材を扱う限りは、その生産場所はコスト的に最適な開発途上国にゆだねざるを得ない。しかし、テキスタイル産業は化学産業とは異なる面を持っている。それは、ファッションと結びついていること。すなわち工業であると同時に工芸の領域にも入り込んでいる。ファッションデザイナーは芸術家と同じように、素材、色、形、それに風合いを使い無限の表現をする。人間には自分を着飾ろうとする欲望をもっており、それを満足させる人がファッションデザイナーである。画家が色とデザインで、作曲家が音と時間の組み合わせで無限の表現をするように、ファッションデザイナーは織物の風合い、色、柄、パターンなどを駆使して表現を試みる。

  そしてこれらデザインの中から選ばれたものがまずはブランド商品としてでまわる。専門家は織物の風合いでもって服の仕立てばえ、見栄え、ドレープ性など判断し服を作っている。消費者はお金の許す限りより見栄えのする服を買おうとする。このとき無意識のうちにより良い風合いのものを選んでいるのである。

  衣料用繊維産業の牽引車はこのテキスタイルの工芸的要素である。合成繊維は10年程前までは天然繊維に近づくことを目標にしてきた。しかし、新合繊の出現により、天然繊維にはない風合い、表面構造、機能性を生み出せることが確認された。これで可能性は終わりであろうか。テキスタイルの視点から、新しい合成繊維とテキスタイルがつくれるということ。この新会社がその開発体制の一翼をになうようになることを期待したい。

  ベリチェリから南120KMにあるジェノバ、そしてサンレモ、モナコ、ニース、カンヌ、アルル、グルノーブルを経てデュッセルドルフにもどった。晴天に恵まれ、北イタリア、南フランスの自然を満喫したことはいうまでもないが、ニースの山の手にはルノアールが晩年過ごした町カーニュシュルメール、マルセイユの北にはセザンヌが生活した町エクスアンプロバンス、またゴッホが過ごしたアルルなど、芸術家が絵の対象にしたこれら自然も見て回った。

  ミラノ、パリという、世界ファッションの発信地の近くにひかえるこれら芸術家が愛した自然環境、さらにはベリチェリ付近の北陸産地との類似性、など考えるとますますこの会社の地理的環境が新しい合成繊維の開発に最適の地であると認識させられたドライブであった。 

1996年3月30日土曜日

ウイリアムズタウン

  我が家に二つの油絵の再生画がある。一つはモネの”睡蓮”、もう一つはルノワールの”コンサートにて”である。睡蓮についてはすでに各所の美術館で本物に出会うとともに、またフランスはジベルニーにあるモネの住居跡を訪れ、その庭にある睡蓮を鑑賞しモネが自然をいかに表現しているか実感した。しかし、もう一つの絵“コンサートにて”は今までなかなか本物に出会うことが出来ず、どこに本物があるのかいろいろな美術書を当たって探していた。パリのオルセー美術館にある“ピアノに寄る娘達”は何回か本物を見ているが、この絵と“コンサートにて”の描き方は、再生画を見る限り全く異なっているように私は感じ、ぜひとも本物を見たいと常々考えていた。ようやく昨年、アメリカはウイリアムズタウンのスターリング アンド フランシーヌ クラーク アート インスティチュート(Sterling and Francine Clark Art Institute)にあることを突き止めた。
  18年前、我が家に二人目の娘が誕生したとき、なにか娘達にふさわしい絵はないか探した。たまたま再生画の“コンサートにて”に出会い、将来娘達にもこのようなコンサートでの場面があればと願いつつ、黒と白のドレスのコントラストとそのなかに鮮やかな色彩の花束が入ったこの絵が気に入り、その作者が誰かとも知らずに買い求めた。その後まもなく、再生画自体にルノワールのサインが入っていることに気がつき、その作者を知った。それ以来ずっと東京、デュッセルドルフと我が家に飾られ、一方では実生活においても何度かこの絵と同じような場面を経験してきた。
  この3月アメリカ出張の際、日曜日を利用してマサチュセッツ州にあるこのウイリアムズタウンを訪問することを試みた。ニューヨークの北250km、ハドソン川に面したニューヨーク州の州都オルバニーから東へ車で約1時間、峠を越えると低い山に囲まれた盆地にこの町ウイリアムズタウンがあった。距離にして約50kmであった。町自体は小さく人口数千人といった感じである。この町の南はずれの森の中に茶色いタイルと白い外装の二つの建物が連なった美術館、スターリング アンド フランシーヌ クラーク アート インスティチュートがあった。
  この美術館は観光名所としてはほとんど知られていないことから、見学者はわずか数人であった。スターリング クラークが1910年代パリに住んでいたとき、その後夫婦でウイリアムズタウン近くの町に住んでいたとき、当時のフランス美術界のアカデミックな風潮に影響されることなく自分たちの好みに従って絵画を買い集めた。それらを公にするため1955年に夫婦でこの美術館を建てたという。作品の蒐集は夫人との共同作業であったことから夫人の名前フランシーヌが入っている。
  1894年一人のルノワール蒐集家がなくなり、その遺言で作品をフランス政府に寄贈することになったが、このような輪郭がはっきりしないぼけたような絵は引き取るに値しないとして当時のフランスアカデミーは猛反対した。その結果引き取られなかった作品が各国に散らばってしまうことになった。フランス政府が引き受けたルノワールの作品はパリのオルセー美術館で見ることが出来るが、かなりの作品が各国の美術館に散らばってしまった。その美術館の一つがこのスターリング アンド フランシーヌ クラーク アート インスティチュートである。
  この美術館に集められているルノワールは彼の後期の肉体感豊かな女性の絵はなく、むしろ中期頃の目元がきちっと描かれた比較的細身の肖像画と人物画が多く、また色彩が豊かで鮮やかなものがほとんどであった。ルノワールの初期から中期の作品は当時あまり評価されず、晩年になってようやく評価されるようになった。イレーヌで有名な女の子の横顔の絵は中期の作品で、ある資産家の奥さんがあまり売れていないルノワールに自分の娘の肖像画を書かせたもの。奥さんご自身の肖像画は当時もっと画料の高かったた別の画家に描かせたという。その画家はその後誰も知らない存在となり、いまではルノワールの描いたイレーヌだけが世界に知られることになった。もしこの時、この奥さんが自分の肖像画をルノワールに描かせていれば、現在では彼女が世界に知られることになっていたであろう。
  お目当ての絵が見られると心をときめかしながら絵を見て回った。しかし、ルノワールがずらっと置いてある中央の大広間の展示室にもお目当ての絵がない。さらに別の部屋を見回ったが、他のルノワールの絵はあっても、肝心の絵がない。最後に中世の絵の部屋を見たがとうとう見つからなかった。
  がっくりして、入口の係員に聞いた。入口に置いてあるパンフレットの表紙にはまさしく“コンサートにて”がのっている。それをさして、この絵はどこにあるか聞いた。答えは倉庫。現在一部改造工事中でそれが終わるこの7月にはまた展示するという。わざわざドイツからこれを見に来たと説明し見せてほしいと交渉したが日曜日のため担当がいないとのことで断られた。あきらめざるを得なく、他のルノワールを楽しんだことを満足に感じ美術館を出ることとした。
  美術館ロビーに書かれたスターリング クラークの言葉。“絵を鑑賞するための指導書はないですかとの質問をよく受けるが、これに対しては、あなたが自分自身でじっくり見て感じることそのものが絵を鑑賞することであり、指導書などありませんといつも答えています。”作者が誰であろうと自分の目で見て自分が気に入ればそれがすばらしいのであって、その道の大家がいろいろ理屈を並べて良さを勧めるからとか、有名な画家だからといって作品に接することほど馬鹿なことはないのである。音楽についても全く同じことが言え、このクラークの言葉は私には良く理解できる。
  帰り美術館の売店で気に入った絵はがきを買った。本物では独特の色彩鮮やかな絵がたくさんあったが、残念ながら絵はがきでは本物の色は出ておらず、やはり本物のすばらしさを認識した。しかし、我が家にある再生画“睡蓮”ではすでに何回か本物との比較をしており、限りなく本物に近く、家でも十分に味わえることを体験している。“コンサートにて”の場合はどうであろうか。今回は空振りに終わってしまったが、次の機会を楽しみに待ちたい。

1996年2月28日水曜日

グリュンコール

  ドイツに赴任してすぐの1991年の2月、-10℃~-15℃の日が続いた。デュッセルドルフの南にあるベンラート城の前の池は完全に凍り、たくさんの人がスケートを楽しんでいた。このお城の庭園には500mくらいの細長い池がある。いつもは白鳥やカルガモの住みかであるが、完全に凍ってしまって、即席のアイスリンクとなり、子どもたちがアイスホッケーに興じていた。
  話はそれるけれど、この厳寒の時に、前任者の送別会としてゴルフをしたことを覚えている。前任者はことのほかゴルフが好きだったことから段取りされたものだけれど、池のみならず地面、芝生すべてが凍りついた所でのゴルフであった。地面が凍っているためキーが立たない。後で知ったことであるが、このためにゴム製のボール立てがあるという。ほとんどキーが使えない状態で、ボールはどこかへ跳ねて不明になる。池に入っても氷に跳ねてロストボール。ボールは数え切れないくらいなくしたような記憶がある。このような悪コンディションでも上手な前任者はちゃんと実力を発揮した。それに反して、私のようなへたくそは初めてコースに出たときよりもまだ悪いスコアーであった。あの寒さが、冷めかけていた私のゴルフ熱を完全に凍らせてしまったように思う。
  その後、この5年間このような寒波はなく、ドイツの人々からドイツには本格的な冬はなくなったとさえ聞いていた。それに加え夏が極端に暑くなり、地球の温暖化といわれる現象をまさに経験し、もう寒い冬は来ないだろうと思っていた。が、この2月、日本からの出張者と共にポーランドを訪問したとき、寒波がやってきた。
  ポーランドの古都クラッカウを訪問したとき-22℃。クラッカウから訪問先のウクライナ国境に近い町サノックに向かう車はヂーゼル車。走り出してまもなくトラックを追い抜こうとしたが、ブスブスといやな音をたてはじめ失速してしまった。寒さのため軽油が気化しないためである。運転手はゆっくりと走って近くのガソリンスタンドに車を止めた。運転手は車にアルコールを飲ませるといって、軽油ではなくガソリンを入れた。ガソリンのおかげでまた正常に走り出したが、まもなくまたのろのろ運転。再度ガソリンを入れる。また動き出す。何回繰り返しただろうか。とうとう、ガソリンスタンドのないところで完全に止まってしまった。運転手は民家にガソリンをもらいに出かけた。そして再度動き出した。車の中は暖かいためにガラスの内側が曇るがガラスが冷たいことから内側が凍っている。日が昇るにつれて若干気温があがり、その後何とか目的地までたどり着けた。外に出るとすぐ耳たぶが痛くなり、10分も外にはいられない世界であった。
  通勤のウォーキングをはじめて早いもので4年が過ぎた。往復8kmのライン川沿いの道を、土砂降りでない限り、寒い日も、暑い日も歩き続けている。ウォーキングを始めてから今まで寒くてもせいぜい-5℃ぐらいだったので、むしろ朝の引き締まった空気の肌をさす気分が気持ち良いこともあり、通勤のウォーキングが楽しみの一つになっている。
  ポーランドから帰ったあと、-10℃の朝もウォーキングで通勤。この寒さではいつも出会う人とは会わないだろうと思っていたがそうではなかった。乳母車を押して散歩している奥さん、犬を連れて散歩しているおばあさん、町なかのホッフガルテンで出会うおじいさんのグループ、いつものみなさんに出会った。さすがに寒いので耳カバーがなければ歩けないが、早足で歩くとこの寒さでも15分ぐらいで体が暖かくなってくる。聞くところによると、赤ん坊の時からこの寒さを体験し皮膚を刺激することが健康を維持する一つの方法という。ウォーキングをずっと続けてみると、ドイツ人の生活の知恵が理解できる。
  このような背景からか知らないがドイツ人は散歩が大好きである。時間があればそれぞれ散歩を楽しんでいる。ドイツは積極的に自然を残す努力をしている結果、大都会でさえ必ず近くに散歩できる森、公園がある。またグループで森を歩くヴァンデリンググループもたくさんある。
  先日の土曜日、ヴァンデリンググループの一つに参加することができた。このグループ、若い人で20歳代、最年長で87歳。このおばあさん、赤いゴアテックスのようなジャケットを着てヴァンデリングシューズで決めている。坂ではゆっくりとなるが、普通の森の道では若い人と変わりのないテンポで歩くのには驚いた。
  2時間のヴァンデリングの後は森のはずれにあるレストランで食事をする。料理は有名な冬のドイツ料理、グリュンコールである。この野菜はほうれん草の2倍以上の大きな葉っぱでしかも冬霜が降りると味が良くなるという寒い冬の貴重な野菜である。その葉っぱをきざみ豚肉のだしなどで煮込んであり、大きなお皿一杯に盛られている。その上におおきな豚肉のスライスと太いソーセージが添えられる。量はたっぷりである。
  87歳のおばあさんはぺろりと食べてしまった。わたしは、塩辛いのと、ソーセージの油っぽさ、量の多さに閉口だが、時間をかけてなんとか食べた。もちろん飲み物はビール。デュッセルドルフ特有の黒いアルトビールを何杯も飲んでいた。最後に食後酒シュナップスがついており、このきつい味の料理にはすっきりして合っていた。寒い冬を過ごすための生活の知恵としての料理と理解できたが、この量と油っこさ、それに塩辛さでは日本人にとって毎日食べられるものではない。
  カーニバルが過ぎるとようやく寒波も一息ついた。春の新芽に備えてライン川土手のプラタナス並木の枝の剪定が始まった。ホッフガルテンの池に遊ぶカルガモたちも雄、雌ペアーの動きが活発になってきた。今年はいつカルガモ親子の行列が見られるのだろうか。昨年は4月4日(火)と私の日記には記されている。春が近いことを感じる。

1996年1月30日火曜日

モンテバルキ

モンテバルキにあるプラダ工場

オルヴィエート聖堂のファサード
ラベンナ ガッラ・プラチディア廟内壁のモザイク
  この冬休みは二度目のイタリア旅行。イタリアはフィレンツェから車でローマに向かう途中、高速道路から国道におり、イタリアではどこにでもあるような小さな町に立ち寄った。フィレンツェの南70km、山間の平地にあるモンテバルキという町である。人口数1000人ぐらいであろうか。イタリアはどこの町に行っても古い町並みが残され、古い建物のなかで普通の生活が営まれているが、このモンテバルキもその表現が当てはまる町であった。
  娘の希望でこの町に立ち寄ることになったのであるが、目的はプラダの工場である。今をときめく世界的に有名なブランドであるが、町に入っておばさんにプラダと聞いても反応はない。イタリア語しか通じない所なので発音が悪かったのかもしれないが、こんなに有名な名前を知らないとは不思議に思われた。ひょっとすると町が違うのではないかと思い、娘に再度聞いた。確かにモンテバルキという。車で町の中をうろうろした末、この町の駅に行くことにした。もしタクシーがおれば案内を頼むためである。幸いなことに一台待っており、さっそくプラダと告げた。わかったようで即ついてこいとのしぐさであった。工場に行く人が結構いるようでタクシー運転手は心得た感じであった。結局工場は町から約4km離れた民家もまばらな一角にあった。
  工場は平屋の普通の織物工場のようで、薄いベージュを基本色に赤い線が引かれた外観はモダンな建物であった。ただ建物自体はいかにも工場という形をしていたが、看板がないので知らなければプラダの工場と判断はつかない。この工場の一部を利用してショップがあり、プラダ製品を販売していた。中はたくさんの人でいっぱいであったが、そのなかに数人の日本人も見られ、はやりのリュックサックなどたくさん買い集めていた。
  我が娘も大喜び。さっそくリュックサック、服、小物入れ、靴など品定め。値段を見てみると、同じ商品が通常の半額以下という。たくさん買い込んで売れば儲かる話ではある。しかしよく見ると、これらリュックサックはただの合繊織物にすぎない。確かに普通の織物よりタッチはスムースで繊細ではあるが、所詮合繊の織物。どう高く見ても織物m当たり2000円が良いところ。これがリュックサックになると10万円近くになるというから驚きである。どう見ても2万円ぐらいで売るのが妥当な線。付加価値のつけられたブランドの威力をまざまざと見せつけられた。普通ならばばからしくて買う気にもならないが、半額以下とのことで娘にせがまれ、リュックサック、靴など買うことになった。
  そしてローマに近いオルビエートの聖堂のファサード、この装飾柄と彫刻の緻密さはすばらしい。それにも増してラベンナのモザイクには圧倒された。モザイクの基本の図柄はキリストに関係した宗教の図であるが、その周囲に描かれた文様柄と色にびっくりさせられる。ブルー、赤、グリーンなど色とりどりの独特の色彩は、今の時代の最新のカラーそのものであった。実はローマー時代に作られたものであり、このセンスの伝統が今のイタリアファッションの根底にあると理解できた。
  今、ファッションはイタリアからとよく言われる。プラダにしてもマックスマーラにしても、ベネトンにしても最近元気なのはイタリアブランドばかり。プラダのもともとの家業は皮革品メーカー。今ではファッションの総合メーカーとしてイタリアファッションの洗練された最高級ブランドとしてもてはやされている。しかしその商品作りは伝統的なもの作り技術とベーシックなデザインが基本となっている。
  マックスマーラーの黒のダウンにプラダのリュック。娘はルンルンであったが、旅行中大切なリュックサックの紐のミシンが解けてしまった。大変なショックのようであったが、また補修出来るといって慰めた。もともと、地元の人のために格安で売ることを目的に出来たショップと聞いていたが、実際は素人にはわからない2級品を売っているのではないかと疑いを持ちつつイタリアドライブの旅を終わった。
  年末、オルビエートから新年の挨拶状としてたくさんの絵はがきを出した。今になって電話をしてみると、イタリアの友達でさえ絵はがきを20日ごろ受け取ったという。日本へ出した絵はがきはおそらくまだ着いていないことと思う。なんといういい加減さ。これもまたイタリアである。
  創造の世界、伝統にもとずく工芸のテクニック、イタリアのすばらしい面と、また一方ではものごとがきちっとなされないルーズなイタリア。この両面がこの国の人々を表しているようだ。これは両輪であって、片方がなくなれば片方も成り立たなくなるものと思う。我々日本人はものごとをきちっと正確にする国民ととられていると思うが、きっちりと成し遂げるという価値観にあまりにもとらわれすぎて、今まで大きなものを失ってはいなかっただろうか。これからは、このイタリアから学ぶことが大いにあるように感じる。
  ベニスから北約30kmにベネトンの本拠地トレビゾがある。ベネトンがここに世界の異質の若者を集め、デザイン、写真、テキスタイルなどあらゆる分野の創造的活動の出来る学校“ファブリカ”を設立するという。古い建物を利用しながら新しい建物を作る計画で、この設計は、このベネトンの主旨に賛同した建築家の安藤忠雄さんが担当する。安藤さんの心が私にはよく理解できる。この学校が出来ればぜひ一度トレビゾも訪れたいと思う。

1995年12月30日土曜日

クリスマスプレゼント

ベーリングさん(ポーランド国境で待つ)
  この12月最初の日曜日、3日はAdvent(降臨節)である。正式にはクリスマスシーズンはこの日から始まるのであるが、すでに町のクリスマスマルクトは一週間前から人々で賑わっている。この日は各所でバザーなど催しものが行われ、そこでローソクのついた飾りを買う人が多い。ちょうど正月前の注連飾りのように。クリスチャンではないけれど、Dueseldorf近くの小さな町Lankのバザーで大きなローソクのついた飾りを2つ買い求めた。一つは自宅のテーブルの上を飾り、もう一つは大家さんにクリスマスプレゼントとしてさしあげた。まだ買っていなかったと喜んでもらえた。
  今年は11月早々にクリスマスプレゼントとしていただいたワインがある。これが最後の挨拶とも知らず、あまりにも早いプレゼントに疑問を持ちつつ、そのお返しを考えた。結局日本のものがよいと思い、博多人形をプレゼントすることにした。さっそく買い求め、もう少しクリスマスが近づけば訪問し手渡す考えでいた。
  11月29日、チェコを訪問し自宅へ帰ったとたん、電話が入った。「Schlechteste Nachricht(最悪のニュース)」と電話のドイツ人が言う。続いて、「Tod(死)」と聞こえた。その早いプレゼントの送り主、Wellingさんの突然の死の連絡であった。
  12月4日、気温はマイナス数度、この冬一番の冷え込みの日、午後1時20分からDueseldorfのSuedfriedhofの教会にて葬儀がとりおこなわれた。ドイツで生活して初めて葬儀に立ち会った。祭壇には花輪が置かれその真ん中に棺が置かれていた。聞くところによると彼の宗教はEvangelisch(プロテスタント)という。前もって花屋さんに依頼しておいた花輪には大きな白いリボンがかけられ、そこには“Als letzter Grusse”(最後のお別れに)と書かれていた。教会内は200人ぐらいであっただろうか、椅子に座れきれず立つ人でいっぱいであった。この5月、Wellingさんと一緒に援助物資を運んだポーランドの孤児院のご主人と子ども二人も車で急遽駆けつけていた。半年ぶりの悲しい再会であった。
  賛美歌に始まり、牧師さんが死者を弔い、その後バリトンとコーラスによる鎮魂歌、そして友人3名が追悼の辞を読む。また賛美歌を歌う。パイプオルガンと歌の厳粛な音が教会に響いた。教会での儀式の後、棺を先頭に参列者全員が墓地までゆっくりと歩き、深く掘られた墓地に棺がそのまま安置された。一人づつ棺に対し最後のお別れをする。この時頭を下げる人、持参した花束を添える人、篭に入れられた花びらを添える人などまちまちであった。私は花びらをそえ深く頭をさげ、亡き人を弔った。人間として何が大切で価値あるものか、実践によって教えてくれた人Wellingさんは、市井の偉大な人物の一人であったと思う。
  12月10日は次のAdvent。さらにもう一つローソクを灯す。そして、また一週間後さらにもう一つ、最終的に4つのローソクが灯されるとクリスマスとなる。博多人形は梱包されたまま我が家にそのまま置かれている。もうしばらく置いておいて、落ちつけば未亡人に手渡すつもりである。自分の死を予想してのプレゼントだったのか。Wellingさんからいただいたワインはこのクリスマス休暇に故人を偲びながらゆっくり飲むつもりでいる。