1993年12月30日木曜日

グリューワイン

  11月の下旬、降誕祭の4週間前の週末から、町ではクリスマスのMarkt(市の立つ広場)が始まる。ドイツでは平日の店は午後6時30分まで、土曜日も午後2時まで、日曜日は休み。クリスマスの季節になるとこのMarktが開かれるため、子供も含めて日曜日も夜まで賑わう。
  ドイツではこのMarktで必ずGlueweinが飲める。これは文字通りの意味では白熱のワインであるが、赤ワインにシナモン、アニス、チョウジなどのエッセンス、それに砂糖も入れ甘く、さらにはホットにして飲むもの。寒い夜には体が温まる。さすがのドイツ人も、寒い外での飲物としてビールよりもGlueweinを好んで飲む。
  今年はデュッセルのMarktのほかに、アーヘンのMarktでも味わったが、熱いアルコールの湯気にいつも咳き込んでしまう。熱いのでどうしてもフーフーするためである。熱さがある程度おさまるまではすすりながら飲まざるを得ない。
  キリストの誕生を祝うこのクリスマスに、Glueweinを飲みつつ、自分の心の中のより所たるものに祈るのが良いと思った。神を信じなさい、信じるものは救われるではなく、人それぞれがそれぞれの生き方のなかにある心の源に祈るのが本当の宗教ではないかと思っている。この意味では、キリスト教も歴史的に見れば大変な間違いを犯した時もあったのではないか。
  しかし、アーヘンのRathhaus(市庁舎)、Dom(大聖堂)に囲まれた広場のMarktに集まったたくさんの人々が、Glueweinを飲みながら楽しんでいるのを見ると、気難しいことは別にして、この楽しみが人には必要なのだと感じた。

1993年11月30日火曜日

シュタムティッシュ

  "Die Aermel sind zu lang" Japanischer Stammtisch in Dueseldorf.(袖が長すぎる、デュッセルドルフの日本人のシュタムティッシュ)の見出しで、私たちが楽しんでいるシュタムティッシュがデュッセルドルフのコミュニティ新聞Rhein-Boteで紹介された。
  シュタムティッシュとはそのまま訳せば「幹の机」という意味であるが、本当の意味は常連客が同じ食卓で飲んだり食べたりしておしゃべりをする集まりのことである。私たちの集まりにはドイツ人夫婦、奥さんがドイツと日本のハーフの夫婦など含めて5組の夫婦の集まりである。たまには子供も含めて家族の夕食を兼ねることもある。みなさん忙しいところをとにかく一ケ月に一回週末に会うようにしている。私達夫婦を除く日本人の方々はドイツ生活10~20年の方ばかりなので、おしゃべりは当然ドイツ語となっている。私たち夫婦にとっては会話は非常に難しく英語、日本語でも良いことにしてもらっている。
  話すことは食事、子供、教育、文化、スポーツ、政治など多岐に渡り、気取りもなく自由なおしゃべりの会である。夜8時頃から始め、いつも夜中1時頃まで過ごす。ドイツ語は難しいけれど時にはドイツ人の議論好きなところも見られる。この間、わが社では毎月月報なるものを書いていると話したら、”そんなもの書くの”とたいへんびっくりされ、むしろこちらがびっくりした。
  見出しは、ドイツで服を買うと日本人にとっては常に袖が長くぴったりしないとの話しをとったもの。この集まりはドイツ人の生活を理解するとともに、会社生活をしている自分とは違う世界が見られることがおもしろくもあり楽しみである。今後も続けたいと思っている。

1993年10月30日土曜日

ノイスと浮世絵

  デュッセルドルフのとなりにノイスという町がある。この小さな町の美術館に浮世絵が250点も保存されている。その内の約100点の調査が完了し、いま一般公開されている。ヨーロッパ各地にノイスと同じように意外な所に浮世絵が保管されている。ゴッホ、ゴーギャンなどの時代にただ同然で持ち込まれたものという。ノイスの浮世絵もただ同然に手にいれた人がこの美術館に寄贈したものである。
  絵の描き方自体は西洋のやり方とは全く異なっているが、浮世絵のすばらしいところ、即ち斬新な構図と色彩に感心を示し、印象派以後の西洋の画家が取り入れたのは良く知られている。パターン化された人物の描き方は決して西洋の画風に受け入れられるものではないが、良いところをあくまで褒めたたえるという姿勢はやはり西洋人の伝統であるように思う。(/p>
  一方日本は鎖国、これがむしろ幸いしその道を極めた人がたどり着いた結果が浮世絵。情報が入ればその周辺から抜け出せないのが常で、むしろ情報が入らない方が独創的・創造的なことが出来るという一面を示している。創造には異質なものを受け入れる度量と、また独自の世界に徹底的に埋没するという両面があるような気がする。

1993年9月30日木曜日

ベートーヴェンの第九

天皇皇后デュッセルドルフ来訪(日本週間・市庁舎にて)
  学生生活から離れて約20年、その後何回か合唱団への参加をトライしてきたがなかなか時間がとれず、長い間合唱の楽しみから遠のいていた。しかし久しぶりに合唱の感激をこのドイツで経験した。
  この9月、デュッセルドルッフは10年ぶりの日本週間。天皇皇后の来訪、歌舞伎、能、盆踊りなど純日本的な催しの他に、日独合同のベートーヴェン第9交響曲合唱の演奏が行われ、私も合唱団の一員として参加した。合唱団はデュッセルドルフに住む日本人の有志のみならず、日本からも自費で多数参加、ドイツ人も含めて総勢約500人の大合唱団であった。
  オーケストラはランプレヒト指揮フィルハーモニアフンガリア、ソリストとしてソプラノ、アルトは日本人、テノール、バリトンはドイツ人のプロが出演、会場は満席であった。
  私はバスパートであるが、この第九、バスでも高音のFの音がある。学生時代には出にくかった音であるがなぜかこの音が気持ち良く出る。オーケストラを背景に全員合唱の中でのこの音の響きは体中に響きわたりこのうえない歓喜(Freude)であった。もちろんそこにハモルという現象がさらにその歓喜を助長させる。ドイツ語は必ずしも正しく発音しているとは限らないがドイツ語でドイツ人と一緒に歌うことに特に感激した。ドイツの文化、いやいまや世界の文化かも知れないが、日本人とドイツ人が共同で演じる、このようなチャンスはこれからあるかどうか。Alle Menschen werden Brueder.(ひとみな兄弟となる)。まさしく歌が表現しようとしているそのものの体験であった。終わったあとドイツ人との握手は言葉なしに気持ちが完全に通じ合うものであり、ベートーヴェンの芸術家としての偉大さを体で感じた。
  私の持論ですが、演奏家は決して芸術家ではなく、ただのテクニシャン、音楽の世界で創造主といえるのはやはり作曲家であり、音楽の世界では作曲家が唯一の芸術家と再度認識した。
  それにしても、高音Fの音が気持ちよく出たのはなぜだろうと考える。学生の時と比べてどうも体重と体の鍛え方が違うようである。学生時代は50kgの体重、運動はほとんどしていなかった。30才台後半から水泳、ジョギング、自転車をやり始め、現在体重は67kg。ドイツへ来て出張が多く時間がとれないので運動量は減っているがそれでも時間があれば水泳など続けている。一般にプロのバリトン歌手が大きな体をしていることも今回理解出来た。

1993年8月30日月曜日

テレジン

  この夏チェコ、旧東ドイツに遊んだ。ドレスデンからプラハに至る途中にTerezinという町がある。国道沿いに煉瓦作りの古い不気味な建物に出くわす。ナチス時代の旧収容所跡である。跡とはいってもほとんど建物は昔のままに残してあり、昔ここで何が行われていたか想像が出来た。人々が寝泊まりした木製の大きな棚、上の方からわずかしか光が入らない独房、絞首刑台、死ぬまで石を投げつける刑の場所などがそのまま残されている。
  ここはまた、ナチスの対外的宣伝映画が作られた所としても知られている。収容所に入れられた人々の中には有名な音楽家もたくさんいたことから、これら人々を動員し収容所内で演奏会を開き、それを映画にとった。ナチスはその映画を各国にばらまき、音楽家を保護し活動出来る場を提供していると宣伝したのである。映画がとられた後は即、アウシュビッツのガス室行きであったという。
  アウシュビッツのような収容所はナチス時代無数にあったが、もう一つWeimar近くのBuchenwaldにも立ち寄った。ここにはガス室・残留品・写真などが展示されており、想像しただけでゾォートするものばかりである。人間が持つ残虐さの一面を思い知らされた。ちなみにこの収容所はアメリカ軍によって解放されている。
  しかし、当時この政策を正当化する論理があったと思う。当時ドイツ人の大多数がナチスと共に行動していたということは、その論理が正しいと主張する人間がおりかなりの人が同調したことによる。
  論理は真理ではなく仮説といつも思っている。自然科学の世界では論理は実証されてはじめて真理としての理論となる。実証がなされるまではただの仮説にとどまる。仮説には詭弁がつきもの。決着は自然科学の場合実証・実験によってつけられる。
  今までもよく経験していることであるが、自然科学の世界では予想と全く逆の結果が出てくる場合がよくある。これがまさしく科学の創造的発展に結びつく。しかし後で考えるとその全く逆の仮説を唱えている人が必ずいるもので普通の判断ではその確率があまりにも小さくそれが正しいと主張もできず議論にはならないのが普通である。
  実験結果によって詭弁は有無を言わさず退けられる。議論では決着はつかない。故に、自然科学の世界では、仮説を立てる人と共に、実験により実証する人も同じ価値を認められる。ノーベル賞は常に両方の人に与えられているのを見ても理解できる。
  しかし、自然科学以外の世界では実証は歴史を待たないと出来ない。たとえ歴史を待ったとしても要因を決めそのための実験をした訳ではないので因果関係を100%確定できない場合が多い。政治、社会、経済などの活動は基本は人間の活動から発するものであり人間の感情・気持ち・意志が重要な源である。人間の意志が届かない自然科学の世界でさえ論理優先でない。まして、それ以外の分野で論理のみが優先することは恐ろしいことと思う。
  人間は理性を備えた感情・気持ちを持っており、大きな尺度としてこの理性ある感情・気持ちを無視することはできない。言葉ではいえない気持ち感情が物事の判断の最後の決め手になる必要があると思う。それを忘れたり、無視させる社会、集団は健全なものにはなり得ない。
  ドイツでは昔の過ちを忘れないように、この大切な人間の理性のある感情を常に刺激するため、これら収容所跡をそのまま保存している。確かにあまりにも残虐で見るに耐えず気分が悪くなるが、この見たときの感情を維持するためには絶対に保存すべきものと思う。再発を防止する唯一の手段はこれを見たときの気持ちそのものであり、論理ではない、とつくづく感じた。

1993年7月30日金曜日

安藤忠雄

  この春から夏にかけての数ケ月間、ルフトハンザ航空の機上誌の表紙を飾っていたのがこの安藤忠雄さん。飾り気のない大きな顔写真が出ていた。
  ドイツに来るまでこの人の存在を知らなかった。知ったのは、ドイツに来てまもなくの頃、家でドイツのテレビのチャンネルをぐるぐる回していたら、突然、大阪べんなまりの、大阪のどこにでもいるようなおじさんという感じの人がインタビューを受けているのを見た時であった。約一時間の番組で、ドイツ語訳字幕が出るが大阪なまりはそのまま聞けるため、ようやく世界的に名声を博している建築家ということが分かった。建築家といえば丹下とか黒川とかいう名前しか知らない門外漢の私にとって意外な外観の人であった。
  二回目の出合いがルフトハンザの機上誌。そしてこの人の経歴を知ったのが最近の日本の新聞記事を読んだ時であった。それによると、大学にも行かず独学で建築学を学んで、特に海外で活躍しているという。もちろん日本でもある程度認められていた人とのことであるが、むしろ海外で有名になりその後、日本でもさらに有名になったようである。
  音楽の世界も常にこのパターンであり、そのほかの分野でもこのような例はたくさんある。日本では何か肩書きをつけないと売れない。本質を見ずに外観を見る。ヨーロッパは表面上の欠点を探すのではなく、良さ、ユニークさ、独創性を引き出し、本質を受け入れる度量があるように思う。
  論語読みの論語知らず程、たちの悪いものはない。論語読まなくても論語を知る人が本当のその道の大家で有り得るといつも思っている。習って一流になるのは凡人の証明。私なんかは習っても一流にはなれない凡人のまだ下かも知れない。けれど、習わなくても出来る事はあり、私もその点においては非凡なのか。安藤忠雄は建築の道での数少ないその道の大家ではないかと思い、機会があればこの人の作品たる建築を見てみたいと思っている。

1993年6月30日水曜日

ドレスデン

  日本からの出張者と共にドレスデンを訪問する機会があった。行きはアウトバーン4号にて着いたが、帰りは72号を通った。道の悪いのにはまいった。4号は改修されており旧西ドイツ並みになっていたが、この72号はひどい。現在一部改修中であったが、まだほとんどの道は表面が凸凹しており、スピードは出せない。おそらく開通したあと修理がなされていなかったのではないかと思う。これが旧東ドイツの現状だったのかと初めて実感した。
  さらには、ドレスデン市内には、かの有名な自動車、トラバントがたくさん走っている。たまたまボディが壊れた車が駐車されていたので見てみると、確かに合板のような材料でボディが出来ている。型は30年程前に日本で走っていた旧スズライトと似ており、どうみてもそれ以来進歩が無かったということのようである。
  なぜこのような事が起こったのか。もちろん旧東ドイツの良い面もたくさんあったと思うが、マイナス面が西ドイツとの比較であまりにも目立つ。性善説的見方からすると、東ドイツは理想郷として素晴らしい国の一つとなったかもしれないが、残念ながら、長い間一握りの人間、集団に権力が集中すると性善説が成り立たなくなることを証明したようだ。
  多様な人格の尊重、頭脳の多様性を認めない、一つの価値観だけが支配的な社会・体制の究極の姿の一例と思う。もう一つ、もっと極端な例としては戦前のドイツ・日本があるがこの場合はまた別の形での結末を示したが。
  しかし、程度の差こそあれ、政治を含めた日本のいたるところにある集団、人の意識にも同じ様な事が言えるような気がするし、また会社にもその可能性があるような気がする。論理的、理想論的でだけではなく、現実論として価値観の多様化が実現できる具体的な体制を積極的に作る時期ではないかと思う。
  ドレスデンでは戦時中破壊された教会などがようやく再建されつつあり、旧東ドイツでは道路の改修などに相当な経費が使われている。ドイツの完全な立ち直りにはまだ時間がかかるように感じる。しかし、私の知っている範囲では、現在のドイツでは価値観の多様性を考えたシステムが色々な場面で機能しており、いずれ数年の後には再び盛り返すだろうと思う。

1993年5月30日日曜日

ゾーリンゲン

ゾーリンゲン近くブッパタール川に架かるドイツで一番高いミュングステン鉄橋
  先日の日曜日、ドライブの帰りにX線の発見で有名なレントゲンの生まれた町、Remscheidに立ち寄った。レントゲンの生まれた町は正確にはその一部のLennepで、この町に入る所に繊維機械のBarmag社がある。
  レントゲン博物館を見た後、隣町の刃物で有名なゾーリンゲン中心を通ってデュセルドルフに帰えろうとしたが、ゾーリンゲンの中心に入ったとたん車は動かなくなり、前方20m先に大群衆が見えてきた。トルコの国旗を振っている。トルコ人のデモであることが分かった。トルコ人の家が焼き討ちにあったことからこの数日前からトルコ人の抗議デモが増えている。その一つと思われた。数にして数千人はいると思われた。数10万人のこの町でこれだけのトルコ人が集まるということは、いかにドイツ国内にトルコ人が多いかを認識させられた。
  今までドイツ人がやりたがらない仕事を安い給料でこなしてきた彼らを、一般的には評価し労をねぎらう気持ちが支配的である。この数年外国の難民が大量に進入していることは事実であるが、現在のドイツの経済的苦境、失業率の高さの原因の矛先をトルコ人に向けるのは問題であると思う。日本でも外国労働者の問題は現実化しつつあるけれど、いずれ問題になればその原因を外国人のせいにすることは簡単に起こりそうである。
  いかにその国が人間を考えた民主社会かの判断はこのような極限になったときにどのような解決をはかるかで見きわめられる。ドイツは戦後の民主主義の一つの理想を変更する瀬戸際にあるように思う。
  難民の無制限受け入れを修正しだしたのもその一例である。その際には、ぜひ人間というものを第一に考えた方策を考えて欲しいものと考えつつ約30分ほど成りゆきを見ていたが、ポリスがバックせよとの指示をしたため後戻りし、別の道にて帰宅した。ストップしているとき、戻るときとも群衆に攻撃されないかと心配したが、みんな我々と同じ普通の市民であり何も問題はなかった。

1993年4月30日金曜日

イースター

  日本のゴールデンウイークは4月末から5月初めにかけてあるけれど、ヨーロッパではキリストが復活するというイースター休みがそれに当たるのではないだろうか。ドイツでは日曜日をはさんで金・土・日・月の4日連休となる。もちろん、ヨーロッパの人々はこれとは関係なく休みをとるので、この時は家でゆっくりと過ごす人が多いようだ。一方、日本人にとっては旅行出来るチャンスである。
  しかし、今年は妻が所用で一時帰国していたためデュッセルドルフでゆっくりと過ごすことにした。金と月は日本からのファックスをチェックに午前中事務所に出かけ、午後自分の好きなように過ごした。金と土は晴天であったので、1日目はジョギングに汗を流し、2日目は自転車でデュッセル市内、市外をサイクリング、3日目の日曜日はあいにくの雨。外出出来ないのでオペラを見に行った。ホフマンの舟歌で有名なオッフェンバッハのホフマン物語であったが運よくチケットを買う事が出来た。いつものことながら、人間の肉声の迫力、繊細さを堪能して帰った。最後の日も小雨、しかしやみそうな感じなのでドライブに出かけた。アーヘンからトリアに向う道にはドイツでは珍しい景色の良いところがあり、川、湖、林などにたくさんの人が出向いていた。
  再度感心させられたのは自然がよく残されており、人々は車で近くまで出かけて、車から降りて散歩を楽しむのがドイツ的休みの過ごし方の一つのようだ。我が家はライン川の側にあるが、川沿いに散歩・ジョギングコース、サイクリングコースがあり、いつでも楽しむことが出来る。自然を残すと言うより自然のなかで生きている。
  自然の中では、人の考える事などちっぽけでわがままなもの。自然科学の世界ではこの人のはかない考えを実証主義により常に修正しわがままを押さえることにより、近代の自然科学の成果が得られた。実証主義が認められなければ、未だに人類ははかない論理、わがままな論理、都合の良い論理などで支配され、自然科学の世界は今のような発展はなかっただろう。
  とはいえ、自然科学の世界でも人が知り得たのはほんのわずか。自然の神秘はまだ依然として大きい。試行錯誤がずっと続く。人は自然のなかで生きているということを忘れると、いずれ自然の大きな逆襲に会うのだろう。自然と共に生き、自然を守る。ドイツは少なくともそれをしなければならないと努力していることを今回も肌で感じた。

1993年3月30日火曜日

ヨーロッパの生活

  今月は日本からの出張者と南ドイツを車で回ったが、シュッツガルトからミュンヘンへの移動の途中、ウルムに立ち寄った。聖堂の高さが164mで世界一の高さで有名である。たまたまその中でパイプオルガンが奏でられていた。教会の中でのパイプオルガンの音はCDでもかなわないすごみがある。日本からの出張者もそのすばらしさに感激していた。それに加えて、こういう音楽が身じかに聞け、しかも、格安で、時には無料で楽しめることを説明、これには驚いていた。

  短いヨーロッパ滞在期間なので、日本では経験出来ないことを極力実行しようと努めているが、その一つが音楽。時間があれば、近くの教会、小さなホール、大きなホール、オペラハウスなど出かけて楽しんでいる。日常の生活の中で自分の好きな時に音楽を楽しめる。たとえ無料(教会の場合専属の演奏者は無料の時が多い。)、あるいは安いチケットでもいずれもプロであり腕前は上々だ。デュッセルドルフのオペラハウスも毎日のように開演しており、ふと時間があれば聞きに、見に行くことが出来る。さすが超人気のオペラ、たとえばアイーダ、カルメンなどの時には数週間前に売り切れになっており入れない場合もある。出張などで予定が変わることが多い今の仕事では数週間前に予約する事は出来ずこの点は我慢せざるを得ない。

  ヨーロッパ人が生活の中で身じかに音楽を楽しんでいるのを見て、日本での音楽の受けとめ方があまりにも教条主義的で、権威主義的であるかを思い知らされる。一昨年かの有名な小沢征爾とまたまたあまりにも有名な斉藤記念オーケストラがデュッセルドルフのトーンハーレに来たが、会場は日本人で超満員であったという。私はあえて行かなかったが、身じかで行われている演奏会にはほとんど日本人は見られないことを知っている私にとって、あまりにも好対照を示している出来事として記憶に残っている。

1993年2月28日日曜日

カーニバル

  今月はデュッセルドルフのカーニバルがあった。来独の年は湾岸戦争のため中止、昨年はパリへ遊びに行ったため初めての見る機会だった。21日は私の住んでいるオバーカッセル地区のカーニバル、22日はデュッセルドルフ全体のカーニバルで二日間楽しめた。
  ドイツの冬はどんよりとして寒くちょうど北陸の雰囲気に加えて日照時間が非常に短い。とにかく冬場は何か楽しいことをしないとやって行けない。11月ごろからクリスマスの雰囲気の中で1月初めまで楽しみ、その後2~3週間の休暇をとる人もある。またある人はこのカーニバルまでは何とか耐えてこのカーニバルでもうすぐ春が来るのでもうひとふんばりがんばろうとの思いがあるようである。
  この2日とも0℃付近の温度で昔に比べると暖かいとのことであるが私にとっては寒い中でのカーニバル見学であった。地区のカーニバルでは日本人小学校2年生が忍者姿でパレード、紙で作った手裏剣をまいていた。海外での生活で大切なのは極力郷に従うことであり、これもその一つとして地区での交流に役だっている。
  デュッセルドルフのメインのカーニバルではコール首相の大きな山車が2台パレード。その一つは、2つのコール首相を並べて、最初は1990年として笑顔で手を振る姿、つぎは1993年としておおきな轡に首と両手首をはめられ苦しんでいる姿、そこに書かれた言葉はDie Einheit(統一)、もう一つはきびしい表情のコール首相の姿で、書かれている言葉がWir muesen sparen.(我々は節約しなければならない。)、まさしく今のドイツの状況を物語っていた。
  しかし、パレードに参加している人も、見ている人も、ビール、ゼクト(炭酸入りの白ワイン)などを飲みつつHelau, Helauと大きなかけ声をかけ底抜けに楽しんでいた。

1993年1月30日土曜日

ギリシャ

スニオン岬遺跡とエーゲ海
ロードスのビーナス(紀元前1世紀)
第1回近代オリンピック競技場

  この冬休みはギリシャを旅行した。暖かい所と思っていたが、ちょうどヨーロッパ全体が寒波の時であったため、前半は雪にも見舞われ天気はさんざんであった。しかし、トルコに近いロードス島では天気に恵まれエーゲ海、地中海の青い海を堪能した。

  紀元前の神話信仰に支えられた古代ギリシャ文化を知ると共に、この神話がその後ミケーネ遺跡の発見で事実であることが判明したことなど興味深かった。まだ発見されていない遺跡はたくさんあるようで、発見ごとに歴史が塗り替えられる可能性があるという。日本でも、旧天皇陵を発掘すれば相当な歴史が判明するのではないかと思う。

  紀元後はローマ帝国による支配から、キリスト教中心の文化となるが、その後オスマントルコの支配でギリシャは苦難の歴史を歩む。当時、ギリシャ人はトルコの支配で奴隷同然の扱いだったという。ロードス島にはイスラム教の寺院もたくさん見られた。

  19世紀にようやく独立戦争によりトルコから独立するが、そのさなかギリシャ独立軍がトルコ軍にダメージを与えると、すぐトルコはトルコに近い島の住民を虐殺したというように、人間のやることは昔も今も変わっていない。

  歴史を習っても生かされない、難しい問題である。私の持論ですが、論語読みの論語知らずになるよりも、むしろ論語読まなくても論語を知っている人が世の中をリードすることが待ち望まれる。

  ローマ帝国が東西に分裂して東に残ったのがギリシャ正教、カトリックと比べて教会は質素で、またキリスト像もない。未だに土葬とのことでアテネでは墓不足とのこと。ロードス島でマツダの三輪トラックが未だ走っているのを見て、ECの経済統合の中でギリシャは今後も経済的にはきびしい状況が続くと感じた。