1996年3月30日土曜日

ウイリアムズタウン

  我が家に二つの油絵の再生画がある。一つはモネの”睡蓮”、もう一つはルノワールの”コンサートにて”である。睡蓮についてはすでに各所の美術館で本物に出会うとともに、またフランスはジベルニーにあるモネの住居跡を訪れ、その庭にある睡蓮を鑑賞しモネが自然をいかに表現しているか実感した。しかし、もう一つの絵“コンサートにて”は今までなかなか本物に出会うことが出来ず、どこに本物があるのかいろいろな美術書を当たって探していた。パリのオルセー美術館にある“ピアノに寄る娘達”は何回か本物を見ているが、この絵と“コンサートにて”の描き方は、再生画を見る限り全く異なっているように私は感じ、ぜひとも本物を見たいと常々考えていた。ようやく昨年、アメリカはウイリアムズタウンのスターリング アンド フランシーヌ クラーク アート インスティチュート(Sterling and Francine Clark Art Institute)にあることを突き止めた。
  18年前、我が家に二人目の娘が誕生したとき、なにか娘達にふさわしい絵はないか探した。たまたま再生画の“コンサートにて”に出会い、将来娘達にもこのようなコンサートでの場面があればと願いつつ、黒と白のドレスのコントラストとそのなかに鮮やかな色彩の花束が入ったこの絵が気に入り、その作者が誰かとも知らずに買い求めた。その後まもなく、再生画自体にルノワールのサインが入っていることに気がつき、その作者を知った。それ以来ずっと東京、デュッセルドルフと我が家に飾られ、一方では実生活においても何度かこの絵と同じような場面を経験してきた。
  この3月アメリカ出張の際、日曜日を利用してマサチュセッツ州にあるこのウイリアムズタウンを訪問することを試みた。ニューヨークの北250km、ハドソン川に面したニューヨーク州の州都オルバニーから東へ車で約1時間、峠を越えると低い山に囲まれた盆地にこの町ウイリアムズタウンがあった。距離にして約50kmであった。町自体は小さく人口数千人といった感じである。この町の南はずれの森の中に茶色いタイルと白い外装の二つの建物が連なった美術館、スターリング アンド フランシーヌ クラーク アート インスティチュートがあった。
  この美術館は観光名所としてはほとんど知られていないことから、見学者はわずか数人であった。スターリング クラークが1910年代パリに住んでいたとき、その後夫婦でウイリアムズタウン近くの町に住んでいたとき、当時のフランス美術界のアカデミックな風潮に影響されることなく自分たちの好みに従って絵画を買い集めた。それらを公にするため1955年に夫婦でこの美術館を建てたという。作品の蒐集は夫人との共同作業であったことから夫人の名前フランシーヌが入っている。
  1894年一人のルノワール蒐集家がなくなり、その遺言で作品をフランス政府に寄贈することになったが、このような輪郭がはっきりしないぼけたような絵は引き取るに値しないとして当時のフランスアカデミーは猛反対した。その結果引き取られなかった作品が各国に散らばってしまうことになった。フランス政府が引き受けたルノワールの作品はパリのオルセー美術館で見ることが出来るが、かなりの作品が各国の美術館に散らばってしまった。その美術館の一つがこのスターリング アンド フランシーヌ クラーク アート インスティチュートである。
  この美術館に集められているルノワールは彼の後期の肉体感豊かな女性の絵はなく、むしろ中期頃の目元がきちっと描かれた比較的細身の肖像画と人物画が多く、また色彩が豊かで鮮やかなものがほとんどであった。ルノワールの初期から中期の作品は当時あまり評価されず、晩年になってようやく評価されるようになった。イレーヌで有名な女の子の横顔の絵は中期の作品で、ある資産家の奥さんがあまり売れていないルノワールに自分の娘の肖像画を書かせたもの。奥さんご自身の肖像画は当時もっと画料の高かったた別の画家に描かせたという。その画家はその後誰も知らない存在となり、いまではルノワールの描いたイレーヌだけが世界に知られることになった。もしこの時、この奥さんが自分の肖像画をルノワールに描かせていれば、現在では彼女が世界に知られることになっていたであろう。
  お目当ての絵が見られると心をときめかしながら絵を見て回った。しかし、ルノワールがずらっと置いてある中央の大広間の展示室にもお目当ての絵がない。さらに別の部屋を見回ったが、他のルノワールの絵はあっても、肝心の絵がない。最後に中世の絵の部屋を見たがとうとう見つからなかった。
  がっくりして、入口の係員に聞いた。入口に置いてあるパンフレットの表紙にはまさしく“コンサートにて”がのっている。それをさして、この絵はどこにあるか聞いた。答えは倉庫。現在一部改造工事中でそれが終わるこの7月にはまた展示するという。わざわざドイツからこれを見に来たと説明し見せてほしいと交渉したが日曜日のため担当がいないとのことで断られた。あきらめざるを得なく、他のルノワールを楽しんだことを満足に感じ美術館を出ることとした。
  美術館ロビーに書かれたスターリング クラークの言葉。“絵を鑑賞するための指導書はないですかとの質問をよく受けるが、これに対しては、あなたが自分自身でじっくり見て感じることそのものが絵を鑑賞することであり、指導書などありませんといつも答えています。”作者が誰であろうと自分の目で見て自分が気に入ればそれがすばらしいのであって、その道の大家がいろいろ理屈を並べて良さを勧めるからとか、有名な画家だからといって作品に接することほど馬鹿なことはないのである。音楽についても全く同じことが言え、このクラークの言葉は私には良く理解できる。
  帰り美術館の売店で気に入った絵はがきを買った。本物では独特の色彩鮮やかな絵がたくさんあったが、残念ながら絵はがきでは本物の色は出ておらず、やはり本物のすばらしさを認識した。しかし、我が家にある再生画“睡蓮”ではすでに何回か本物との比較をしており、限りなく本物に近く、家でも十分に味わえることを体験している。“コンサートにて”の場合はどうであろうか。今回は空振りに終わってしまったが、次の機会を楽しみに待ちたい。

1996年2月28日水曜日

グリュンコール

  ドイツに赴任してすぐの1991年の2月、-10℃~-15℃の日が続いた。デュッセルドルフの南にあるベンラート城の前の池は完全に凍り、たくさんの人がスケートを楽しんでいた。このお城の庭園には500mくらいの細長い池がある。いつもは白鳥やカルガモの住みかであるが、完全に凍ってしまって、即席のアイスリンクとなり、子どもたちがアイスホッケーに興じていた。
  話はそれるけれど、この厳寒の時に、前任者の送別会としてゴルフをしたことを覚えている。前任者はことのほかゴルフが好きだったことから段取りされたものだけれど、池のみならず地面、芝生すべてが凍りついた所でのゴルフであった。地面が凍っているためキーが立たない。後で知ったことであるが、このためにゴム製のボール立てがあるという。ほとんどキーが使えない状態で、ボールはどこかへ跳ねて不明になる。池に入っても氷に跳ねてロストボール。ボールは数え切れないくらいなくしたような記憶がある。このような悪コンディションでも上手な前任者はちゃんと実力を発揮した。それに反して、私のようなへたくそは初めてコースに出たときよりもまだ悪いスコアーであった。あの寒さが、冷めかけていた私のゴルフ熱を完全に凍らせてしまったように思う。
  その後、この5年間このような寒波はなく、ドイツの人々からドイツには本格的な冬はなくなったとさえ聞いていた。それに加え夏が極端に暑くなり、地球の温暖化といわれる現象をまさに経験し、もう寒い冬は来ないだろうと思っていた。が、この2月、日本からの出張者と共にポーランドを訪問したとき、寒波がやってきた。
  ポーランドの古都クラッカウを訪問したとき-22℃。クラッカウから訪問先のウクライナ国境に近い町サノックに向かう車はヂーゼル車。走り出してまもなくトラックを追い抜こうとしたが、ブスブスといやな音をたてはじめ失速してしまった。寒さのため軽油が気化しないためである。運転手はゆっくりと走って近くのガソリンスタンドに車を止めた。運転手は車にアルコールを飲ませるといって、軽油ではなくガソリンを入れた。ガソリンのおかげでまた正常に走り出したが、まもなくまたのろのろ運転。再度ガソリンを入れる。また動き出す。何回繰り返しただろうか。とうとう、ガソリンスタンドのないところで完全に止まってしまった。運転手は民家にガソリンをもらいに出かけた。そして再度動き出した。車の中は暖かいためにガラスの内側が曇るがガラスが冷たいことから内側が凍っている。日が昇るにつれて若干気温があがり、その後何とか目的地までたどり着けた。外に出るとすぐ耳たぶが痛くなり、10分も外にはいられない世界であった。
  通勤のウォーキングをはじめて早いもので4年が過ぎた。往復8kmのライン川沿いの道を、土砂降りでない限り、寒い日も、暑い日も歩き続けている。ウォーキングを始めてから今まで寒くてもせいぜい-5℃ぐらいだったので、むしろ朝の引き締まった空気の肌をさす気分が気持ち良いこともあり、通勤のウォーキングが楽しみの一つになっている。
  ポーランドから帰ったあと、-10℃の朝もウォーキングで通勤。この寒さではいつも出会う人とは会わないだろうと思っていたがそうではなかった。乳母車を押して散歩している奥さん、犬を連れて散歩しているおばあさん、町なかのホッフガルテンで出会うおじいさんのグループ、いつものみなさんに出会った。さすがに寒いので耳カバーがなければ歩けないが、早足で歩くとこの寒さでも15分ぐらいで体が暖かくなってくる。聞くところによると、赤ん坊の時からこの寒さを体験し皮膚を刺激することが健康を維持する一つの方法という。ウォーキングをずっと続けてみると、ドイツ人の生活の知恵が理解できる。
  このような背景からか知らないがドイツ人は散歩が大好きである。時間があればそれぞれ散歩を楽しんでいる。ドイツは積極的に自然を残す努力をしている結果、大都会でさえ必ず近くに散歩できる森、公園がある。またグループで森を歩くヴァンデリンググループもたくさんある。
  先日の土曜日、ヴァンデリンググループの一つに参加することができた。このグループ、若い人で20歳代、最年長で87歳。このおばあさん、赤いゴアテックスのようなジャケットを着てヴァンデリングシューズで決めている。坂ではゆっくりとなるが、普通の森の道では若い人と変わりのないテンポで歩くのには驚いた。
  2時間のヴァンデリングの後は森のはずれにあるレストランで食事をする。料理は有名な冬のドイツ料理、グリュンコールである。この野菜はほうれん草の2倍以上の大きな葉っぱでしかも冬霜が降りると味が良くなるという寒い冬の貴重な野菜である。その葉っぱをきざみ豚肉のだしなどで煮込んであり、大きなお皿一杯に盛られている。その上におおきな豚肉のスライスと太いソーセージが添えられる。量はたっぷりである。
  87歳のおばあさんはぺろりと食べてしまった。わたしは、塩辛いのと、ソーセージの油っぽさ、量の多さに閉口だが、時間をかけてなんとか食べた。もちろん飲み物はビール。デュッセルドルフ特有の黒いアルトビールを何杯も飲んでいた。最後に食後酒シュナップスがついており、このきつい味の料理にはすっきりして合っていた。寒い冬を過ごすための生活の知恵としての料理と理解できたが、この量と油っこさ、それに塩辛さでは日本人にとって毎日食べられるものではない。
  カーニバルが過ぎるとようやく寒波も一息ついた。春の新芽に備えてライン川土手のプラタナス並木の枝の剪定が始まった。ホッフガルテンの池に遊ぶカルガモたちも雄、雌ペアーの動きが活発になってきた。今年はいつカルガモ親子の行列が見られるのだろうか。昨年は4月4日(火)と私の日記には記されている。春が近いことを感じる。

1996年1月30日火曜日

モンテバルキ

モンテバルキにあるプラダ工場

オルヴィエート聖堂のファサード
ラベンナ ガッラ・プラチディア廟内壁のモザイク
  この冬休みは二度目のイタリア旅行。イタリアはフィレンツェから車でローマに向かう途中、高速道路から国道におり、イタリアではどこにでもあるような小さな町に立ち寄った。フィレンツェの南70km、山間の平地にあるモンテバルキという町である。人口数1000人ぐらいであろうか。イタリアはどこの町に行っても古い町並みが残され、古い建物のなかで普通の生活が営まれているが、このモンテバルキもその表現が当てはまる町であった。
  娘の希望でこの町に立ち寄ることになったのであるが、目的はプラダの工場である。今をときめく世界的に有名なブランドであるが、町に入っておばさんにプラダと聞いても反応はない。イタリア語しか通じない所なので発音が悪かったのかもしれないが、こんなに有名な名前を知らないとは不思議に思われた。ひょっとすると町が違うのではないかと思い、娘に再度聞いた。確かにモンテバルキという。車で町の中をうろうろした末、この町の駅に行くことにした。もしタクシーがおれば案内を頼むためである。幸いなことに一台待っており、さっそくプラダと告げた。わかったようで即ついてこいとのしぐさであった。工場に行く人が結構いるようでタクシー運転手は心得た感じであった。結局工場は町から約4km離れた民家もまばらな一角にあった。
  工場は平屋の普通の織物工場のようで、薄いベージュを基本色に赤い線が引かれた外観はモダンな建物であった。ただ建物自体はいかにも工場という形をしていたが、看板がないので知らなければプラダの工場と判断はつかない。この工場の一部を利用してショップがあり、プラダ製品を販売していた。中はたくさんの人でいっぱいであったが、そのなかに数人の日本人も見られ、はやりのリュックサックなどたくさん買い集めていた。
  我が娘も大喜び。さっそくリュックサック、服、小物入れ、靴など品定め。値段を見てみると、同じ商品が通常の半額以下という。たくさん買い込んで売れば儲かる話ではある。しかしよく見ると、これらリュックサックはただの合繊織物にすぎない。確かに普通の織物よりタッチはスムースで繊細ではあるが、所詮合繊の織物。どう高く見ても織物m当たり2000円が良いところ。これがリュックサックになると10万円近くになるというから驚きである。どう見ても2万円ぐらいで売るのが妥当な線。付加価値のつけられたブランドの威力をまざまざと見せつけられた。普通ならばばからしくて買う気にもならないが、半額以下とのことで娘にせがまれ、リュックサック、靴など買うことになった。
  そしてローマに近いオルビエートの聖堂のファサード、この装飾柄と彫刻の緻密さはすばらしい。それにも増してラベンナのモザイクには圧倒された。モザイクの基本の図柄はキリストに関係した宗教の図であるが、その周囲に描かれた文様柄と色にびっくりさせられる。ブルー、赤、グリーンなど色とりどりの独特の色彩は、今の時代の最新のカラーそのものであった。実はローマー時代に作られたものであり、このセンスの伝統が今のイタリアファッションの根底にあると理解できた。
  今、ファッションはイタリアからとよく言われる。プラダにしてもマックスマーラにしても、ベネトンにしても最近元気なのはイタリアブランドばかり。プラダのもともとの家業は皮革品メーカー。今ではファッションの総合メーカーとしてイタリアファッションの洗練された最高級ブランドとしてもてはやされている。しかしその商品作りは伝統的なもの作り技術とベーシックなデザインが基本となっている。
  マックスマーラーの黒のダウンにプラダのリュック。娘はルンルンであったが、旅行中大切なリュックサックの紐のミシンが解けてしまった。大変なショックのようであったが、また補修出来るといって慰めた。もともと、地元の人のために格安で売ることを目的に出来たショップと聞いていたが、実際は素人にはわからない2級品を売っているのではないかと疑いを持ちつつイタリアドライブの旅を終わった。
  年末、オルビエートから新年の挨拶状としてたくさんの絵はがきを出した。今になって電話をしてみると、イタリアの友達でさえ絵はがきを20日ごろ受け取ったという。日本へ出した絵はがきはおそらくまだ着いていないことと思う。なんといういい加減さ。これもまたイタリアである。
  創造の世界、伝統にもとずく工芸のテクニック、イタリアのすばらしい面と、また一方ではものごとがきちっとなされないルーズなイタリア。この両面がこの国の人々を表しているようだ。これは両輪であって、片方がなくなれば片方も成り立たなくなるものと思う。我々日本人はものごとをきちっと正確にする国民ととられていると思うが、きっちりと成し遂げるという価値観にあまりにもとらわれすぎて、今まで大きなものを失ってはいなかっただろうか。これからは、このイタリアから学ぶことが大いにあるように感じる。
  ベニスから北約30kmにベネトンの本拠地トレビゾがある。ベネトンがここに世界の異質の若者を集め、デザイン、写真、テキスタイルなどあらゆる分野の創造的活動の出来る学校“ファブリカ”を設立するという。古い建物を利用しながら新しい建物を作る計画で、この設計は、このベネトンの主旨に賛同した建築家の安藤忠雄さんが担当する。安藤さんの心が私にはよく理解できる。この学校が出来ればぜひ一度トレビゾも訪れたいと思う。

1995年12月30日土曜日

クリスマスプレゼント

ベーリングさん(ポーランド国境で待つ)
  この12月最初の日曜日、3日はAdvent(降臨節)である。正式にはクリスマスシーズンはこの日から始まるのであるが、すでに町のクリスマスマルクトは一週間前から人々で賑わっている。この日は各所でバザーなど催しものが行われ、そこでローソクのついた飾りを買う人が多い。ちょうど正月前の注連飾りのように。クリスチャンではないけれど、Dueseldorf近くの小さな町Lankのバザーで大きなローソクのついた飾りを2つ買い求めた。一つは自宅のテーブルの上を飾り、もう一つは大家さんにクリスマスプレゼントとしてさしあげた。まだ買っていなかったと喜んでもらえた。
  今年は11月早々にクリスマスプレゼントとしていただいたワインがある。これが最後の挨拶とも知らず、あまりにも早いプレゼントに疑問を持ちつつ、そのお返しを考えた。結局日本のものがよいと思い、博多人形をプレゼントすることにした。さっそく買い求め、もう少しクリスマスが近づけば訪問し手渡す考えでいた。
  11月29日、チェコを訪問し自宅へ帰ったとたん、電話が入った。「Schlechteste Nachricht(最悪のニュース)」と電話のドイツ人が言う。続いて、「Tod(死)」と聞こえた。その早いプレゼントの送り主、Wellingさんの突然の死の連絡であった。
  12月4日、気温はマイナス数度、この冬一番の冷え込みの日、午後1時20分からDueseldorfのSuedfriedhofの教会にて葬儀がとりおこなわれた。ドイツで生活して初めて葬儀に立ち会った。祭壇には花輪が置かれその真ん中に棺が置かれていた。聞くところによると彼の宗教はEvangelisch(プロテスタント)という。前もって花屋さんに依頼しておいた花輪には大きな白いリボンがかけられ、そこには“Als letzter Grusse”(最後のお別れに)と書かれていた。教会内は200人ぐらいであっただろうか、椅子に座れきれず立つ人でいっぱいであった。この5月、Wellingさんと一緒に援助物資を運んだポーランドの孤児院のご主人と子ども二人も車で急遽駆けつけていた。半年ぶりの悲しい再会であった。
  賛美歌に始まり、牧師さんが死者を弔い、その後バリトンとコーラスによる鎮魂歌、そして友人3名が追悼の辞を読む。また賛美歌を歌う。パイプオルガンと歌の厳粛な音が教会に響いた。教会での儀式の後、棺を先頭に参列者全員が墓地までゆっくりと歩き、深く掘られた墓地に棺がそのまま安置された。一人づつ棺に対し最後のお別れをする。この時頭を下げる人、持参した花束を添える人、篭に入れられた花びらを添える人などまちまちであった。私は花びらをそえ深く頭をさげ、亡き人を弔った。人間として何が大切で価値あるものか、実践によって教えてくれた人Wellingさんは、市井の偉大な人物の一人であったと思う。
  12月10日は次のAdvent。さらにもう一つローソクを灯す。そして、また一週間後さらにもう一つ、最終的に4つのローソクが灯されるとクリスマスとなる。博多人形は梱包されたまま我が家にそのまま置かれている。もうしばらく置いておいて、落ちつけば未亡人に手渡すつもりである。自分の死を予想してのプレゼントだったのか。Wellingさんからいただいたワインはこのクリスマス休暇に故人を偲びながらゆっくり飲むつもりでいる。

1995年11月30日木曜日

Weisheitszahn(親知らず)

  この数年前から、修理した歯のクラウンが外れ時には歯医者へ行って、外れたクラウンをそのままはめ込んでもらうように頼んでその場しのぎをしてきた。まもなく帰国するのだからそれまで我慢しようと決めていた。それに治療をしなかった最も大きな理由は、日本の歯医者ならわずかでも歯根が残っておればそこへ支柱を立ててでも正規の歯と同じように機能できるクラウンを作って修理してくれるが、ドイツの歯医者へ行けばすぐに抜いてしまうとの話、またその際の麻酔でのトラブルで入院したなどいろんな話を聞いていためである。
  しかし、この3月、友達の送別会の時にはなにも食べられなくなり、とうとう歯医者に行かざるを得なくなった。猫が年をとって歯がなくなり食べられなくなると静かにいなくなってそのまま死の床につくとの話を聞いたことがあるが、食べられないというのがこれほど辛いことかと初めて体験した。
  歯医者に行くと、案の定もう抜くしか手はありませんとの診断。しかも歯槽膿漏、歯周病というのか歯茎が腐っているため6本抜く必要があるという。聞いたとたんびっくりした。クラウンが外れ歯茎の痛む1本は抜かざるを得ないと覚悟していたが、クラウウンだけが外れた2本は修理可能と思っていた。ましてや現在正常と思われる歯まで抜くという。
  歯槽膿漏の治療としては歯根近くの腐った部分を歯茎の横から手術し取り出す方法があるというが、私の場合奥歯の歯茎のほとんどにわたってこのような手術が必要で、たとえ歯茎が治療されても歯自体が弱いので結局は抜くことになるとの説明。やむなく初日は痛む1本のみ抜くことで同意した。歯医者は一度に右上の2本、左上2本を抜くと言ったが、なんとか断った。
  結局心配した麻酔のトラブルもなく簡単に抜かれた。しかし、一部歯茎の切除のため、歯茎には大きな傷が出来た。帰りくれたのは痛み止めの処方箋のみ。薬局へ行きその薬を買い求めたが、抗生物質はくれなかった。ドイツではなかなか抗生物質をくれないというがその通りであった。それでも化膿することはなく、人体は自然治癒の力を持っていると実感した。
  その後も何回ともなく通っていると、まもなく正常と思われていた奥歯も痛みだし、結局当初歯医者が言った通り6本抜いて、右下以外の本来の奥歯はすべてなくなってしまった。しかし幸いなことに前歯はすべて健康でしかもそれに加えてヴァイスハイツツァーン(親知らず)が健康であった。このため、前歯と親不知でブリッジが出来き、入れ歯は免れることになった。
  いつだったか忘れてしまったが、親知らずが生えだしたとき歯医者に相談したら、親知らずはむしろ抜いた方が良いとの説明。正常な歯になりにくく、奥にあるため歯磨きが難しく虫歯になりやすいとのこと。しかし、せっかく生えてきた正常な歯を抜くことへの抵抗とまた役に立つこともあるのではと思い、痛さを我慢した。いつの間にか痛さも消え、そのままほっておいたが、結局きちっとした奥歯に成長していたようだ。
  ブリッジは歯科技工のマイスターが作り、装着の時にはそのマイスターが立ち会った。若干かみ合わせが高いとの指摘に対して再度持ち帰り手直しをするという丁寧さであった。ドイツのマイスター制度の一端を見た。親知らずと前歯との間に長いブリッジがはめられ、正常にものが食べられるようになった。この時ほど食べられるということがうれしく感じたことはない。すでにそのとき季節は8月になっていた。
  とにかく、歯医者の助言に従わなくて良かったと今思う。確かに将来何もなければ親知らずは無用の存在であり、合理的に判断すれば歯医者の言うとおりである。しかし、将来についてはいろんな見方が出来るのであって、なにを重きにおくかでそれぞれの人の行動が異なってくる。今の判断では無用でも、確率は少ないと思われていた事態の出現によって大変有用になる、大げさに言えば命さえ救うかもしれないということもある。たかが親知らずであるが、親知らずに感謝である。
  だけど、親知らずをすべて抜いてしまっていても、それはそれで入れ歯をすることで済んでしまい、親知らずを抜いたことに対する後悔の念を抱くこともなく過ぎ去るのだろう。親知らずが残っていたからこそ、そのありがたみを感じたのではないかと思う。
  お節介は避けたいが、もし若い人から親知らずはどうしたらよいかと尋ねられたら、我慢できるのならそのままにしておいたらと助言したい。今回私が経験した効用以上のものが発見される可能性もあるから。

1995年10月30日月曜日

ヴェッツラール

  昨年の12月21日、妻がある機会に知り合いになったドイツラインオペラのコロラチューラソプラノ歌手の番場ちひろさんから、ご自分が出演するオペラの招待券をいただきそのオペラを観ることがあった。この時の出し物はMassenet作曲"Werther"。有名なGoetheの若き時代の自分自身の体験に基づいた小説"Die Leiden der jungen Werthers(若きヴェルテルの悩み)"のオペラ版である。番場ちひろさんは1993年にDortmundで開催された広島被爆者援助チャリティコンサート"HIROSHIMA' 93"のソリストの一人として出演、その演奏会録画が日本のテレビでも放映され見られた方も多いと思う。

 この10月、社長、専務、常務など日本から多数の来欧者があった。専務一行の会社訪問が早く終わり、Frankfurt20:00発の飛行機まで時間があったことから、私の車で近くのどこかへ案内することになった。以前Dueseldorfに駐在経験のある常務の提案からWetzlarへ行こうということになった。初めて聞く町の名前のため地図を調べた。場所はFrankfurtから北へ約40kmにある、小さな町であった。
  町の中心部近くにはその昔世界に名を知られたカメラLeicaの本社があった。それよりもこの町は1771年頃のまさしく"若きヴェルテルの悩み"の舞台で有名であるということを知った。若きGoetheが何度となく訪れた恋人Charlotteの家があった。その家は石畳の町の中心、昔のドイツ騎士団建物の一角にそのまま残され、今は博物館としてピアノ、手紙などその当時の様子をそのまま保存していた。
  ドイツ騎士団領地の法官を父にもつ娘Charlotteは母親が亡くなるとき婚約者を決められる。次女にもかからわず家事、10人の弟妹の世話をする明るくてやさしくしっかりした女性であった。まもなく法律官吏としてWetzlarに赴任してきたWertherと出合う。Wertherはたちまち彼女のとりこになるが、彼女は婚約者と結婚してしまう。その後も手紙などで連絡を取るが、ある日出会った時、彼が絶望的な愛の告白をする。この時歌うアリアがこのオペラで最も有名な"Warum weckst du mich auf, du Fruehlingshauch(なにゆえにわれを目ざますや、春の精よ)"である。しかし、彼女は町を出て欲しいと嘆願し結局Wertherは去る。自殺の心配をした彼女は彼を追うが、彼の家に入った時にはすでにピストルで致命傷を負っていた。この時初めてCharlotteは彼に愛を告白するがまもなく息絶える。Goetheは実際には自殺はしていないが、Goetheの友達の自殺事件をからめてこの話は出来ている。
  現存する道徳、論理的合理主義に対立し、あくまで自分の感情を第一に行動する若きGoetheの生き方がありありと感じられるお話である。人生にとって論理的合理主義一点張りでよいのか。この主義が行きすぎると、人間の最も人間らしい感情というものが無視されることがおうおうにして起こる。また、すくなくとも若い世代は論理的合理主義よりも気持ちの高ぶりを大いに優先させる生き方が必要と思うし、それが若者の特権のように思う。現在我々の回りの若い世代を見ているとむしろ若くして老成してしまっている人が多いと感じるのは私だけなのか。若きGoetheは人間の感情こそすべての創造の源であると云いたかったのではと思う。

 このオペラのクライマックスは何といっても有名なアリア "Warum weckst du ・・・!(なにゆえに・・・)”である。気持ちの高まりを作曲者 Massnet は見事に表現し、聴くものに感情移入させる。今までもCDで Pavarotti や Domingo の歌で何回も聴いているが、生で聴くのは初めてであった。

 歌手はドイツ人テノール Fink。声の音色・ハリの点でラテン系の人々と比べて不利なように感じた。ドイツ人はむしろバリトンで素晴らしい力を発揮するように思う。そうはいっても、肉声で聴く歌声はやはり素晴らしくすっかり堪能したことを覚えている。

 このオペラで番場ちひろさんは Charlotte の妹 Sophie 役で、Werther との間を取り持つ役目の場面に何回も出てきて、コロラチューラソプラノ独特の華麗な歌声を聴かせてくれた。

1995年9月30日土曜日

オクトーバーフェスト

 オクトーバーフェスト(ビアホールテントの中)
1リットルジョッキーと白いソーセージ
  ドイツの秋祭といえばMuenchenのOktober-Fest。世界的にあまりにも有名なビール祭であるが、規模の差こそあれ、これと同じ様な祭はドイツのいたるところで催されている。祭の名前はいろいろ、Schuezen-Fest(射撃競技会、流鏑馬に似ている)、Kirmes(もともとはKirchmesse、教会縁日の催し物)、Hanse-Fest(ハンザ同盟市民の祭)、Pfarr-Fest(教会の祭)・・・などなど。Dueseldorfの有名なGrosse Kirmes、町内の至るところで見られるSchuezen-FestもOktober-Festに比べて規模も小さく目的も異なっていているが、その様相は全く同じである。その特徴は移動娯楽施設とビアーホール。我が家の町内会Alt-niederkasselのSchuezen-Festにも小さな観覧車、電気自動車などの遊び道具がやってくる。その一角には必ずテントばりの大きなビアーホールが出来る。その中では飲めや歌えやの大騒ぎ。もちろんビールで乾杯。このような祭の一番大がかりなものがこのOktober-Festということになる。
  Oktober-Festと云うからには10月のお祭と思われるけれど実際はほとんど9月に行われる。今年も9月16日(土)に始まり、16日間開催される。かろうじて最終日が10月1日にかかりOktober-Festの名前を残させている。
  夜遅くなって、Muenchen市内の森、Englisher Gartenにあるホテルに戻ってみると、その周辺は静寂の世界。近くを流れる小川の音だけが聞こえる。翌朝その森の中を散歩すると市内とは思えないほどの静かさのなかに森が広がっている。池には水鳥が遊び、散歩しているすぐそばの木々にひょっこり栗鼠が現れすぐに木の上に登っていく。夫婦で散歩する人、犬と散歩する人、自転車で子供と遊んでいる人。ここは大都会の中心ではないのではと勘違いする。Oktober-Festはどこで開催されているの分からなくなる。
  そしてDueseldorfへの帰り、Muenchenの隣町Dachauに立ち寄った。ナチス時代無数にあった強制収容所跡の一つが残されている。お祭の歓楽を責めるように暗いドイツの一面を見せつけられる。動と静、明と暗。動と静のコントラストは素晴らしく、とくにドイツ風、静の雰囲気は気に入るところである。しかし、明と暗のコントラストの中で、暗の部分は非常に残念に思う。ドイツを考えるときどうしてもこの暗の部分を常に認識させられる。しかし、この認識が前提にあるからこそ、気がね無くお祭も大いに楽しめるのではないかと感じられた。
  Oktober-Festに続いて、一週間遅れでStuttgartでもお祭が始まった。ドイツ以外ではあまり知られていないが、その地区の名前をとってCannstatter-Festという。ドイツではOktober-Festについで二番目に大きいお祭と云われている。これも歴史は古く1818年以来開催されており、やはり主人公はビールである。こちらの方は10月8日まで開催される。現在ではむしろ時期的に、このお祭の方がOktober-Festと呼ぶにふさわしいような気がする。