1997年7月20日日曜日

前書き

自宅近くのライン川
  1997年7月4日(金)、快晴の関西空港に降り立ったとたん、ムットする気候であった。34℃とすでに真夏の暑さ。一時帰国もなかったことから、この7年弱、経験したことのないものであった。

  三ノ宮駅行き高速バスから見える文字はすべて日本語、ようやく日本へ帰ってきたとの実感が湧いてきた。三ノ宮駅周辺の人の多いこと。30年ほど前よく三ノ宮で遊んだけれどその当時の面影は何もない。大震災のため建物は新しくなってすっかり変わってしまっていた。まだ所々空き地が見られるけれど、かなりの建物・道路は改修され、本当に美しい姿になりつつあった。

  会社の岡本社宅に入居したが、布団はなし。さっそく布団屋を訪れ布団を購入しようとしたが、希望の出来合いのものはなかった。しかし、店の主人が夕方6時までに希望のものを作って届けるという。結局約束どおり布団は配達され無事その夜から新しい布団で寝ることが出来た。ドイツではなかなかこうは行かなかったことが思い出された。

  1990年12月19日、アンカレッジ経由デュッセルドルフ行きの飛行機に乗りヨーロッパ駐在員としてドイツに赴任、1997年7月の帰国までの7年弱、駐在員としての毎月の報告書に付け加えて、見たり、聞いたり、感じたりしたことを独断と偏見で書き残した。ここにその内容を紹介する。
帰国便からの明石大橋

1997年6月30日月曜日

帰国

  「今日も熱が下がらない。もともとの風邪はすっかり直ったというのに。」東京女子医大に通ってすでに2週間が経過。医者はいろいろ検査するけれど何の異常もないという。もう駐在員としての赴任は難しいかも知れない。赴任予定日からこの2週間、一応有給休暇で休んだことにしているが、このまま回復しなければいつまで休めるのか、などなど頭の中は混乱を極めていた。ところが数日後の朝、何故か体が軽く熱が下がっていた。即会社に電話を入れ飛行機の手配をし、アンカレッジ経由デュッセルドルフ行きの飛行機に乗った。1990年12月19日のことであった。

  入社当時は海外事業華やかな時。必ず海外での仕事があるというので英会話を習おうかと思っていた矢先、会社の方針は大変換。海外事業から続々撤退すると同時に、海外留学・語学留学などの制度も全くなくなってしまった。その後20数年、国内関係の仕事にすっかり没頭し、外国語との縁は完全になくなってしまっていた。また自慢にもならないが、海外出張もなく、海外旅行もない生活であった。ところが、突然44歳間近になってヨーロッパ駐在員という辞令。すでに老眼の進んでいるものが何故。全く予期していなかった海外への転勤、それも工場勤務ではなく駐在員とは。これから何が起こるかさっぱり見当がつかないという不安が無意識に体のバランスを崩させたようである。

  初めての海外旅行がヨーロッパ駐在員としての赴任の時。来てみれば当然経験したことのないことばかり。特に赴任した季節が悪かった。毎日曇りと雨のぐずついた天気。朝は9時すぎにようやく明けて、夕方も3時過ぎには暗くなってくる。北陸の12月の雰囲気よりまだ暗い。寝泊まりした安ホテルは天井が高くて窓の少ない、まるで監獄のよう。いきなりクリスマス休暇になりレストランまで閉店のため食事にも困った。

  新たに家を借りることになったが、電話取り付けを依頼しても何回もすっぽかされた。家具も予定通り配達されずイライラがつのった。しかし、寒い冬が過ぎて春になるとようやく家族との生活が始まり、時間と心の余裕が出来るようになった。さらに1年間の生活体験を経過するとヨーロッパでの当初のカルチャーショックは消え去り、また言葉のストレスも無くなっていった。結局は、人間は同じ、ただ生まれ育った環境のために食事、習慣、言葉などの文化が異なるだけと思えるようになった。

  ヨーロッパでのカルチャーショックは難なく解消されたが、全く予期していなかった小さな日本人集団でのカルチャーショックの方が大きな衝撃を与えた。異国文化の違いは体験によりある程度慣れることが出来るが、生き方に対する貧しい価値観には同化することは難しい。このショックがこの小さな集団での活動に大きな影響を及ぼすことになったが、一方では外向きの活動に没頭するパワーを生み出すもとにもなった。ドイツ・フランス・スイス・オーストリア・ベネルックス・イギリスはいうに及ばず、北はノルトカップ、北極圏、西はポルトガル・スペイン・アイルランド・ネス湖、東はポーランド・チェコ・スロバキア・ハンガリー、南はイタリア・シシリー島など仕事にプライベートに車でヨーロッパ中を走り回った。わがベンツとレンタカーで30万Kmは走ったであろうか。

  ヨーロッパの美しい街角、きれいに保存された自然、余裕のある豊かな生活環境を身を持って体験すると共に、一方では歴史的には不正と大変な破壊と非人道的残虐行為なども繰り広げられたことも見せつけられた。宗教戦争、領地分捕り合戦、2度の世界大戦、ナチスによるホローコースト、公害問題、最近では社会主義東欧諸国で噴出したいろいろな問題など。現在の豊かな社会はこれらの大きな犠牲のもとに成り立っていると認識せざるを得ない。

  このような人間の負の歴史はヨーロッパではようやく克服されたようであるが、発展途上国では今なお続いている。産業が導入され一部の人は豊かさを享受しているが、その一部の人の不正がはびこり、ほとんどの人々は、戦争の犠牲、劣悪な環境、貧困のなかでの生活を余儀なくされているのが現実である。発展途上国もヨーロッパ諸国が歩いた道をまた繰り返しているようである。

  不正、破壊、犠牲のない社会発展を遂げるにはどうすればよいのかとつくづく考えてしまう。人それぞれいろいろな面での向上心を持っている。自分をよりレベルの高い所へ持っていきたい。その目標に邁進し目的を達成し、それにより何らかのよりよい境遇を得る。それが自分の生活を豊かなものにすると考える。しかし、本当の向上心とはそのようなものだけなのだろうか。今までの歴史を見てみるとこのような価値観だけが支配的であったがために、結局はいろんな負の歴史も作り出していったのではないか。

  「人間のもつ向上心とその努力は、世界の人々の幸せに役だってこそ価値があるのであって、自分のためだけ、あるいは自分の名誉だけに向けられるならそれは非常に悲しい結果となる。」

  日本では官僚・有力企業の不正・腐敗構造が続々と公にされてきている。日本という国が精神の世界ではいまだに後進国のままであるとの印象を強く受ける。仕事の世界でも新しい価値観が求められているように思う。五十にして天命を知るというけれど自分の力量を見極めながら、7年弱におよぶヨーロッパの生活体験を心に秘め、これからも精いっぱい励んでいきたいと思う。

1997年5月30日金曜日

クレフェルド

  クレフェルドはデュッセルドルフの北25kmの所にあり、染色会社のクレスをはじめ、産業資材織物のフェルサイダッハなど有名なテキスタイル会社があるとともに、イタリアのテキスタイルメーカーのマンテロ社兄弟も学んだというテキスタイルデザイン学科を有する工科大学(ファッハホッホシューレ)、ヨーロッパではフランスリヨンに次ぐ織物博物館などを有し、ドイツの繊維の町として知られている。来欧してすぐの1月、雪の降る日、初めて車でクレス社を訪問、アウトバーンは除雪され問題なかったが一般道路に入ると雪のためスリップし、のろのろ運転で訪問したことを昨日のことのように覚えている。

  この5月19日の月曜日はキリスト教の聖霊降臨祭という日で、デュッセルドルフでは土日と続けて3連休となった。この期間このクレフェルドの東端にあるリン城はフラックスマルクトで大変賑わい、特に小さい子供を連れた親子連れで一杯であった。フラックスとは亜麻のこと。1315年、リン城の回りの亜麻を栽培する農民達が生活必需品と物々交換するために出来た市場がこのフラックスマルクトのはじまりである。その後この市場は食物も含めた生活必需品の市場として発展し、1903年まで続いていたという。このむかしの市場の面影を記念して1975年に年一回のお祭りとして現在のフラックスマルクトが再開され、今は毎年一回この聖霊降臨祭の3連休に開催されている。

  リン城を中心に城内のみならず町の一部も含めて日常生活必需品を売る出店でいっぱいである。特徴は中世のもの作りの有り様をそのまま再現していることである。中世の服装のおばさんが亜麻の繊維から手作業で紡績し、撚糸し、そして手機織機で織物を作る所まで実演しつつ、飾りとしての織物を販売する。また刺繍、ボビンレースなども実演しその製品を販売する。鍛冶屋も中世の装束で飾りものを作る作業を実演し製品を販売する。パン屋も同様。

  興味深かったのは紙屋さん。抄紙法は和紙と同じ技術であるが、透かしの作り方を実演していた。前の列には台がおかれ小さな子が見られるようになっている。子どもたちは食い入るようにその工程を見ていた。出来上がった透かしの入った紙を子どもたちは不思議そうに見入っていた。広いお堀に囲まれた芝生では中世の服装をした騎士たちが日本でいう流鏑馬の実演をしており、ヨーロッパの中世の雰囲気を知ることができた。

  それよりも、このお祭りで感じたのは、もの作りの基本は長い人間の歴史の中で営まれ、現在の最新技術も今までの技術を基礎に成り立っているということである。小さい子供達に昔の人々が創造してきたもの作りの面白味を言葉ではなく実際の目で見て体験させるという機会を与えているようである。

  ある子は亜麻が人の手により美しいボビンレースに変わる姿に、ある子は人の手によって鉄の姿が変わっていく様子に、ある子はパルプが紙に変わる姿に、など興味を示し、自分でもの作りをしてみたいと思う心が芽生えるのではないかと思う。このお祭りが、ドイツのもの作り技術伝承の一つの方法になっていると思った次第である。

1997年4月30日水曜日

ゲーテインスティテュート

  4月1日、私の後任がデュッセルドルフに着いた。デュッセルドルフの飛行場が初めての出会いであった。私より随分若く我が事務所もどんどん若返って行く。翌日銀行口座の開設、日本領事館への登録、日本人クラブへの登録、外人局への登録など手続きはスムースに進んだ。ミュンヘン行きの飛行機まで少し時間があったので、さっそくベンツの店へ行き車を品定めした。新型のEタイプがあり、この車を購入する方向で検討することになった。すぐ飛行場に向かい、彼はミュンヘン経由プリーンへ向かった。これから1ヶ月間ゲーテインスティチュートでドイツ語の研修を受けるためである。25日までは学生気分でドイツの生活にまずは慣れることから始まる。
  6年半前、私がドイツへ赴任したときのことが思い出される。赴任したとたん、湾岸戦争が始まり本社から飛行機の出張中止指示があり、前任者との出張はほとんどなく前任者はそのまま帰国した。その年も5月にフランクフルトでテックテキスティルが開催され、当時は我が事務所ですべて準備していたものだから、メッセ業者との打ち合せなどで大変忙しくしていた。
  また6月にはドルンビルン学会のフォローなど仕事は目白押しであった。このためか当時の上司の判断でドイツ語研修は夏休みまで延期され、ドイツ語研修は結局夏休みも兼ねて行くことになった。いつもは前任者が帰国した直後の月に行くことになっている。研修の間は他の駐在員がカバーすることが前提になっていると説明を受けていた。それが何故か私の場合はカバー出来ないとの判断であろうか。結局7ヶ月後にドイツ語研修を受けることになったのである。
  すでに家族が来ていたので、毎週土日は研修場所のローテンブルグから車で帰宅し家族と共に過ごし、また日曜日の夜にローテンブルグに戻るという生活であった。土日デュッセルドルフに戻った時事務所にも寄り、一週間分の仕事も済ませた。研修を受けつつほとんど仕事もこなすという生活であった。しかも上司からは月報も提出するようにとの指示で月末それら仕事の内容を書いて提出したのを覚えている。とは言え毎日授業は14時で終了することから時間的に余裕があり、久しぶりに学生気分を味わえ楽しい思い出となった。
  しかし、苦い思い出もある。その年の7月7日の日曜日、デュッセルドルフ日本人学校の運動会がラインスタジアムであった。我が娘も出るため家族で出かけた。学校の催しというよりもデュッセルドルフの日本人集団のお祭りのようなもの。とにかく日本の雰囲気を十分に楽しんで翌月曜日の朝3:30デュッセルドルフを出て、ローテンブルグに向かった。ローテンブルグ近くになってすごい霧に出くわしアウトバーンの出口が分からない。予定より随分走って急に出口が見えた。すぐに出るべくハンドルを切ったがスピードは落ちておらず出口カーブのガードレールに擦ることになった。後から分かったのであるがローテンブルグの出口から3つの出口を見過ごしていた。ガソリンも少なくなっていたので近くのガソリンスタンドでガソリンを入れてもとの出口に戻ったところポリスが来ていた。おそらく誰かが電話をしたのだろう。事情聴取となり、事故証明書を発行してもらい若干遅れたがドイツ語の授業を受けた。
  授業の後近くのベンツ営業所へ行くと数日で修理可能とのことで、まもなく元通りの車になった。事故証明のおかげで経費は保険でまかなわれた。すでにヨーロッパ中を我が車で22万Km走り、さらにレンタカーも入れると30万Kmは走っただろうか。車に関する唯一の苦い、そして貴重な体験となった。
  そして家族との夏休みは一週間ほど家族をローテンブルグに呼びドイツ語研修を受けながら過ごすことになった。授業が終わってから車でクレクリンゲン、ビルツブルグ、アンスバッハ、ディンケルスビュールなどドライブ、土日はミュンヘン、ノイシュバンシュタイン城など回り、初めてドイツの観光名所を見て回った。ヨーロッパのお城、中世の町並み、延々と続く平原など新鮮で印象深かった。ドイツ語研修から戻ると、ITMA91デレゲーションの準備などでまたまた忙しい日々に戻った。
  その後、新任者のドイツ語研修は前任者が帰国した後すぐ実施することで続いている。1980年代と違ってわが社もグローバル化が叫ばれ各自それぞれ担当分野で忙しく動き回っており、研修中の新任者のカバーは必ずしも出来ていない。そういう事情で、今回はドイツ語研修を済ませてから引き継ぎを進めるという方式を試すことになったもの。
  後任のドイツ語研修もまもなく終わりいよいよ引継がはじまる。まだ私の帰任先は決まらず実感がわいてこないが、引継の準備と帰国の段取りをしなければならない。この6年半の間一時帰国を何回か段取りしたけれど結局は実現しないままとなった。私の日本時計は1990年12月のままとなっている。そろそろ日本時間にあわせるべく準備をしなければと思う。

1997年3月30日日曜日

シュタインカンプさん

  先月はほとんど出張でつぶれてしまったが、今月に入っても引き続き出張が続き、ようやく16日夜家に帰宅した。食事の後、たまっている日本の新聞とともに、ドイツの新聞Rheinische Postを読んでいると、3月14日付け新聞に新約聖書コリント人への手紙の言葉を引用した死亡記事を見つけた。
Glaube, Liebe, Hoffung
diese drei,
aber am grössten ist
die Liebe
Korinther
Dr.med.Hubert Johannes
Steinkamp
*4, Oktober 1927
†6, März 1997
Ich betrauere den Tod
meines Mannes
Herr,Dein Wille geschehe
Dorothea Steinkamp
Die Beerdigung hat
in aller Stille stattgefunden
信仰、愛、希望
しかし、この3つの中で
最も偉大なのは
愛である
コリント人への手紙
医師 フーベルト ヨハネス
シュタインカンプ
1927年10月4日生
1997年3月6日没
私は夫の死を弔い

神の御心に従います
ドロテア シュタインカンプ
葬儀は内々にとり行われた


 ちょうど6年前の3月末、家族がデュッセルドルフにやってきた。妻はその後子供の学校の手続き、家具荷物の整理などに忙しく過ごしていた。ところが2週間経った金曜日の朝腹痛を訴えた。しばらく様子を見るため私はそのまま出勤したが、夜帰宅するとますます痛みは激しくなるという。ちょうど右下腹が痛むという。

  それで、会社の秘書の自宅に電話を入れたところ、すぐに彼女のホームドクターに電話を入れてくれ、その診療所に出向いた。原因が不明のため取りあえず痛み止めを処方し、薬局で購入し帰宅し様子を見ることになった。しかし、夜になっても痛みはおさまらず、さらには熱も出だした。家庭医学の本で調べると、症状は全く虫垂炎と思われた。

  翌日土曜日、診療所は休みであるが、朝になり秘書からその医者の自宅へ電話を入れてもらった。医者は休みにもかからわず診療所に来るようにとの指示。さっそく見てもらい、これは虫垂炎に違いないとの診断となり、救急病院外科への入院の段取りなどしてくれた。

  さて、病院では手術するには白血球のチェックが必要とのことでさっそく血液検査を受けた。結果は白血球の増加なし。医者はこれでは手術は出来ないとしてまずは入院して様子を見ることになった。そして土日と病院で過ごしたが、腹痛もやわらぎ、発熱もなくなったので退院した。

  しかし、火曜日になるとまた腹痛、発熱し、再度入院。白血球はやはり増加なしとのことで手術はせずそのまま入院した。腹痛は続くが、熱が高くなれば解熱剤をくれるだけで、検査はするけれど治療は全然なし。2週間入院していつのまにか腹痛もなくなり結局原因不明のまま、治療も受けず退院することになった。

  退院するにあたって医者からホームドクター宛手紙が託された。それにはなんらかの感染症で原因は不明との記載であった。さっそく診療所に出向き対応をお願いした。結局薬が処方され、それを飲んで一週間後また来なさいとなった。

  すでに健康な状態に回復していたが、医者の指示に従って食後その薬を飲んだ所、急にふるえと血の気がなくなり嘔吐し寝込んでしまったため、それ以後その薬を飲まないことにした。一週間経って再度検査を受けたところ、薬を飲んでいないだろうと指摘され事情を説明した。薬の量を半分にしてのむようにとの指示で、また一週間のみ続けようやくその医者の全快のお墨付きをいただいた。

  少々話が長くなりすぎたがこのような出来事が昨日のことのように思い出された。この思い出のお医者さんがシュタインカンプさんである。当時はドイツへ赴任した時必ず身体検査を受けることが必要で、その時初めて接したのがシュタインカンプさんであった。その身体検査を受けてすぐにまた妻が病気でお世話になるとは予想していなかった。まだドイツへ来たばかりでどうすれば良いのかさっぱり分からない中で、休日にもかからわず診療所に出てきていただき、本当に救われる思いであった。

  その後我が家のホームドクターとして毎年の健康診断を受け続けた。しかし、ドイツ人と日本人では体格の違いか、基準が違うようで、たとえばコレステロール値が260でも問題ないという。健康診断書を東京の医師に送り見解を聞くと問題との指摘。妻の場合も薬の量が日本人には多すぎた。やはり日本人の体は日本人医師がよく知っていると判断し、3年前マーストリヒトに日本人医師による健康診断所が開設されたため、それ以後マーストリヒトに通うようになった。このためしばらくお目にかかることはなかった。

  本帰国する前には、お会いし挨拶をしてからデュッセルドルフをあとにしようと思っていたが、かなわないことになってしまった。当時のことを思い出すと感謝してもしきれない思いである。せめて、イースター明けに夫人宅を訪問しお世話になった感謝の言葉とお悔やみを伝えるつもりでいる。

  シュタインカムさんの人生の指針は愛であったのだろうと思う。シュタインカンプさんのご冥福をお祈りしつつ。

1997年2月25日火曜日

神々の黄昏

  デュッセルドルフの北30kmにあるエッセンという町はルール工業地帯の中心的町として有名であるが、この町に澤田さんという御夫妻が住んでおられる。ドイツに住んですでに28年、ご主人はエッセン交響楽団のホルン奏者、奥さんはバイオリニストである。お二人とも東京の音楽大学を卒業した後、ケルンの音大でさらに勉強され、現在はそれぞれの分野で活躍しておられる。
  特に親しくなったのは、ご主人と私が全く同い年、そして出身が京都であったためである。話をするうちに、中学校の時の一学年上の友達で音楽高校から東京の音大へ進んだ人がいると話を持ち出したところ、澤田さんの友達でもあることが分かり、ますます身近に感じるようになった。
  その友達は中学時代からブラスバンド部でホルンを習い、当時合唱部にいた私と放課後はよく顔を合わせていた。中学卒業後ホルン奏者になるといって京都の音楽高校へ進み、そこで澤田さんとも友達になったという。当時彼のお母さんはチンドン屋のラッパ吹きぐらいにはなるかもと謙遜しておられたが、その後読売日本交響楽団のホルン奏者として活躍、私も彼がテレビに出演しているのを何回も見て楽しませてもらっていた。今彼はどうしてますかと聞くと、交響楽団をやめて現在はドイツとの文化交流関係の仕事をしていると聞いた。
  エッセン交響楽団は、普通の演奏会の他にエッセンオペラハウスでのオペラ演奏にも出演する。エッセンオペラハウスはデュッセルドルフオペラハウスのように専属歌手はおらず、合唱団以外の歌手はすべて客演で興行している。それぞれの演目に応じてそれを得意とする歌手を招くので、デュッセルドルフよりも聞きごたえがあるという意見も多い。
  昨年、澤田さんご自身が演奏するオペラに招待していただいた。演目はワーグナーの“神々の黄昏”。有名なバイロイト祝祭劇場落成記念公演のために作曲された“ニーベルングの指環3部作”の最後の曲である。ラインの川底の世界にある黄金から作られた指環を手に入れれば世界の権力を手に入れることが出来るとのことからラインの神々が獲得合戦を演じ、神々の孫ジークフリートの活躍をからめ、ジークフリートも悪巧みにより殺されるなど結局は争いにより神々が没落、その黄金の指環はもとのライン川底の世界に落ちつくというゲルマン民族の神話物語である。
  延々6時間、その間主演の歌手はほとんど歌いづめ、さらにはオーケストラも演奏づめ。幕間の休憩の時、ロビーに澤田さんがわざわざ私に会いに来てくれた。こんなに長時間演奏し続けで疲れませんかと聞いたが、プロですからと軽くいなされた。
  ワーグナーはホルンを効かすのが得意で、特にこの曲ではワーグナー自身が考案したという特殊なホルン、ワーグナーチューバを使う。チューバとホルンを組合わせたもので荘重な音色が出る。実際、澤田さんもオーケストラボックスの中で、普通のホルンとこのワーグナーチューバを使い分けしながら演奏されていた。
  6時間もの長時間公演にもかからわずその音の魅力に引きずり込まれた。ホルンが華々しく響く曲であり、ホルン奏者の活躍できる数少ない曲の一つである。それ故招待してくれたものと思う。
  それ以後時間の出来たときにはデュッセルドルフのみならずエッセンのオペラにも通うようになった。今年に入って、プッチーニの“蝶々夫人”がこのエッセンオペラハウスで演じられるというので見に行った。特にこのオペラには思い出がある。高校生の時初めて見たオペラがこの“蝶々夫人”だったからである。当時二期会の中沢桂、友竹政則などが演じていたように記憶する。今回、“蝶々夫人”を演じた歌手は日本女性のしぐさを見事に研究しており、誠に日本女性らしく演じていた。
  しかし、どうしても着物、舞台などは日本と違和感があり、日本人が舞台を作り、衣装を担当することが必要と思われた。とはいえ、本場の“蝶々夫人”を見て声量といい、演技力といい、当時の日本人が演じたものとは格段に聞くものの心をとらえた。当時の日本の公演も日本の一流の人たちではあったが、オペラという文化では層の厚さの違いを感じざるを得なかった。
  3年程前、デュッセルドルフオペラハウスの馬場ちひろさん出演のオペラを鑑賞させてもらったが、その後彼女は契約出来ず現在はフリーで研鑽しておられる。また同じような境遇の女性歌手も何人かデュッセルドルフで生活しておられる。音楽の世界で生きていくのもなかなか大変との現実も身近に見せられている。
  私の中学時代の友達もすでに演奏家としての仕事から離れたと聞く。本場ヨーロッパでもプロとして生きて行くには才能はもちろんのこと、それプラス、強運も大変必要なようである。私自身は才能がないから素人として演奏したり歌ったりして楽しんでいる。才能がないことからかえって気楽に音楽を楽しめる境遇になったといえる。
  なぜか我が娘は中学以来ホルンを吹いたり、バイオリンを弾いたりしている。我が娘を通じて澤田さん御夫婦と知りあいになることになった。これからも澤田さんご夫妻が出演される演奏会にチャンスがあれば出かけて、音楽を楽しませていただこうと思っている。

1997年1月30日木曜日

エトナ火山

  この正月休みは家族で4回目のイタリア旅行。今回は南イタリアに行くことにしたが、懸念されることが2つあった。一つは南イタリアの交通道徳のなさ、そしてもう一つはマフィアの存在である。いろいろ経験してみたいというちょっとした冒険心もあり、これら危惧を押して敢えて車で回ることにした。

  5年前、ナポリを初めて訪れたときは飛行機で入りタクシーを利用した。道は混みに混んでおり、対向車線に車がいないとなると堂々と走っていく。対向車があったらどうするのかと心配したがまたスーットもとの車線には入り込む。とにかく町の真ん中は車の洪水。クラクションがそこら中で鳴り響く。ほとんどの車は当たった跡があり凹んでいる。目の前で当たってもそのままさよなら。赤信号でも平気で進んでいく。こんな所ではとうてい車の運転は出来ないとその時思った。

  さて敢えて今回運転してみるとやはり状況は同じ。赤信号で平気で進んでいく。赤信号で待っていると後ろからやかましく早く行けとばかりクラクションが鳴り響く。うるさいとぶつぶつ一人でいいながら我慢して待つ。前はもちろん右左、後ろまで気をつけて、どんどん前へ進まないと取り残される。後の車は車間距離をほとんどとっていないのでブレーキを踏むにも後を見つつ細心の気配りが必要である。

  少々凹んでも良いのならそんなことお構いなしに進めばよいのであるが。フランスのパリも同じ気配りが必要であるが、信号はちゃんと守っている。信号もあてにならないので、信用するのは我が目だけ。とにかく少しでも空いていているところをわれ先に進まないと前へ行くことは出来ない。しかし大変ではあったが、結局はなんのトラブルもなく、風光明媚なソレント・アマルフィ海岸、コセンツァ、セントジョバンニを経由してシシリー島に入った。

  もう一つの懸念はマフィアの存在。その本拠地はシシリー島のパレルモ。夕方に到着し、車の動きはナポリと全く同じとすぐに認識。すでにナポリで経験済みのため車の運転は特に脅威ではない。ホテルはすぐに見つかり、さっそく車はホテルの駐車場へ。さてこれから夜の町を歩くかどうか。いろんな人からパレルモの夜歩きは危険と聞いている。しかし、ホテルにこもっていてはおもしろくない。とにかく家族で出かけることにした。

  出かけてみると一番の繁華街ローマ通りはミラノなどの中心街と全く同じで危険など感じることはなかった。着飾った若い女性がショッピングを楽しんでいる。お店はどこもあでやかなイタリアファッションであふれている。そして庶民的な市場街プリンシャ通りは魚貝類、野菜、果物などが豊富に並べられ庶民の買い物客で賑わっている。

  魚料理主体のシシリー料理を食べ、パレルモの庶民的雰囲気も味わいホテルに戻ろうとタクシーを探した。しかしなかなかつかまらずレストランの御主人にタクシーを呼んでもらおうとした。すると御主人はチョット待ってとカギを取りに行き結局彼の車でホテルまでわざわざ送ってくれた。恐い体験どころか庶民の暖かい気持ちに触れることができた。マフィアはこのパレルモでも一部の人の世界ではないかと思えた。

  翌朝車で市内を回ると、夜には分からなかった貧しいパレルモも見ることになった。崩れそうな煉瓦の建物で生活している人もいる。また海岸近くにはバラックのスラム街もあり、貧しいシシリー島の一面を見せられた。ミラノ地区の繁栄により得られた税金の相当な額が南への援助に使われていると言うが、それにもかからわず依然としてこのような現実があるのは、やはりマフィアが牛耳ることにより末端庶民への浸透が難しいと言うことなのだろうか。

  シシリー島への援助を物語るものの一つが高速道路。パレルモからカターニャに至る高速道路は広大な草原の山並みの間に延々と続く。この道路はすべて高架式になっており、北イタリアの高速道路よりもむしろ美しく整備されている。

  その途中前方岩石が飛び出た山がポッツンと見えてくる。その山頂はエンナという小さな町になっている。さっそく車でかけ登った。この町からは現在も活動する火山エトナ山が、広大な一面緑の山並みにの奥に見える。ちょうど山梨県側から見た富士山のようである。

  さらにドライブするとカターニャとメーシーナとの中間にもカステルモーラという、やはり山の頂上にできた町に出会う。ここからのエトナ山はちょうど箱根から見る富士である。この山の麓にはギリシャ遺跡で有名なタオルミーナという町もあり、その遺跡からは左下には地中海が見え、顔面には雄大なエトナ山がせっまてくる。これはまた駿河湾からみる富士のようで絶景である。エトナ山頂にはわずかな噴煙が見えるが雪で覆われ冬の富士山そのものである。

  しかし、富士の美しさに比べて若干物足りない。高さはほとんどおなじで、そのすそのも同じように長い。その物足りなさは山の形の違いにあると気がついた。富士は頂上からかなり鋭角的な線ですそのに至るが、エトナ山にはその鋭角さがないためである。富士の素晴らしさを再確認させられた。

  シシリー島をあとにメッシーナからフェリーで大陸に戻り、イタリアのかかとに位置するアルベロベルロ、カステラーナも訪れた。アルベロベルロは平たい黒い小石の瓦で出来た丸い屋根の石造りの家が群を作っており、今までヨーロッパでは見ることのなかった特殊な家の集落であった。日本の飛騨白川郷の合掌造りの集落と同じようにその土地の自然に合わせて、その土地の素材をうまく利用した建物と言える。またカステラーナは鍾乳洞の町。ちょうど秋吉台と同じある。しかし、規模は秋吉台の方が大きいと感じた。そして、アドリア海岸沿いにドライブし、バリ、ペスカーラなど経てローマに入った。

  エトナ山、カステラーナの自然を満喫、アルベロベルロの集落をなかなか趣のある文化と感じるとともに、富士山、秋吉台、飛騨を思い出し、南イタリアと日本の自然、文化の類似性も印象に残った。また、途中なんのトラブルもなく、懸念は思い過ごしで終わり、むしろ庶民の心の暖かさを体験させてもらった旅でもあった。

  これでサルジニア島を除いたイタリアのほぼ全土を車で見て回った事になる。他のヨーロッパの国々に比べて日本とよく似ているところが多かったように思う。似ていると言えば、マフィアの存在、それに汚職構造、膨大な財政赤字も例としてあげることが出来る。

  また一方、命を懸けてマファアと対決する検察庁の人々がいたり、1000人以上にも及ぶ汚職官僚を逮捕し徹底的に追求する司法当局の人々、赤字削減に奔走する政治家もイタリアにはいる。イタリアでよく言われる言葉、“明日の天気は変えることは出来ないけれど、政治は変えることが出来る”の通り、人間の良心は健在である。悪は決して似て欲しくないけれど、人間の良心はぜひともこのイタリアに似て欲しいと思う。

  ドライブの間、南イタリアは気温10~15℃、すっかり冬を忘れていた。デュッセルドルフへ戻ると雪と氷の世界。この大晦日は -20℃まで下がったという。新年早々厳寒のなか、相変わらずウォーキングで通勤開始。ライン川堤防内にできた池は完全に凍り、アイススケート、アイスホッケーに興ずるたくさんの人々で賑わっている。通勤のウォーキングは今年も快調である。

1996年12月30日月曜日

ヘンゼルとグレーテル

  とうとう7回目のクリスマスを迎えることになった。このシーズン、昼間が極端に短くどんよりした空が続くので、6年前の12月デュッセルドルフに赴任した時、なんと陰気な所との初印象。さらには前任者との引継もしないうちにクリスマス休暇に入り店が開いていないことから食べるのも困るなど楽しい思い出は一つもなかった。

  その次のクリスマスは家族とともにローマで過ごしたがやはり店がほとんど閉まり、乗り物もすべてストップ、名所を歩いて回り不便さばかりを感じた。唯一心地良い思い出はバチカン内でクリスマス特別ミサに参列、ローマ法王のすぐ前でお煎餅を口にしたことである。ローマ法王のすべてを包み込むような表情には心がなごむ思いであった。クリスチャンでもないのにお煎餅を口に入れてもらったのであるが、実をいうと列席の最前列にいたものだから醜態を見せてはいけないと隣の人のまねをしただけであった。これはクリスチャンだけに与えられるものと後で聞いた。なにか珍しいものがあれば宗派などお構いなしに首を出したがる。日本人そのもの、後であきれかえった。

  そうこうしているうちに6年がたって暗いのは当たり前と体が覚えてしまい、むしろ暗い中にクリスマスのイルミネーションがきれいに感じるようになった。住めば都、時間が人を慣れさせてくれるようである。そして、12月の25日、26日は家でゆっくりするのがクリスマスの過ごし方とようやく悟り、それ以後旅行はクリスマスのあとでかけることになった次第。

  12月に入ると日本ではべートベンの第9交響曲のシーズンとなる。本場ヨーロッパではこの習慣は全くない。むしろ宗教的な曲が演奏され、しかも教会内のコンサートが催されることが多い。先日もデュッセルドルフの隣の町、メアーブッシュのセントステファニス教会のコンサートを聞くチャンスがあった。曲は時期的によく演奏されるバッハのクリスマスオラトリオ。今までCDで何回も聴いているが、教会でしかも生の演奏を聴くのは初めてであった。ソプラノ、アルト、テノール、バスのソロはプロの歌手、管弦楽はこの町の住民から選ばれたアマチュアの人々。そして合唱はこの教会を中心に活動している合唱団であった。もちろんパイプオルガンも備えた教会であるが今回の演奏はなし。バイオリンなどの音とともにチェンバロの響きが気持ちよく教会内に響いた。このオラトリオはクリスマスに関係するキリスト教のいろいろなお話をアリア、歌い語り、合唱、管弦楽を使い演奏会形式で表現する。これが発展し劇を演ずるようになったのがオペラである。キリスト教のことはもう一つ理解できないけれど、音楽は聴いていて気持ちよい響きを与えてくれる。人類の文化の一つとして今後も世界の人々を楽しませてくれるのだろう。

  もう一つクリスマスに忘れてはいけない催しものがある。年間を通じて12月だけ演じられるオペラ、それはフンパーディングの「ヘンゼルとグレーテル」である。あの有名なグリム童話のオペラ版である。日頃オペラには小さい子供は皆無であるが、この時ばかりはオペラハウスは子供達で誠に賑やかになり、まるでキンダーガルテン。魔女がでてきたり、食べられそうになったり、それぞれの場面で子供の歓声が上がる。普段のオペラではあり得ないことである。そして多い組み合わせは、おじいさん、おばあさんと孫の組み合わせ。お父さん、お母さんと同伴の子どもたちは少ない。子どもたちが初めて見るオペラがこの「ヘンゼルとグレーテル」、成長するにつれてこの思い出をもとにオペラに親しんでいくのである。その最初の案内役がおじいさん、おばあさんというのがヨーロッパの受け継がれた習慣のようである。

  クリスマスマルクトで有名なニュールンベルグ。昨年大変寒い中クリスマスイブを前にして訪れ、グリューワイン、レイプクーヘンを食べ、おみやげに教会合唱隊人形など買った。ドイツの雰囲気は十分経験させてもらった。今回はヨーロッパ生活最後のクリスマスであろうと思い、パリにいく予定である。もちろんクリスマスイブの前にである。ドイツとは違ったクリスマスの風景が見られるか興味あるところである。

1996年11月30日土曜日

マルティン祭

  ヨーロッパの祝日はキリスト教に関係するものがほとんどである。しかし国によって祝日は異なっている。日本では考えられないことであるがドイツでは州によっても異なっており、暦にはこの祝日はどこの州が休みか必ず記入されている。この11月も1日は万聖節(Allerheiligen 、カトリックでお祝いする日が決められていないその他の聖人達をまとめて祝う休日) はデュッセルドルフでは休日であるがベルリンでは休日ではない。また水曜日の20日は懺悔と祈祷の日(Buss-und Bettag)として全国的に休日であったが、今年から疾病保険休日の増加により祝日から除かれることになった。これら祝日の他に昔の聖人を偲ぶいろいろなお祭りがあり、その一つに11月11日のマルティン祭がある。
  11日の前夜10日(マルティンアーベントという)、子どもたちは学校などで自分で作った思い思いの提灯を手に持って町内を歩く。各家庭の玄関先でマルティンをたたえる歌を歌い、そのあとその家の人からお菓子をもらうのである。すでに11月のヨーロッパは日が極端に短くなり暗いどんよりしたうっとうしい雰囲気になるが、それをはねのけるように提灯をもって歩くことが子どもたちの年間の楽しい行事の一つとなっている。今年はたまたまその夜日本からの出張者をデュッセルドルフの旧市街であるアルトシュタットを案内、ちょうどこの子どもたちの行列を見ることができた。その夜はデュッセルドルフ郊外のレストランで夕食をとったが、この日は特別料理の鵞鳥づくし。前菜からスープ、主菜まですべて鵞鳥。もちろんホアグラも含まれていた。
  マルティンはローマ帝国時代現在のトルコに当たるところで、寒さで凍え死にそうな人に出くわし、自分のマントを半分切って与え助けたとのことでこの聖人をたたえこの祭りが行われているという。子どもたちの行列には馬に乗ったマルティン役の大人がこの真っ赤なマントを着ることになっている。この聖人をトゥール大司教にすべく人々が探したが、本人はそのような地位につくことを固辞し隠れていた。しかし、鵞鳥がガーガーと鳴いてマルティンの居所を教えたということから、この時期鵞鳥を食べることになったという。もう一つ理解のできない理由付けがなされているが、実際にはこの時期最も脂がのっておいしことから鵞鳥を食べるのが真相らしい。
  小さいときからマルティン祭を楽しみ、歌を歌いながら家々を回り人間として身につけなければならない当たり前の価値観を無意識のうちに子供に学習させている。この習わしはキリスト教世界でいかに子供を育てるか、その一面を見るように思う。
  ドイツで11月唯一の祝日となった11月1日の万聖節、今年は金曜日になり土曜と日曜で3連休となった。1日から2日にかけて先祖の魂が戻ってくるとされお墓参りをすることになっている。ちょうど日本のお盆と同じ習わしである。しかし、駐在している我々はこの休みを利用して旅行に出かけることが多い。ドイツへ来た年も3連休になり家族で初めてのロンドン・パリ旅行をしたのを覚えている。いままで行っていない所はと探したところ、アイルランドが残っていた。今年はすでに子供達は日本へ帰国してしまったので、夫婦二人で秋深まるダブリン、ベルファーストを訪れることになった。
  アイルランドでは11月1日は祝日ではなく通常通り店は開いていた。北アイルランドのベルファーストとアイルランド共和国のダブリンは電車で約2時間半。ベルファーストの方がダブリンよりぎやかでアイルランド共和国の人々が車・電車で買い物に簡単に出かけている。ベルファースト中心部のシティセンター通りには武装した警官、甲装車が警備にあったている光景を見て、アイルランド紛争は事実と認識する。しかし、町中は活気が見られ武装警官がいなければ紛争など気づくことはない。
  ちょうど山並みをはさんで北アイルランドとアイルランド共和国は別れており、その国境近くの北アイルランド側の町にはユニオンジャックが掲げられ、ここからイギリスと知らしめているようである。世界の至る所で解決の糸口が探せない紛争がたくさんあるけれど、そのうちの一つがアイルランド紛争。こちらの方は人種問題よりも昔ながらの宗教戦争である。その根源はクロムウルのアイルランドへの新教による侵略、その時の残虐な行為が未だに尾を引いている。
  元々カトリックの国であったアイルランドはその後新教たるイギリスの支配になり長い間独立のための戦いが始まる。ようやく第二次大戦後アイルランド共和国の独立が認められたが、新教の人たちが多い北地区はそのままイギリスに残り分断状況となり現在に至っている。しかし、アイルランド共和国では国旗に描かれているように、95%のカトリックと新教とが融和するように三色になっており理念はあくまで融和。北アイルランドでは逆に新教が大多数でカトリックは表面上では差別はないというが潜在的に差別があるという。このような現状から、北アイルランド独立の運動がいまだに続き、テロ事件が続発している。
  世の中5%の極端なものがいれば、その反対の極端なものも5%おり、20%はどうするか迷っている人、そして残り70%は無関心な人との分析をした人がいるが、このような紛争の発端はこの極端な5%の人間のなせる技。5%で全体を動かすには結局は相反対する極端な5%を抹殺すれば後の90%をコントロール出来るという方法論。そのやり方は、ごり押したる武力的方法、あるいは詭弁をたっぷり含んだ理論整然たる発言で反論を許さない言論抹殺の二つの方法があるようである。
  クロムウェルによるイギリス新教の清教徒革命はこの二つの方法論を駆使して達成されたもののような気がする。それ故まもなく反動でこの革命も続かず、本格的な市民革命は結局名誉革命まで待つことになったのではないか。このクロウムウェルが犯した大きな過ちが今もアイルランドの人々を苦しめていると言える。
  同じキリスト教の世界でマルティンとクロムウェルと歴史に名を残した人物がいる。国を越えた多くの人々の共感が得られるからこそマルティン祭は続いているものと思う。しかし、クロムウェル祭はイギリスではありえてもイギリス以外の国ではあり得ない。ましてやアイルランドでは拒否されるだろう。より広い世界で、より長い目で物事を見て、普遍的な判断が出来る人間になりたいものとつくづく思う。

1996年10月30日水曜日

ギムナジウム

  海外勤務で困ることの一つに子供の教育がある。将来とも海外で生活することが確実ならばその国の教育システムに乗せその国で教育を終えることもできるが、駐在員の場合ほとんどはいずれ帰国し日本の学校へ通わすのが普通で、帰国した後の編入・入試は大変なハンディになるとされていた。我が次女の場合デュッセルドルフの日本人中学校を卒業後、高校一年からアメリカ系インターナショナルスクールに通い今年6月卒業した。今、日本へ帰国し受験勉強中である。
  しかし、外国の教育システムで2~3年教育を受けると普通の一般入学試験ではなく特別帰国子女枠での試験が受けられるという特権が与えられるようになった。そのおかげで一般入試では合格出来そうもない学校にもいけるようになった。実際、デュッセルドルフインターナショナルスクールからは毎年そのほとんどの卒業生が国立のトップ大学、私立のトップ大学に入学しているのを見るとこの制度の特徴が良く理解できる。わが次女も今回その恩恵にあずかることになった。
  ここドイツでは日本のような大学をめざした受験戦争はほとんどない。小学校4年生で将来の進路を決めるのはちょっと早すぎるとは思うけれど、4年の後5年生からはそれぞれの進路に別れていく。大学をめざすのはギムナジウムという9年制の高校である。大学をめざさない子達は実業高校などに進み就職し、再度技術を身につけるためにマイスター学校へ行きマイスターの資格をとる場合も多い。この場合必ず実務経験と共に理論もマイスター学校で修得するようになっている。ドイツの有名なマイセンの陶磁器技術もこのマイスターによって支えられており、世の中からその技術は高い評価を得ている。
  なぜ受験戦争がないのか。大学進学コースであるギムナギウムの入学には大変な競争があるのではとの疑問が出てくる。しかし、現実には日本のような中高一貫の私立中学めざした小学生の異常な塾通いは見られない。それはギムナジウムにたとえ入っても2年間は仮の期間で入学後は毎日大変な宿題やレポート課題が出されそれについて行けなければ退学となるためである。定期試験に合格点をとるのみならず毎日の課題をこなすことが必須である。たとえ2年過ぎたとしてもこのような環境はずっと続くためその後にも退学、実業高校へ編入する人が結構いるという。知り合いのお子さんがギムナジウムに通っているが、入学時1クラス32人いたのが5年経った今24人に減っているという。ついていけず退学して行ったのである。それ故みんなが無理して入っても意味がないと判断しギムナジウムに子供が殺到しないことになる。とはいってもギムナジウム希望者は増える傾向である。選抜は小学校の先生の推薦が重要な役目をはたす。先生、子供、父兄の三者で話し合って進路を決めることになっている。父兄がぜひともと依頼することもあると聞くが、入学しても結局は退学することが多いという。
  それでは塾は皆無かというとそうではない。数はわずかであるがナッハヒルヘ(Nachhilfe)という民間の補習塾がある。これは文字どおり、ギムナジウムに入った後ついていけない子供を助ける目的で民間の人が独自に営んでいる。能力のある子にとっては学校と家での自発的な勉強が当たり前になっており塾など不要との考え方が一般的である。
  ギムナジウムでは単位を取ると共にアビトゥアという大学入学資格試験に合格すれば大学入学資格を得ることが出来る。これは定員何名というものではなく各学科のある点数以上をとればとれる。また合格したからといってすぐに大学に入れるとは限らない。資格をとればドイツのどこの大学にも入学出来るが、定員があるため自分の希望する大学の欠員がないときは待つことになる。そのときの決まる順序はアビトゥアの点数の高い人から決まる。基本的には日本のように偏差値による大学のランクづけのような考え方はなく、各自はおのおのの多様な目的に従って大学を選んでいる。各大学の格差が少ないこともこのような選択を可能にしている。それでも、医学部の人気が高いのは日本と同じであり、福祉国家ドイツでは同じように福祉関係の学部、獣医学部も大変人気があるという。
  そして大学に入る時期はそれぞれバラバラ。要するに欠員が出来れば次の点数の学生に入学許可が出され単位をとり始めることになる。全員を集めた入学式、卒業式などない。卒業も必要な単位を取り、論文が通ればその時点で卒業、時期は決まっていない。だから入学もバラバラになるわけである。
  ドイツの大学は年限的には日本の大学2年から大学院修士1年までの4年間で、単位は非常に取りにくく4年で卒業する人はほとんどなく、ましてや最低年数2年で卒業する人もいない。早い人でも5年、普通6~7年という。ドイツの大学を出ると与えられる学位Diplomは日本では修士に相当し、その上は博士コースとなる。もう一つ忘れてはならないのがドイツでは小学校から大学まで授業料は無料、どんな貧しい家庭の子供でも能力さえあれば勉強できる。ドイツの活力はこのような教育制度に支えられているところが大きいと感じる。
  ドイツのみならず我が娘の通っていたインターナショナルスクールも日本とはあまりにも違いがある。毎日たくさんのレポート課題が出る。それをこなすには毎日深夜1~3時までかける必要がある。しかし、必ずしもすべてこなす必要なく、できた範囲でも良いのである。しかし、成績は定期試験とともにこの毎日の課題が重要なウェイトを占めることになる。
  また課題は難問を解くのではなく、調べて考えをまとめてレポートを書くのがほとんど。数学、物理、化学の場合は確かに問題を解くという宿題も出るがその問題は習った定理、法則を駆使して解く難問はない。本質を理解させるように工夫した問題ばかりである。自然現象の本質を理解していない場合にはかえって受験の難問より難しい。
  さて日本はどうであろうか。小学校からの塾通い。東京本社に勤務していたとき夜遅く地下鉄千代田線西日暮里駅からどっと乗ってくる塾から帰宅する子達の群を毎日のように見た。日本では当たり前になっている光景であるが誠に異常である。人間としての生き方を無意識のうちに形成していく幼稚園、小学校時代、試験の点だけが人生の目的のような生活。幼いとき子供らしい正常な生活を送り自我が確立してからの受験勉強は目的と手段の区別がきちんと認識され問題は少ないけれど、まだ頭脳細胞の回路がつながりつつある時点での点数至上主義の生活体験は、無意識のうちに偏狭な価値観、特権意識を植え付けていく。昔軍人、いま官僚。このような幼少時代の異常な生活が生んだ結果と私は理解している。
  ドイツへ来て2年目の夏、日本のトップ大学医学部の教授がハノハーでの学会の出席のため来欧された。わが社も医薬事業があるため今回はわが社が面倒を見ることになり、ちょうど医薬担当の駐在員が夏休みであったため私が一週間アテンドさせていただいた。非常に気さくな方で話しやすく安堵したが、そのときのその教授の話。我が医学部に入ってくる連中はほとんどが6年制の中高一貫私立高校出身者で占められ概して入学後の成長は鈍く、大学院に至ってはほとんどは他の大学から入ってくるとこぼしておられた。
  大学はすでに知られた法則を駆使して難問を解くことが目的ではない。今までにない事実の発見、法則の発見、新しい技術の創造など無からのクリエーションが目的である。それには物事に対するこのうえない興味と持久力のある探求心、それに加えて思考の過程で、子供の時から大人に至る無意識のなかでの生活体験から出てくるちょっとしたヒントが効いてくる。記憶力がよいとか問題の回答を早く導き出すとかいう能力とはまた違った、別のパワーが必要とされる。
  明治以後、後進国日本は欧米にキャッチアップするため今の教育制度を完成させた。現在韓国、台湾、中国、東南アジアなど発展途上国といわれる国々も、大学へ入るための競争は日本と全く同じ様相と聞いている。日本の社会レベルはすでに欧米に届いたにもかからわず、その人の養成方法は現在の発展途上国となんら変わらず欧米キャッチアップ型のままであるということである。これから先、日本はお手本のない世界を歩こうとしているのにこのままの人材育成体制ではお先真っ暗と心配する。これからは、人間のクリエーションをいかに引き出すかという所に重点を置いた教育体制が望まれている。ノーベル賞の自然科学の分野ではダントツに欧米からの受賞者が多いのはこの教育の基本的違いから来ているのであろう。
  解決法はないのか。教育の改革は非常に難しいようである。なぜなら制度として改革が出来る立場にある人々は今の受験戦争の中での勝利者であり疑問を感じることがないからである。今から思うとちょうど我々の大学時代の全共闘運動が現在の教育の問題点をいち早く察し改革をめざしたもであったのかと思える。全共闘運動挫折の後日本の教育はいまの現状にまっしぐらに進んで行ったと言える。
  インターナショナルスクールを卒業した学生は一般受験なら合格するはずがないトップ大学に入学して立派な学業成績を残しているという。むしろ受験勉強を勝ち抜いた有名高校の学生よりも伸びるとの話も聞く。このような実績がはっきりしてきたことから帰国子女枠採用の大学が増えている。これはインターナショナルスクールでの勉強法は大学のようなクリエーションの世界では有効であるとの証明であろう。しかしそれだけではないと考える。クリエーションのパワーはいろいろな所に潜在している。受験競争を勝ち抜いた人にももちろんその可能性はある。さらには落ちこぼれていた人、就職経験のある人、それぞれにクリエーションの可能性はある。クリエーションの世界とはこのような多様性を基盤として開けていくものと思う。
  日本の高校卒業者で受験戦争に加わっていない人の中にもクリエーションの世界では活躍できる可能性のある人がたくさんいると考える。改革の基本は帰国子女のような特別選抜の枠をもっとを広げ、一般入試をやめることではないかと思う。すでに工業高校卒業生だけの枠、一点能力だけで選抜する方法、推薦制度など実施されている。しかし、一般入試をそのまま残しておいては逆に大変な不公平である。一般入試を全廃し、すべてそれぞれの特徴ある多選抜方式を採用するのが唯一の解決策のように思う。定員100名なら30名は公立普通高校から、25名は6年制私立高校から、15名は社会人から、15名は実業高校、10名は高等専門学校から、5名は帰国子女などのように。そしてそれぞれの試験はそれぞれに適した違った尺度で選抜する。まずは国立のトップ大学がこのような改革を英断すれば日本の教育も21世紀に向けたクリエーションを尊ぶ体制に変換できるのではないかと思う。
  デュッセルドルフで実際あった話。まだ小学校低学年のお嬢さんがいる若い夫婦が、同じ頃デュッセルドルフにやってきた。近所同士で、しかも日本人小学校も子供が同じクラス、すぐに親しくなり家族ぐるみのおつき合いが始まった。塾(デュッセルドルフにも日本人目当てに塾が進出している)の他にいろんな習い事で両お嬢さんとも時間を刻むような毎日の生活。ある日学校で一方のお嬢さんがもう一方のお嬢さんに「お父さんは日本で一番難しいA大学を出てるの。」といった。一方のお嬢さんも「うちはお父さん、お母さんともB大学(日本で2番目に入学が難しいとされている大学)出ている。」とやり返した。そしてある日学校で物がなくなる事件が起こった。すぐにA大学のお嬢さんがB大学のお嬢さんに「あなたでしょう」と疑いをかけた。その夜、B大学の奥さんがA大学の奥さんに抗議の電話をかけた。A大学の奥さんが「当家としましては今後おつき合いしかねます」といって絶縁状態になってしまった。気まずくなったのか、まもなく両奥さんとも子供をつれて帰国、今では両ご主人とも単身でデュッセルドルフ暮らしをしておられる。個人的に両方のご家族とおつき合いがあったことから、言葉をはさむこともなくこのような話を両方から聞いた。今の教育体制が生んだまことに先の思いやられる出来事と思った次第である。

1996年9月30日月曜日

クロムフォルド

産業革命当時の紡績機械
(クロムフォルド工業博物館)
 その昔、文明としてはヨーロッパよりも中国、中近東のイスラム世界が進んでいたことは、ヨーロッパが絹、羅針盤、天文学など古い文明をむしろ導入した事実から理解できる。しかしこれら中世までの状況は産業革命を節目に一変する。18世紀の後半,イギリスでアークライトが初めて綿紡績の機械を発明、さらにはカークライトが力織機を発明、ここに近代工業がはじまったというのは中学の時習った世界史。18~19世紀の大英帝国の繁栄はここがスタートであった。その中心はダービシャインから北ランカッシャーの地域である。しかしその本格的なスタートの場所がダービーシャインはクロムフォルドであるというのはあまり知られていない。
  1769年アークライトは水力による紡績機械を発明し、まずは小さな規模で生産をスタートした。その場所は現在日本の一合繊メーカーの織物工場もあるノッティンガムである。そして事業を本格的に進めるために1771年に本格的な工場が建てられた。その場所がクロムフォルドという町である。本格的な産業革命はこのクロムフォルドから始まったといえる。この地区には今でもコーツビエラなどのイギリスの伝統あるテキスタイル会社があり幾度となく訪問したことがある。現在では古い煉瓦の工場は一見廃墟のように見えるけれど内部には最新の機械が入れられ付加価値商品の製造が続けられている。地球上で欧米が先進国となった理由は産業革命をいち早く成功させたことの一言につきる。
  イギリスに遅れてヨーロッパ大陸でも産業革命が起こるのであるが、そのスタートもやはりクロムフォルドであることもあまり知られていない。この9月、その産業革命がスタートした旧工場の跡を改造し新しく工業博物館が開館した。その場所はデュッセルドルフから北10kmの所にあるラッティンゲンの町で、その一角はやはりクロムフォルドと呼ばれている。これは、イギリスのクロムフォルドの技術をそのまま大陸に初めて導入、名前まで同じにしたためである。イギリスに遅れること13年、1784年に工場は生産スタートしたという。当時と同じ大きな水車による動力を、皮製のベルトで伝導し、カードから粗紡、精紡の木製の機械を運転して見せてくれる。その後蒸気機関の発明により動力は蒸気になり、さらには電力に変遷してゆく。この近くルール地方には豊富な石炭が産出し,そのエネルギーを使用してこの地区はドイツの重要な工業地帯に発展していったのである。
  スタート当時,安い労働力を求めて,学校に行けない子供を働かせ,一時は500人の労働者の内400人が子供で,残りは女性だったとの記録も展示されている。学校にも行かせず、週6日、毎日12時間の労働をさせてほとんどの子供は健康を害しているという状況の中から、ようやく約70年後に子供保護法が制定されたが、それでも実体は学校6時間、労働6時間となったにすぎなかった。子供の労働がなくなるにはさらなる年月が必要であった。このような初期資本主義の利潤第一主義が作り出した悲しい歴史も展示されている。
  対照的に、この工場を作った人、ビュリゲルマンの自宅はお城のように飾られ、内部は天井、壁に美しい絵が描かれている。工場に接しているこの自宅は別名クロムフォルド城と呼ばれ博物館の一部として公開されている。まさしくお城である。当初の繊維産業がいかに利益のあがる事業であったか。多数の人々の犠牲のもとに産業革命は進行していったことは容易に想像できる。
  まずはイギリスが世界を制覇し、それに遅れてドイツが近代的工業を発達させるが、ドイツは世界の領土分捕り合戦への遅れのあせりからイギリスと対立し第一次世界大戦を引き起こすことになる。さらには第一次世界大戦後の多額の賠償の負担から逃れるためまたまた戦争を引き起こす。このような暗い歴史の大きな原因は結局は産業革命により豊かな物質社会になったにもかからわず,人間の心はまだ貧しく未熟であったためと考える。その未熟さとは弱肉強食の考え方である。生物学的な食物連鎖としての弱肉強食は自然原理と思うけれど、これを理性ある人間社会に適応することは普遍性がなく詭弁である。人間社会の歴史は弱肉強食という詭弁からの克服の歴史でもあるようである。
  この9月,もう一つの象徴的出来事があった。それはルール工業地帯の代表的鉄鋼会社ティッセンの巨大なオーバハウゼン工場跡地に、スポーツ設備、映画館、大ショッピングセンターなどからなる新しい町が2年の準備を終えて開場したことである。産業革命、戦後復興の象徴であった重化学工業のような大量生産型産業は、今ではコスト的に東南アジアを中心とする発展途上国に移転せざるを得なくなった。ルール工業地帯も鉄鋼産業は僅かになり、煙突が建ち並びそこからもくもくとでる煙りの風景はもう見られない。この大レジャータウンのすぐ北にわずか小さなボタ山の跡が見られるだけである。この新しい町は毎日大勢の人々で賑わっている。
  18世紀以後の産業革命を第一次産業革命とすればこの10数年前までは第一次産業革命が続いていたと言える。その流れは、大量生産、効率第一、利潤第一、拡大第一、資源は無限という考え方。しかし、多くの人がその恩恵を享受すると同時にまた、逆に、子供・少女の労働、ばい煙公害、河川の汚染、水銀中毒、オゾンホール、CO2による温暖化、酸性雨などたくさんの人々の犠牲と地球破壊も作り出した。ようやく問題意識が芽生え、欧米を中心に価値観の転換が進められている。
  それは人間として、地球人としてどうあらねばならないかとの観点での実践である。労働環境の改善、労働時間の短縮などはすでに戦後改革が進んできたが、これからはさらに地球規模でのテーマ、セ゛ロ・エミッション、バイオメデレーション、リサイクル、温暖化・酸性雨対策、有限資源の有効利用、ライフサイクルアナリシスなど、検討課題が続々と出てきている。
  すべての人が人間らしい生活が出来る社会となるには産業はどうあらねばならないか、このような考え方で物事を判断することが地球と人類への損失を少なくし、結局はそれがビジネスのメリットになるとの見方。これがまさしくこれからの産業革命,第二次の産業革命ではないかと思う。まだ第一次産業革命の意識から脱皮出来ない人が多いけれど、時代はすでに第二次産業革命が着々と進行しているのを実感する。
  先日の新聞で科学技術論学者の山田国広さんが、それぞれの家庭で“環境家計簿”をつけることを提唱している。企業のみならず家庭でも意識改革が必要になってきているようである。

1996年8月30日金曜日

子犬のワルツ


 
延々と続く石炭搬送用コンベアベルト
 
ヤスナグラ僧院(現ローマ法王の出身僧院)
旧ナチスビルケナウ収容所跡
  子供のころ我が家には親父時代からの骨董品のオルガンがあった。そのころは音楽にそれほど興味もなく触れることは全くなかった。中学になって京都市中学音楽祭があるということで音楽の教師が急遽人選して合唱団を作ったとき、偶然その人選に引っかかった。これが私と音楽とのつきあいの始まりであった。放課後は音楽室で過ごすことが多くなったが、その時上級生のピアノ部のお姉さんが華麗にピアノを弾いていた。その曲はショパンの「子犬のワルツ」。私も弾けたら楽しいのではないかと思い練習を始めた。学校ではピアノ、家ではボロボロのオルガンをたたき始めた。ピアノ部の女性のようには華麗ではないけれど、ようやく弾けるようになったときの感激は今でも覚えている。
  この夏休みの後半はポーランド一周のドライブ旅行。昨年ボランティア活動でドライブしたときはベルリンからの国境越えであった。しかし、車の長い行列に出くわし国境を通過するのに2時間も費やした。今回はそれを避けるためドレスデンから入ることにした。予想していた通り国境での行列はほとんどなく10分で通り過ぎることが出来た。しかし、ポーランドに入ってまもなく高速道路を走り出したとたんお腹をえぐるようにドンドンという振動が伝わる。外観は立派な高速道路であるが表面は凸凹。振動が激しくスピードは90km以上出せない。5年前の旧東独の高速道路と全く同じ。旧東独ではまだ依然として道路の改修工事は続いているが、ドイツの経済力でこの5年間でかなりの部分が旧西ドイツのレベルになってきた。しかし、ポーランドでは高速道路の改修は後回しのようで、むしろ普通の国道が先に美しくなっていた。昨年の時よりさらに一般道路は走りやすくなっている。
  ポーランド南部のカトヴィツェを中心としたシレジア地方は石炭鉱山を基盤として鉄鋼など産業が発達している。ドライブしていると大きな何キロもあるコンベアベルトに出くわした。鉱山から石炭を鉄鋼などの工場へ運ぶコンベアベルトである。15年ほど前、旧共産圏から石炭用コンベアベルトを日本が大量に受注、その基布になる織物をたくさん設計したことがあるが、その製品を使用したと思われる巨大なコンベアベルトをはじめて見ることが出来た。まわりには至る所に炭坑があり、また大きな火力発電所が見られた。この地方は産業が発達、庶民の家も美しく、活動も活発で西欧と変わらない豊かさが見られた。

  このシレジア地方の東にポーランドの古都クラッカウがある。第二次世界大戦にも破壊されることなく昔の建物がそのまま残っている趣のある町である。その一角に有名なユダヤ人街があり、ナチス時代のゲットーの建物がそのまま残されている。歩きながら映画「シンドラーのリスト」を思い出す。一時的にこのゲットーに集められ、まもなく最後に追い立てられてアウシュビッツに運ばれる。その現場がここなのか。このようなことがもう二度とないように広場には犠牲者を弔う碑が建てられている。
  また車で約1時間の所にはアウシュビッツがある。人間世界のもう一つの、価値観が一つしかない世界の恐ろしさを再度見せつけられる。アウシビッツ近くのビルケナウ収容所は、いままで訪れたことのあるブーヘンバルト、テレジン、ダッハウの収容所より、とてつもなく広大なものであった。粗末な煉瓦の土台に木でバラックが造られている。隙間だらけで、今冬経験したような -22℃の時にはたくさんの人々が殺されるまでもなく凍え死んだのではないかと思われた。壁に書かれた標語「Sauber Sein ist Deine Pflicht.」(きれいにしておくのはおまえの義務)は誠に冷血な響きを伝える。
  ポーランドの歴史でユダヤ人はポーランドに同化し、ポーランド文化の一翼を担っていた。しかし、何百万人という人々がガス室から消え、今ではわずか数千人という。50年後、イスラエル大統領がドイツ国会で演説した時の言葉が思い出される。「ナチスが殺害した人々が生きていたならどれほどの書物が、交響曲が、科学的発明が生まれていたであろうか」。人類にとって永遠に記憶にとどめなければならないことと感じる。
  ポーランドで忘れてはならない町の一つ、チェンストホーヴァーにも立ち寄った。ローマ法王パウロ二世の出身地である。そのヤスナグラ僧院はポーランドの敬虔なカトリック信者の総本山。8月15日の聖母昇天祭に向けて有名な「黒いマドンナ」に祈るたくさんの人々が集まっていた。遠くからも数週間かけて歩いて参拝するのが習わしという。幾度となく外国の支配を受けるポーランド苦難の歴史の中で人々の支えになったのは宗教であったのだろう。ポーランドの人々の95%がカトリック教徒というのは理解できる。
  北上を続け、ショパンのピアノ曲を聞きながらようやくワルシャワに入った。さっそくショパンが生まれた家に向かった。その場所は、ワルシャワ郊外西60kmジェラゾヴァヴォラである。小川も流れる木々の茂った広大な庭園のあるスカルベク伯爵屋敷の一角に、二階建ての白い建物が生家として公開されている。父ミコワイはこの伯爵家の家庭教師をしていたのである。ショパンはここで生まれ、生後7ヶ月で一家はワルシャワへ移る。ワルシャワで成長するのであるが、ジェラゾヴァヴォラやその近郊の田舎へは夏休みになるとふるさとのようによく出向いてその地方の郷土音楽に親しんだという。7才の時にはすでに作曲をしているが、マズルカやポロネーズはこれら地方の音楽から感じとったものを作曲したのだろうといわれ、その後の彼の作風の根底になっているという。
  広大な平原と森、その中で生まれた郷土音楽、このような環境の中でショパンははぐくまれた。演奏家としても秀でていたが、それだけだったらとっくの昔に名前は忘れられているだろう。それだけではなかったことで彼は偉大な芸術家となった。いつもの持論であるけれど演奏家はただのテクニシャン、音楽の世界での唯一の芸術家は作曲家であると再度認識した。
  そして最後はグダニスク。古い旧市街と巨大な造船工場が不思議とマッチしている。この数週間前の新聞でこの造船所がとうとう破産したことを知った。しかし、ドックには建造中の大きな船が見られ、依然として工場は動いていた。元大統領のワレサ氏が再建を熱望しているという。
  帝政ロシアの圧政が済めばポーランド分割、ナチスドイツの占領が終われば今度はソ連の圧力、ポーランドの多難な歴史の中でいつも外圧に耐えてきた忍耐力。この造船所から発生した連帯運動も10年もの長きにわたって続け、ようやく勝利を得ることができた。ポーランド人の忍耐力のすばらしさには脱帽せざるを得ない。グダニスク港は貿易港として栄え、近辺はたくさんの輸送トラック、車で慢性渋滞。排気ガスの臭いには閉口したが、北の経済拠点として今後も発展していくものと思う。
  コペルニクス、キュリー夫人、ショパンのような世界文化をになう人物も傑出したポーランド。腕力はないけれど地道に成し遂げる力、人口3800万人とロシア、ウクライナに次ぐ東欧での大きさを持つこの国は、平和さえあれば豊かな国になるとの印象を受けた旅であった。
  この国の偉大な芸術家のおかげで、これからも「子犬のワルツ」を弾いて楽しむことが出来る。今では家族から「子豚のワルツ」とからかわれるけれど自分で弾いて楽しむことほどすばらしいものはない。作曲家ショパンはやはり天才芸術家である。

1996年7月30日火曜日

クレムリン

赤の広場クレムリン向かいのグム百貨店
 
地下鉄の長いエスカレーター
 エルミタージュ美術館
  旧ソ連が人工衛星を世界最初に成功させ、ガガーリン少佐が初めて人間宇宙旅行に成功したのをすぐこのあいだのことのように覚えている。オリンピックではアメリカとメダルの数を競うなどいろいろな面で世界を二分する一方の大国と認識していた。たとえ自由化の後の混乱があったとしても、その昔の栄光というものが残っているだろうと思いつつ、この夏休みロシアを旅した。
  ソ連邦の崩壊直後、食料品もなくなり、パンに並ぶたくさんの群衆をテレビで見たが、現在では何とかお店には商品がでている。西欧に比べればまだまだ豊富ではないけれど、5年前に比べれば向上しているのだろう。モスクワ、セントペテルスブルグの中心地には西欧風のスーパーマーケット、マクドナルドの店も出来ていたが、ほとんどの普通の店はクローズ式で商品を自由にとって見ることは出来ない。いちいち店員にほしいものを伝えて見せてもらうとのスタイル。旧来の売ってあげるとの姿勢がまだ依然として強い。
  ガソリンスタンドも旧来の古くさい給油機が一つか二つ置いただけの小屋で商売しているような店がほとんどである。西欧のガソリンスタンドとしては、フィンランドに近いセントペテルスブルグに数軒のネステ(フィンランドの石油メーカー)の大きな美しいガソリンスタンドを見ただけに過ぎない。チェコ、ハンガリー、ポーランドではすでに西欧の石油メーカーの美しいガソリンスタンドが林立しているのと比べと大きな違いであった。
  日本のポンコツ車が新潟などの港からロシアへ運ばれて活躍しているというが、ロシアではボロボロの車が普通。首都モスクワ、第二の都市セントペテルスブルグでも、ほとんどの車はガタガタ。中にはドイツのDマークをそのまま付けたボロボロのベンツも走っており、ドイツで廃車になった車が、あるいは盗まれた車かもしれないが、十分活躍している。もちろん圧倒的に多いのがラーダなどのロシア製自動車。四角い古くさい車体が道を占領している。
  セントペテルスブルグの一番の繁華街、ネフスキー通りで自動車同士が接触事故を起こすのを目撃、私から見ればどうせ古い車なのに少々へこんでもどうでもよいのにと思うが、交差点の真ん中で長時間にわたって運転手同士口論を続けていた。以前ナポリを旅行したとき同じような場面を目撃したが、当たった後お互いにどこが凹んだか見てそれでさよなら。少々凹んでも平気でなんの口論もなかったのと比べると大きな差を感じる。南イタリア人の陽気さと、ロシア人気質との差なのか。むしろ、ロシアではボロボロの車でもその人にとっては大切な財産となっているためと私には思えた。
  モスクワ、セントペテルスブルグとも泊まったホテルは町の中心から離れたところにあった。そのおかげで、中心地以外の庶民の生活も見ることが出来、またバス、市電、地下鉄を乗り回し、人々の生活ぶりに接することが出来た。
  中心地のモスクワのクレムリン付近やセントペテルスブルグのエルミタージュ美術館付近はきれいに整備され美しいが、中心から離れちょっと庶民的な所に行けば道は凸凹。市電もレールの整備が出来ていないために車輪が外れそう。コトコトとノロノロ運転。それでも歩くよりは早いので何回も乗ることになったが。市電、バスも車体はほとんどボロボロ。出入扉がきちっとしまらないので隙間が空いている。夏はよいが冬はすきま風で寒いことだろうと心配する。
  しかし、さすが旧共産主義の国だけあって住むところは鉄筋コンクリートの高層共同住宅で完備されており、数年前ポルトガルをドライブしたときに出くわしたリスボン近くのスラム街のような貧困街を見ることはなかった。が、高層住宅の外観は良いけれど、近くで見ると窓枠は錆びてボロボロ、さんなどの木は腐っており手入れが行き届いていない。中を覗くとその生活ぶりは質素そのものであった。
  このような後進国とおなじような様相に驚いたけれど、一方では西欧よりもBetterのものも見た。それは地下鉄である。モスクワといい、セントペテルスブルグといい、地下鉄はすばらしい。地下数10mぐらい、エスカレーターは100mもあるだろうか。地下奥深くに、整備された電車が待つ時間もなく数分ごとに走っている。ニューヨークの地下鉄と同じ方式でコインを購入しそれを改札機に入れてホームに向かう。まもなく長いエスカレターが必ずある。長さが100mくらいあるため、普通のエスカレーターよりずいぶんスピードが速い。駅の入口、通路、プラットフォームがすばらしい彫刻などで飾られており、お金をかけていることがよく分かる。ロシア文字が読めないので最初乗るときには戸惑うが、まもなく駅のスタイル、乗り継ぎなどすべて同じシステムになっていることに気がつき、外国人にも乗りやすく出来ていると思った。一回乗車で約30円と非常に安い。
  モスクワではフランス資本で新しく出来たホテルに滞在、値段は一泊250DM相当で値段的にドイツのホテルと変わりはない。また、サービスもよくようやく西欧並になったとの感じ。それに対して、セントペルスブルグのホテルは旧ソ連時代のそれなりの高級ホテル。外観は15階建てで立派に見えるけれど、内部はちょうどユースホステルのような作り方。それに従業員のあいそがない。お湯を出せば赤茶色、なかなか真水にはならなかった。そして価格はなんと一泊約300DM。ビザをとるには権利を持っているロシアの旅行社の宿泊証明が必要という旧ソ連時代の悪習がそのまま残り、やむなくとってもらったのがこのホテル。ドイツの星なしホテル以下のレベルで約300DMは高いと文句をいったが受け入れられず払わされるはめになった。せいぜい100DMが妥当な値段、残りはロシアマフィアが利権でとるのか、個人の懐にはいるのか、まったく不可解な癒着構造である。
  もう一つの体験は、お金の支払いにはUSドルが好まれるということ。激しいインフレのためにルーブルの信頼性がない。食事の請求書も、みやげものもすべてドル表示。ルーブルで払うときは換算して書いてくれる。表面上、経済の帳簿は合わされていたが、いざソ連を解体してみると、数字上膨らんだ経済には実質的なものは何もなく、虚構の経済はまたたく間に崩壊し、年率100%を越すインフレに苦しんでいるのが現状のようである。経済安定化のめどはたっていないとの印象を受けた。
  クレムリンの一党による官僚政治により支配された世界、価値観が一つの世界、それが生み出した良い面と悪い面。官僚が選択し実施したことは確かにそれなりに際だった成果を上げることができる。金も人材も集中的にそれに投入するのだから当然である。宇宙開発、軍備、オリンピック、そして地下鉄。地下鉄はむしろ戦時に備えての防空豪の役目を果たすべく特に力を入れたのだろう。また、ポルトガルで見たようなスラム街はなく、すべての人がそれなりの家に住める。住宅も政策的につくられたものと思う。しかし一方、その選択から漏れたものはすたれてしまう運命になる。地下鉄以外の乗り物はこの部類に入るようだ。
  日本でも歴史に残っている女工哀史のような初期の資本主義の悲惨な歴史体験のなかで、それを解決する考え方として共産主義運動は生まれたものと理解している。明日は生きられないかもしれない貧しい人々が人間らしい生活が出来るようにするには、資本主義自体の矛盾から生成される変革エネルギーにより独占的に権力を持った人が強引に政策を進めないと実現出来ないとする。この変革エネルギーはロシア革命により確認はされたが、その後の独占的権力の存続がさらに大きな問題を発生させた。性善説が成り立てば結果は人間の理性に合致したものになったかもしれない。しかし、権力を握り同じポジションに長くいると、いろいろなしがらみの中で性善説を実践することは難しくなる。聖人がいるといわれる宗教界でさえ非人間的なトラブルがあるのを見ると、性善説は成り立たないようだ。ソ連という国もそれを証明してしまったように思う。
  とは言っても、西欧の国であるポルトガルでさえスラム街で過ごす人々の貧困があるのを見ると、資本主義社会自体にも自ら解決しなければならない課題は依然として残っているといえる。
  人間は広範な多様性を持っている。一つの価値判断で優劣をつけることは出来ない。この多様性を一部の人が優劣を付けて順位付けすることが官僚体質の基本である。その判断が歴史的に見て正しい場合よりも、大きな間違いを犯したことの方が多かったというのが今までの歴史。それぞれの人々がそれぞれの価値の中でそれぞれの分野で最大の能力が発揮できるような世の中ではじめて社会は活性化すると思う。
  さて日本はどうであろうか。バブル経済崩壊後、官僚と金融業界の癒着などようやくその元凶が分かってきた。その行政の体質は旧ソ連クレムリン官僚政治と同じようである。違いは、日本では官僚の横柄さをカバーするだけの一般の人々のまじめな働きがあり、人々は文句を言いながらも知恵を絞り改善・実践を続けるパワーがあることである。今までは官僚の私利私欲をカバーするだけの大きな利得が得られていたので何とかやっていけた。しかし、これからは世界的な経済競争の中で今までのような大きな利得を得るのは期待薄である。旧ソ連と同じような官僚・癒着体質を改善し、多様な価値観の実践が容易になる体制が望まれている。ソ連の解体劇、ロシアの現状をみて現在の日本の問題点を感じざるを得ない。
  市電、バス、自動車などの地上の乗り物と地下鉄との格差、それから乗り物、道路のみすぼらしさ、庶民生活の質素さとは対照的に、都会の中心を歩く女性はファッショナブルで西欧とほとんど変わりない。このアンバランスが現在のこの国を表しているように思う。自由化により一部の人は豊かになったようであるが、国全体としの生活レベルが西欧に近づくにはまだ少なくとも20~30年はかかるように感じられた旅であった。